六月の夜



   ■ ■ ■



 白いトートバッグを右肩に、レモン色のシャイニーケースを背中に掛けて、慣れた住宅街の夜道を歩いていた。

 少しずつ夏が近づいている。夜はまだ涼しい風が吹くが、その風が少しずつ暖かくなっているのを肌で感じていた。今日も雨は降っていないし、このまますぐに夏はやってきそうだ。

 残業後、結局喫茶店には行かずにへ直行した。そのが終わり、帰る頃にはすっかり暗くなっていた。

 一人暮らしをする私は、誰も出迎えてくれないアパートへと帰る。

 最初は、夜に帰宅するのは怖かったものだ。でもここは街路灯が多く、道が明るかったことと、この生活に慣れてしまったこともあって、もう怖いと感じない。

 そして、もう一つ理由がある。

「はー! 今日も疲れたなぁ。書類を整理すればするほど仕事が増える、無限増殖……ヤダヤダ。お母さんの小言もヤダヤダ」

 独り言だ。

 遅い時間ということもあって、周りに人がいないから誰にも聞かれないし、星空を見ながら愚痴を言うとスッキリするのだ。

 見上げた星空は綺麗で、愚痴を吸い取ってくれるかのように。海よりも大きな夜空は、私の悩みがちっぽけのように感じさせてくれる。

「あー彼氏が欲しい。優しくて、助けてくれる彼氏がほしいなぁ。そうなると、やっぱり年上かなぁ」

 それにしても普段以上に独り言が多い。本日は絶好調。いや、歳かな。

 吐き出したい愚痴を全て言い終え、鼻歌を歌っていると、不意に思い出す。

「そういえば、お母さんから連絡が来てない。珍しいなぁ」

 会社にいる時、勝手に電話を切ったのに、母の着信やメールの受信音が鳴っていない。普段なら文句の一言は言うだろうに。

 こんな娘に呆れたのかな。言い過ぎたかもしれないと思いながらも、母の小言を聞かずに済むのは、なんて気分が良いのだろうと、顔の筋肉が緩くなる。

 軽快に、コツコツとヒールの音を鳴らしながら夜道を歩く。

 深夜だからか生活音はなく、遠くから車の走る音さえも聞こえない。耳を澄ませても、どこにも音らしい音がない。

 なによりも不思議なのは、普段はよくジージーと鳴く虫の鳴き声もないことだ。

 その無音の世界は、閉じられた空間のような不気味さだけでなく、心を剥き出しにされるような感覚を肌で感じさせた。

 唯一、そんな世界に音の主張をする私を、生温い風が追い抜いていった。

「?」

 普段から人通りの少ない道。

 でも、なにかおかしい。

 そういえば背後から足音がする。いや、きっと気にしすぎだ。住宅地に誰かいても、全くおかしいことではない。

「……」

 踵を引きずるような音——男だろうか。

 そう思った瞬間、ぞっと背中に悪寒が走る。

 時は六月。太陽のない深夜は涼しいが、寒いと肌で感じることは少ない。それなのに今は、体中の血が凍るような寒気に襲われる。

 忍び寄る恐怖から逃げるかのように、歩くスピードを速めた。

 違う。きっと違う。

 あの足音は違う。誰でもない、ただの通行人の一人に違いない。

 そう思い込もうとする私を嘲笑うかのように、少しずつその足音は近づいてくる。


 音が、怖い——


 そう感じた直後、トートバッグとシャイニーケースを抱えて走り出した。無我夢中で走った。すると後ろの足音も速くなり、付いて来るではないか。

 おかしい。

 私が走ったら後ろの人も走るって、やっぱりおかしい。よくドラマやアニメで見るようなシーンにそっくりだ。

 ストーカー?

 通り魔?

 わからない。でも、後ろの人がなにであっても犯罪者なら怖い。

「ちょ……なんでっ……付いて来るの……⁉︎」

 走る。走る。もっと走る。

 でも、後ろの人は私より速かった。突き放すことは叶わない。高いヒールを履いていたのが、そもそも間違いだ。早く走ること自体が不可能。謎の気配がすぐそこまで迫ってきていた。

「もうヤダ! ……助けて!」

 ガシッと掴まれた腕。まるでそこにボタンが付いていたかのように、私は口を大きく開き、叫んだ。

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