カフェオレの温もり



   ■ ■ ■



 学校からアパートに帰る気になれなかった私は、喫茶店『マリアージュ』にいた。

 煉瓦造りの建物の両脇には観葉植物が飾られている。木目調のクラシックなドアを開けると、鈴の音が迎えてくれた。

 レザー生地の赤い長椅子に腰掛ける。大きな窓を覗けば、曇り空が広がる。

 天気が良ければ、陽の光が多く入り、店内は一段と明るい。だが、今は曇天の為、普段より早く空は暗くなり、店内をオレンジ色の電灯が彩る。

 耳にイヤホンをし、テーブルに楽譜を広げて、音符を目で追いかける。

 そして、頼んでいたカフェオレを一口。

 鼻に届く珈琲豆の芳ばしい香り。口の中は酸味が少なく、コクのある味わいが広がる。苦味をミルクと砂糖でコーティングし、ブラックが飲めない私には、このカフェオレが好きだった。

 何度もコンサートで演奏する曲を聴いた。ピアノ伴奏の楽譜も覚えるくらいに。

 私はプロではないから、数回のアンサンブルで仕上げることは困難。だからこそ、プロのようなスキルがない分、努力で補う。

 ピアノと合わせにくいフレーズに丸を付ける。

 音程が変わりやすい音符には、矢印で、音程をどう意識しなければならないかを書く。

 曲の最も盛り上がる場所はどこか。逆に、落ち着く場所はどこか。

 鉛筆で書き続けた。楽譜が真っ黒に見えてしまうくらい、何度も何度も。頭が、体が覚えるまで。

「しほりちゃん」

 頭上からお爺さんの声が落ちてくる。

 この喫茶店のマスターだ。黒いカッターシャツに、ブラウンのギャルソンエプロン。ヨーロッパの血が半分入っているらしく、ハーフ顔とスタイルの良さから、渋くて格好いいと大人気。

 スマートフォンの停止ボタンをタッチして、音楽を止めた。

「マスター。ごめんなさい、場所を借りてます」

「ハハッ。ああ、いいんだ。客なんていないんだから、気にすることはないよ」

 マスターはカウンターに座る。自慢の白い髭を撫でながら口を開いた。

「コンサートがもう少しだったかな?」

「はい。九月だから、あと少しですね」

「来月か。あっという間だねぇ、ホッホッホ」

「あ、そうだ。ポスターがあるんですよ。貼ってもらっても大丈夫ですか?」

 トートバッグからノートくらいの大きさのポスターを取り出した。

 巻いた紙を止めている輪ゴムを外すと、露わになる秋空に向かって咲く秋桜の写真。その上部に『クラシック好きの為のクラシックコンサート』と書かれた、自作のポスターだ。

 それを手に取ったマスターは感嘆の声をあげた。

「おお、これは素晴らしい! この秋桜の写真も美しいが、演奏者がとても綺麗で、惚れてしまいそうだよ」

「かなり盛りましたから、特に私の写真は」

 自慢げに話した後、空笑いをする。

 人物紹介で載せた写真。わざわざスタジオで撮った甲斐があった。お見合いの写真にも使いたいほど、綺麗に撮れた。

 紺色のドレスは、体の線がくっきりと出るスレンダーラインで、足元の窮屈さを解消する為に、太腿あたりから切り込みが入っている。

 勝負服のような気持ちで、このドレスに決めた。そして、コンサートではそれを着ると決めている。

「しほりちゃんって、音楽学校を卒業してないんだろう?」

「はい」

「毎年しほりちゃんの演奏会を聴かせてもらっているけど、プロみたいに上手いのに、何故その学校に行かなかったんだい?」

 不思議そうな顔をしていた。そんな実力があるなら、音楽大学に行けばよかったのにと、言いたげな表情。

「それは……」

 十七の夏、音大に行きたいと母に伝えた。

「私も行きたかったんですけどね」

 ハハッと笑ってみせる。頬をポリポリと指先で掻いた。

「実は中学二年生の時に親が離婚したんです。吹奏楽に入って、父が母に内緒で楽器を買ったことがきっかけで、喧嘩になって……父と離れ離れになりました。それから母は音楽に対して嫌悪感しかなくて、音大は猛反対されました」

 視線が落ちる。

「そうだったのかい」

「はい。特に、離婚してから母の心に余裕がなくなって……。母に老後が心配だから早く彼氏を作れ、結婚しろって、最近はずっと言われてるんですよ。困っちゃいました」

「お母さん、生活が不安なんだね」

「だから、お母さんが納得しそうな人を見つけたんです。年上で、仕事ができて、人望もあって、将来有望な人」

「へえ。じゃあ、しほりちゃんは、今お付き合いしてるのかい?」

 私はカフェオレを飲み、その水面を眺めた。

「付き合った方が母は安心するかなって……好きになろうと、私なりに努力したんですけどね」

「付き合ってはいないわけか」

「私は付き合ってないと思うんですけど、相手はどう思っているのか……。話が噛み合わない時があるので」

 些細なお茶をデートと呼ぶところとか。

「その口ぶりだと、その男性とは合わないようだね」

「うーん……その……私が大切にしたいものを一緒に大切にしてくれないというか」

「人の価値観はそれぞれだし、無理やり合わせてもらうものでもないからなぁ」

「それは……うん、そうなんだけど。向こうの大切にしたいことは、付き合わされるみたいな……」

 奈良栄先輩からどこかに遊びに行きたいと言われたら、必ず付き合わされる。でも私のやりたいコンサートの練習は休めと言われる。そんなの不公平だよ。

「なら、放っておけばいいじゃないか」

「え……?」

 マスターの言葉に唖然する。

「んー。簡単に言えば、鬱陶しいヤローってことなんだろ? ホッホッホッ」

「そう! 確かに鬱陶しいヤローなんですよ!」

 私は腹から笑った。テーブルに置いたスマートフォンが震える。

「鬱陶しいヤローからのメールかい?」

 マスターは笑いながら訊く。

「そうですね」

「しほりちゃんの表情が暗かったのは、その男のせいだったわけか」

 ハッとする。

「へ? く、暗かったですか? 表に出さないように気をつけてはいたんですけど」

「しほりちゃんとの付き合いは長いからね」

「そんなにわかりやすいです……? 夏希にも……似たようなことを言われたんで」

 福岡ふくおかくんにも。

「ホッホッホッ! まあまあ。それも長所だ」

 朗らかに笑うと皺が濃くなる。その笑顔が可愛らしい。男性に可愛いだなんて失礼なのかもしれないけど、思うだけならいいよね。癒されるなぁ。

 マスターは壁に掛けられた時計を見て、立ち上がった。

「コンサートを聴きに行くから、頑張ってね」

「はい!」

 頑張らなきゃ。

 数あるコンサートの中で、私達の演奏を選んで、わざわざ足を運んでくれる人がいる。選んでくれた人の為に、無様な演奏は聴かせられない。

「私、頑張ります! だから今後とも宜しくお願いします」

 頭を下げられるだけ下げた。

 来年に繋がるように頑張らなきゃ。アマチュアでもやれるんだって。音大やプロの肩書きなんてなくても、やれるんだって。

 カフェオレを飲む。

 奈良栄ならさか先輩のことを詳しく話せなくても、ほんの少し話しただけで、気が楽になった。

 明日からもっと頑張らなきゃな。

「こんにちは」

 男女のカップルらしき人達が、喫茶店に入ってきた。

 どこに行ってもカップルか。

 そう嫌気がさしていた時、気づく。

「ふ」

 思わず口を塞ぐ。

 福岡ふくおかくんだ。

 しかも靴箱で見た、可愛らしいショートボブの女の子と一緒。若い子は駅前にあるオープンしたばかりのカフェにでも行けばいいのに。

 私は流し込むようにカフェオレを飲んだ。少しずつ飲んで味わいたかったが仕方がない。この場から早く逃げ出したかった。

 楽譜をせっせと片付け、マスターにカフェオレ代を直接手渡す。

「マスター、ご馳走様。また来ます」

 カウンターに座る福岡ふくおかくんの後ろを通り過ぎる。特に呼び止められることもないまま、店を後にした。

 もしかして気づいてない? その方が私にとって好都合だから良いけど、なんかモヤモヤする。

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