彼の声
「ふ、
『はい』
久しぶりに聴く
それを聞いてほっとしたように、やっと強張っていた全身の力が抜けた。本当に彼と電話が繋がっている。
「今、時間いいかな」
『いいですよ』
目の前にいないから、彼の表情はわからない。スピーカーを通して聞こえる声だけが、相手を知る材料。
怒ってる?
あんなふうに突き放した私を、怒ってる?
そう疑問が浮かんだ瞬間、口を固く閉ざした。
『……
彼の柔らかい声色。高校生とは思えないほど落ち着き払った音に、心音が落ち着いていく。
「あ……」
まただ。またなにも言えなくなってる。
ほら。勇気を、出して。
「あの」
なんて言おう。
なにから伝えよう。
「あのね、あの」
言いたいのに、上手く言葉が出てこない。
今まで起きた出来事への悲痛な感情が、吐き出そうとする口を空回りさせる。いや、口だけではない。胸をぎゅっと絞ったような痛みが、喉の奥をツーンと刺激する。
おかしいな。もう落ち着いたのに。
もう涙も枯れたはずなのに。
目頭が熱い。
「
瞬きを繰り返す度に、次第に視界が潤んでいく。
どうしてだろう。
どうして涙が溢れてくるんだろう。
「ふ、ふく……おか、くん」
名前すら、上手く言い出せなくなって。
パンパンに膨れた不安に小さな穴が開き、そこから涙のように流れ落ちる。弾ける寸前だったそれが、小さくなっていくのを感じた。
「ふぇ……ふえぇ……」
嗚咽が漏れる。
口が麻痺したように言葉が紡げない。喉を締め付けるような苦しさが襲う。
言いたいのに。
電話越しだと、相手の顔が見えないから、対面より気を使う必要がない。それなのに、何故か相手が
「わああぁぁ……ぁぁ……ん」
悲しいとか、つらいとか、苦しいとか、後悔もある。いろんな感情が混ざり合って、ぐちゃぐちゃになってまとまらない。これも言いたい。あれも言いたいと、喧嘩をするように。
なんで。
なんで、こんなにも涙が止まらないの。涙を止めないと、ちゃんと話ができないじゃない。
ダメな三十代だ。
『
変わらない優しい声。
『大丈夫ですか?』
どこまでも優しい。
「だ、大丈夫、じゃ、ない」
ありのままに浮かぶ言葉を口にする。無駄な飾りを付けず、素の心を曝け出したい。
「大丈夫じゃないっ」
口に出すと実感する。今の危機的状況に心が押し潰されそうだということを。
「助けて」
ダメだよ、こんな言い方では困っちゃう。ちゃんと順を追って説明をしなきゃ。
「助けて、
私の方が年上なのに、感情を制御できずに上手く伝えられない。
顔をぐしゃぐしゃにして、電話を切ってしまおうかと思ってしまった。
『わかりました』電話の向こうから、ふっと笑う声がした。
『今、どこですか?』
「え? えっと……どこだったかな……あーえーとー……」
意識はあったけど、ここまで来た時の記憶は朧げだ。
急いで周りを見渡し、病院名がわかるものを探した。意識の方向性が変わったからか、いつの間にか涙は止まっていた。
そこで見つかる、ベンチに付けられた金属製のプレート。そこには寄贈者とメッセージ、そして寄贈先が書かれていた。「四つ葉病院」と。
「あ、あった。私がいる場所は、四つ葉病院だよ」
『四つ葉かぁ……どの駅から行っても遠いし、チャリでも行くのに時間がかかりそうですね』
学校よりもっと向こうの山側でしたよね、と彼は言った。
チラリと腕時計を見る。
十時に針がさしている。こんな時間に高校生がタクシーを使うと問題になりそうだ。
少し悩むように沈黙が流れる。
『
「今から?」
『はい。
アパートと聞こえて、壊されたフルートと傷つけられた
「ごめん、アパートはちょっと……」
ただの記憶でも痛々しい姿に眉間が寄り、表情が曇る。
声でもそれが伝わったのか、彼は『気にしないでください』と言い、
『学校ならお互いに知ってるし、四つ葉からもまだ近い。俺も問題ありません。
流れ星が流れた。
前の彼氏のように、早く言えよと声を荒げない。心の傷を知っているように彼は私のペースに合わせてくれる。
「うん、じゃあ学校で……あ、待って!」
『どうしたんです?』
私は慌てた。だって、
「
またお母さんが
練習場所を探すこと自体は問題ないが、アクセスと環境が良い場所となると、なかなか見つからない。
『あぁ』と
『わかりました。そこらへんは上手く誤魔化しておきますよ』
「でも……」
『心配しないでください。高校生にもなって、自分の母親くらいなんとかできないとダメでしょ』
「……
『気をつけて来てくださいね』
安堵して、息を吐く。
根拠はないけど、なんとかなると心の底から思った。一人じゃないって、こんなにも心強いものなんだ。
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