風のフルーティスト -Canary-

蒼乃悠生

Prologue:音から始まるリスタート




 私は音に恋をした。




 青い空に真っ白な入道雲が覗く。

 油蝉とツクツクボウシの大合唱が聞こえる、夏のある日。

 額から汗が流れる。制服の中が汗でぐっしょりだ。

 当時、中学三年生の私、眞野まのしほりは、吹奏楽部に所属していた。

 その日も、普段と変わらずフルートと呼ばれる横笛を持って、音楽室から教室に移動する。フルートパートが練習で使う教室は、三階にある一年B組だ。

 その教室に向かって階段を登っていく。

『自由曲、上手く吹けないな』

 中学最後の吹奏楽コンクールで演奏する自由曲。

 部員全員、金賞を獲る為に必死になって練習をしていた。だから私も負けないように、誰よりも早く練習する為に学校へ来た。

 七月下旬から学校は夏休み。

 校舎はとても静か。蝉以外の音といえば、私が階段を上る足音くらい。

 吹奏楽部以外にも部活動はあるのだが、どうやら朝早く来すぎたのか、校舎にいる生徒は私一人のようだ。

『先生、なんで自由曲をコッペリアにしたんだろ……』

 首を軽く傾ける。

 だが、そう考えたってなにも変わらない。そんなことより、もっと部活にとってタメになりそうなことを考えなければ。

『ふわぁああ』

 欠伸が止まらない。

 ちゃんと睡眠時間は確保したつもり。でも、毎日の長時間の練習と、汗が流れる夏の暑さに、体はかなり疲弊していた。

『ふぁあああ。そいや、フルートと低音パートが合わないんだよなぁ。私のピッチが低いとか?』

『面倒臭いなぁ』みんなの前では決して言えない愚痴。

 それを口に出さずに、飲み込むべきだったか。

 言った後、すぐにくらっとする。

『あ、れ?』

 登る足が階段に乗らなかった。

 そして、後ろに引っ張られるように体がぐらつき、大きく開いた双眸は天井を映す。

『わ、わあああ!』

 それは些細な不注意。

 私は階段から転がり落ちた。

『いたたたたぁ……』

 冷たい床に体を強く打ち、動かすと激痛が走る。脚から上へと見渡してみるが、大きな怪我はないようだ。

 腕に目を向けた時、すぐに気づいた。離さないように、ぎゅっと握っていたフルート。

 横笛の楽器は金属にも拘らず、くの字に曲がっていた。

『え?……なんで? ……ど、して、どうして?』

 音が出そうにない姿に息が詰まり、全身の血がひいていく。

 例え部活でしか演奏をしない奏者であっても、楽器は命よりも大切なもの。

 今まで見たことのない楽器の姿に手が震え、心臓を握り潰されていくような心地。動揺に染まった心は、途端に悲鳴をあげた。

『いや、いやいやいやいやいや、いやぁあああぁぁあぁぁあああ!』

 直る?

 こんな状態でも、楽器は直るの?

 いや、直らないかもしれない。

 そう頭に過ぎった瞬間、口が震えた。罪悪感に蝕まれる。命よりも大切な楽器を、私の不注意で壊してしまった。

 ちゃんと寝ていれば、フラッとしなかったかもしれない。

 考え事をしていなければ、階段から落ちないように踏ん張れたかもしれない。

 ああ、ドジだ、私。

『お父さんに買ってもらったのに』

 もう二度と家に帰らない父に買ってもらった、大切な楽器。それに映る歪んだ私は酷く醜い。

 焦点の合わない目が、壊れたフルートの悲しみを表しているように見えた。

『あ、あ、あ、あ』

 父になんて言おう。

 パートリーダーになんて言おう。

 先生になんて言おう。

 私のせいで楽器を壊してしまいました。すみません。

 学校には代わりの楽器がないので、コンクールに出られません。すみません。

 例え謝ったとしても、許してもらえるわけがない。

 我が学校の吹奏楽部は、このコンクールが一番大きな行事であり、一番大きな目標であるからだ。コンクールがあっての吹奏楽部だといっても過言ではないくらいに。

 幻覚が私を責める。


 ——なんで大事な楽器を壊すの。

『ごめ、なさい』

 責められる。


 ——もう学校に楽器がないのに、コンクールはどうするの。

『出られません』

 追い詰められる。


 ——最後のコンクール、出なくていいよ。

『ドジで無価値で』

 ごめんなさい。


 無価値。


 そう口から出た瞬間、張り詰めていた糸がプツンと切れた。

 例えプロや大人と同じようにできなくても、子供なりに努力をする。

 私にとってそれはフルートの道。暖房も冷房もない、気温に左右される環境で体力がどれだけ削られようとも、歯を食いしばり、水と気力だけで練習する。

 あともう一回吹けば、昨日より上手くなると信じて演奏する。あともう一回、あともう一回……そういって何十回、何百回も練習して、昨日の自分より上手くなる。

 そう頑張れるのは、子供なりに良い曲を聴かせたいから。

 みんなと演奏の縦を合わせること、音程を合わせること、ハーモニーを響かせること、沢山のことを楽譜に描かれている〝音〟に込める。

 部員全員と一つになることでしか味わえない胸の高鳴りを、曲に込められた感動を耳で、肌で感じてほしい。

 そんな欲望を抱いているから、どれだけ長い時間、練習しても逃げなかった。部員と意見が食い違って喧嘩しても、どれだけ疲れても、どんな時も楽器を吹くことができるのは、欲望が自分を支えているから。

 でも欲望という糸が、切れてしまった。

 このフルートと共に努力してきたものが全て無価値になってしまった。相棒の楽器を壊すような自分に価値なんてない。

 そんな私がこれからも音楽を続ける意味があるのだろうか?

『もう』

 自分の意思で、

『無理』

 口に出してしまった。

 もう、どうでもいい。どうでもよくなった。

 楽器を握ったまま頭を抱えて、左右に大きく振る。

 しかし曲がった楽器を捨てることができなかった。どうでもいい筈なのに。

『もう……できない……もうフルートなんて吹けない!』

 折角、大切なフルートを買ってくれたのに。お父さん、ごめん。

 その場に蹲った。目に溜まる涙を隠すように。

 それをきっかけに吹奏楽を辞める——つもりだったのだが、友達の夏希なつきに『あと少しで引退だから』と言われて、部員の席だけを置いた。

 それを顧問は嫌な顔をせずに受け入れてくれた。

 結局、私を責める人は一人もいなかった。

 それが、ただ苦しかった。



 吹奏楽コンクールは私の不在のまま終わった。結果は聞いていない。でも、全国には行かなかったのだろう。

 暫くして、私の家に夏希が来た。一枚のCDを片手に。

 避けるように部活の話はせず、夏希は『これ、凄いから聴いてみな。マジでヤバイから』とだけ言って、家にあがることなく、そのまま帰った。

 三年生引退のお別れ会の準備で忙しいのだろう。送られる立場の三年生だけでお礼の曲を演奏するというのだから、暇ではないはずだ。

 自室に戻ってから、押し付けられたCDを紺色のCDプレイヤーに入れる。

『show……? 誰これ』

 ケースを眺めた。知らない名前、知らない男の顔。なかなか渋い顔をしたダンディな男だった。裏面に書かれている曲目を見ずに、私はそれを放り投げた。

 机に顔を伏せていると、流れてきたのはフルートとピアノのアンサンブルだった。

 流れるようなピアノをバックに、フルートは——エネルギッシュなのに、繊細で、そして優雅な音色。

『え?』

 思わず顔を上げた。

『これ、本当にフルートの音……?』

 その音は聴いたことがなかった。

 輪郭は柔らかいのに、芯がある音色。

 冷静になれば、そう答えるだろう。でも、今はそう言いたいのではない。

 楽器全体が響いてる。無駄が全くない。空気の雑音が微塵も聴こえなかった。

 スピーカーから流れる音は、部屋を揺らすように響く。生の音でもないのに、その音の存在感は、今まで聴いたなによりも強烈だった。

 女の歌声かと思ったら、男のように勇ましく吹く。

 これ程ハッキリと吹き分ける演奏者は初めてだった。そして、どんな音域でも、どんなフレーズでも、音の響き方が全く変わらない。これがプロの音——

『本当に、これ吹いてるの日本人⁉︎』

 私は慌ててケースを手に取った。

 勉強の為に聴いていた日本人のフルート奏者は、国民性が反映されるのか、演歌などの四拍子が得意で、ちょっと粘り気味に演奏しがち。真面目で固い音が多い。勿論、それが悪いと一蹴するわけではない。要は相性の問題だ。

 一方、世界に目を向けてみると、同じ楽器なのに音の響きは異なる。

 自然豊かな環境だからなのかはわからないが、よく伸び、深く、艶やかな響きに、幅広い表現力。広大な舞台のゲームやアニメ、ドラマ、映画なら、きっと相性が良いだろう。

 様々なフルーティストを聴いてきた中で、彼は異端だった——

『音がちゃんと〝鳴って〟る』

 衝撃だった。私が知っているフルート奏者の中でも、彼のレベルはずば抜けていた。

『日本人なのに、日本人っぽくない音色』

 驚きを隠せないとは、このことをいうのだろう。同じ日本人なのに、こうも違うとは。気づけば、私は夢中になっていた。

 そして、なによりも彼のタンギングは超絶技巧ちょうぜつぎこう。人の舌だと思えぬ技に、度肝を抜かれた。

『なにこれ……速いタンギングなのに、音の頭からちゃんと響かせてる……!』

 彼の技術力と表現力に釘付けになった。

 その時聴いた曲は『カルメン幻想曲』。


 私は、初めて音に恋をした。

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