主人公なら
どうやって手術室前に来たのか覚えていない。
気づいたら、その待合室の長椅子に座っていた。肩にはバスタオルが掛けられていて、服と髪が湿っていた。
涙が乾いて、顔がパサパサしている。手足に力が入らない。顔を洗うこともできず、私はそこから一歩も動けないでいた。
濡れたスカートを見つめる。
「どうして」
火傷を負った両手では、明後日のコンサートでピアノを弾くことは絶望的だろう。
大切なフルートも壊れてしまった。予備の楽器はない。父から貰った、あのフルートが全てだった。調整すれば音が鳴るという故障ではない。あれは確実に廃棄レベルだ。
コンサートは——もうできない。
「どうして……こうなったの……」
私は無気力で、首を絞められているかのように苦しい。
目の前が真っ暗。
もう消えてしまいたい。
そんなことを考えたらダメだってわかってる。でも、こうなってしまった自責の念と、コンサートを中止するしかない悔しい気持ちに押し潰されそう。辺りを漂うただの空気に、プチンッと。
「しほりちゃん。まだここにいたの?」
女性の声が聞こえて、ビクッと体が震える。声が聞こえた方へ顔を向けると、二人の男女が歩いてきた。
おばさんは心配そうに私の顔を覗き込みながら隣に座る。一方、おじさんは壁に寄りかかった。
「もう
おばさんの言葉を聴いて、やっと思い出す。
あぁ、そうか。もう治療は終わったんだっけ。
呼び起こされた記憶は
彼女は反応が薄い私の手を取った。
「いろいろと説明するのはつらかったでしょう」
うん、つらかった。でも私よりも
「
「今度はあなたがゆっくり休む番よ」と寄り添ってくれる。
——嘘だ。だって、手術室に入ったじゃない。
「そうそう。
「……私に?」
「そう、たった一言。『コンサートを中止にしないで』て、言ってたわ」
「無理ですよ……そんなのできっこない!」
「どうして?」
「だって、大切な友達を傷つけたんですよ? コンサートで必要な楽器も壊されちゃったし、私になにができるんですか……! フルートを吹くことができない……一人じゃあなにもできない! 私にはできることなんてないんですよッ‼︎」
奥底に溜まっている気持ちを叫んだら、おばさんはギュッと手を握りしめた。その力強さに、口の両端を吊り上げる彼女を見遣る。
「私の大事な娘を傷つけたのは、あなたじゃない」
その眼差しがあまりにも母のように優しく、荒んだ心に温もりが広がる。
「
「どうして?」
「練習、ずっと頑張ってきたんでしょう? 今年のコンサートで初めて満員になったんだって、前に
「それは……そう、ですけど。私、プロじゃないし……演奏を待ってくれる人なんて……」
それ以上は言えなかった。
「もし、ここで諦めたら勿体無いって思ってるんじゃないかしら」
本人は火傷でピアノが弾けないのにね、と無邪気に笑った。
彼女が言うように、そこまで価値があるのだろうか。
「あなたの演奏をみんなが待ってるのよ?」
私の手を目の前に持ち上げた。彼女の両手が温かい。私の手の奥まで伝わってくる。
「だって、その一人がここにいるんですもの。この細い指が奏でるフルートの演奏を、おばちゃんは楽しみにしてるんだから」
心臓がドクンと鳴る。胸の奥から温かいものが一気に流れ始めた。
さあ、元気を出してといわんばかりに、私を鼓舞するのがわかる。それは真っ暗闇に一筋の光がさしたような気持ちだった。
「そこにいるお父さんもね、あなたの演奏を楽しみにしてるの」
「え?」
視線を向けると、角切りのおじさんがプイッと目を背けた。
……音楽に、いや、私に無関心なのでは?
「でも、ただのアマチュアの演奏を、そこまで……聴きたいでしょうか」
「しほりちゃんがプロじゃなくても、聴いてる方はそんな細かいことを気にしてないわよっ」
「う、嘘ですよ、そんなの!」
うふふふふと陽気に笑うおばさんに、思わず声が大きくなった。絶対にあり得ない、そう思うと声が震えた。
「しほりちゃんはプロという肩書きが一番大事なのかしら」
「プロ、という肩書き……ですか?」
「そう。その肩書きがないコンサートは誰も聴きたくないの? 誰もコンサートを開かないのかしら?」
「いえ……吹奏楽部の定期演奏会とかもあるし……人気で連日開催される学校もあります」
「そうでしょう? 学校の生徒さんも、個人で楽器を習っている子も、発表会とか演奏会を開いてるわよね」
私は静かに頷く。
「アマチュアの良いところはぁー……」
そう言うと、おばさんはニンマリと顔を緩ませた。
「音楽の荒削りなところよね! プロってなにかと洗練して、まとまってて、綺麗だから」
「荒削り……」
「私はね、夏希が子供の頃に習っていたピアノの発表会に行くのがとても楽しみだったのよ〜」
その表情はとても穏やかで、親そのものだった。クネクネと体を左右に動かす様を見ると、親バカっぷりが伺える。
「発表会を迎える度に上手になっていく成長ぶり。それを見るのが好きなの。指が滑らかに動くようになったり……あとは音が大きくなったり、小さくなったり……ここまで上手くなるのに、見えないところで、どれだけ練習をしてきたんだろうって」
あとは〜、と言って、
「荒削りな分、プロとは違う個性がないかしら? その個性の中に、夢中になってしまう、一際惹きつけられるものがあるのよね」
「個性、ですか」
「ごめんなさいね。全くよくわからない例え話で」
おばさんは口元を隠しながら、ころころ笑った。
「大切なのは、プロかどうかじゃなくて、聴いてる人に心を打つような曲を奏でることができるか、と私は思うのだけれど」
おばさんの言葉を聞いて、確かになと思った。
私はプロではなく、アマチュアだからと、この状況から逃げようとしていた。
本当に大事なことは、チケットを買ってくれた人は、私達の演奏を聴きたくて買ってくれたということ。
そんな人達に私達は心に響くような演奏を届ける為に、ずっと練習してきたんだ。
黙っていたおじさんが厳つい顔で、じとりと睨みつける。私はその視線の鋭さに萎縮して、背筋が伸びた。
「演奏会の主人公は誰かわかるかね?」
「ん?」
目を点にする。
主人公? 漫画の話?
「日本語、わかるか?」
「わ、わかりますッ」
腹に響くような低い声。怒っているわけではなさそうだが、威圧感が半端ない。
「演奏会の主人公とは演奏者——君だろう。
「私……?」
「主人公が動けば、必ず物事が動き出す。泣いてばかりいないで、君は動くべきだ」
おじさんは相変わらず目は合わせてくれないが、その声色は柔らかい。
「それに、物事にトラブルなんてものはつきものなんだから、まずどうしたらいいのか誰かに相談したらどうだね?」
「相談ですか」
「便利な道具があるじゃないか。ほら、君が俺達に
「あ、スマホ……」
ちらりと、トートバックの中に入ったスマートフォンを見た。
私は漫画とかの主人公にはなれないけど、私と
素っ気ないおじさんに頭を下げる。
「ありがとうございました」
そして改めておばさんに視線を戻し、彼女の手を握り返した。
こんな苦しい現実でも抵抗しよう。
今更なにもしないなんて、悔しいじゃん。
見守っていてくれた校長先生、愚痴を聞いてくれた喫茶店のマスターの存在……ここで諦めたらその人達にどんな顔で会えば良い?
だから諦めない。
諦めちゃ、ダメだ。
「コンサートが続けられるように頑張ってみます」
「
そのおじさんとは、未だに目が合わない。気にしてくれてはいるのだろうけど、どうにも言葉と態度の差があって信じ難いものがあるが。
応えよう。
私は応援してくれるみんなの為に応えるんだ。
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