開けていない匣
週に二回程度だった残業が、現在は毎日ある。そして休日出勤も当たり前になり、心身共に疲弊。そろそろ気分転換にフルートを吹きたいと思うようになっていた。
忙しい仕事に身を委ねたおかげか、それは、もう一年前のように思える。むしろ、もうなかったことにできたらいいのに。
朝、
仕事で忙しい。
しかし、そんなことよりも
偶然でも会うのはまずい。
もし、また話すようなことがあれば、あのお母さんにどう説明すればいい?
私にはもう無理だ。あの人のことを考えると、植え付けられた怒鳴り声と傷つけられたことへの恐怖で体がすくむ。そんな状態で対面できるわけがない。
「
会社のパソコンをぼーっと眺めていると、声が聞こえた。
だが、なにを言っているのかわからなくて、話かけられたのは私ではないと思い込んでいた。私なんかに声をかけるのは、仕事を押し付けたい人間くらいだろう。
「
肩を揺すられた。
その衝撃で我に返り、顔を上げると、すぐ隣に
「あっ!
ハハハと急いで笑顔を作ると、先輩はデスクに小包装されたチョコレートを置く。
「
「チョコ食べて」そう勧められて手に取ってみると、それはアーモンドチョコだった。それを口に入れると甘いチョコレートが広がり、噛んだ瞬間にカリッと良い音が鳴る。香ばしいアーモンドだ。
「いつもありがとうございます。少しだけ、手伝ってもらってもいいですか?」
「いいよ。あまり無理しないでね」
甘いマスクに微笑まれて、コロッと堕ちない女なんているのだろうか。
彼の優しくて甘い言葉に、ほんのりと頬が熱くなる。
先輩は本当に優しい人だなぁ。仕事を覚えるのも、こなすのも早い。人柄が良いから人望もあるし、将来も有望。こんな人と結婚できたら、不満一つもない、自慢の夫になるに違いない。
パソコンと睨めっこしながら、そんなことを考える。
「ちょっと待ってくださいね。見積書を作ってほしいんですけど、それで……見積書の情報を、今から先輩のパソコンに送ります」
メールを開く。
数ある中で、どう見ても不要だと思われる営業のダイレクトメール、そしていかにも個人情報を抜き出そうとする迷惑メールが並んでいた。
私はコントロールキーを押しながら、それぞれのメールにカーソルを合わせてワンクリック。不必要なメールを一通一通選択していく。
「要らない……要らない……要らな」
クリックする指が止まる。一通のメールに目が止まった。
『出会いをお探しの方へ。目の前に現れた男性だけが全てだと思っていませんか? よく思い返してください。その人はあなたの大切にしているものを壊しませんか。傷付ける言葉を言いませんか。暴力は振るいませんか。そんな人と一緒にいては幸せになれません。あなたを大切にしてくれない悪い男はさっさと捨てて、ここで新しい出会いを見つけましょう』
新しい出会い、か。
もし。
もしも、だ。前に付き纏ってきたストーカーが彼氏だったらどうだろうか。
考えるまでもない。
——最悪だ。
そのメールも選択し、青色が付いた。
それにしても、あの
特に被害があったわけではない。風呂場を覗かれたこともないし、変な郵便物が入っていたこともない。鍵もちゃんと締めてるから、部屋に入られた痕跡もない。
彼に気づかされるまでは、怖い思いを一度もしたことがなかった。
そういえば、元気かな——
「
誰にも聞こえない声量で、久方ぶりの名を呟く。
お母さんとの関係、あれから悪くなってないかな。
心配はしているが、連絡することはない。
「結局、連絡先は消せなかったな」
自分から消してとお願いしたくせに、指が動かなくて。スマートフォンの小さな画面に表示された『連絡先を削除』の文字を何度も見た。
何度もそれを押そうと、指を向けた。それと同じ数、指は逸れて『キャンセル』を押した。
何故?
そう訊かれると、明確に答えられない。考えても考えても、連絡先を消したくない答えを得られなかった。
パソコン画面に映る受信トレイ。その中にある削除ボタンを押した。
ここの受信したメールは躊躇わずに消去できるのに。
「
「ひゃっ」
耳元に息がかかる。その吐息がくすぐったかったのと、言いようのない恥ずかしさで、頬を朱色に染めた。
勢いよく見上げると、そこには
「えっと、わからないところがありました?」
任せた仕事の質問だろうか。そう思っていたのだが、
「いや?
忘れてた!
自分のバカさ具合に目眩がした。
見積もりに必要なデータを添付したメールを新規作成し、アドレス帳から先輩の名前を選択する。そして送信ボタンを押すと、心を摘まれたような痛みが走った。
「ッ?」
なんだろう。そっと胸元に手を添える。心が、痛い。
「
名前を呼ばれた瞬間、ぞくりと体が震えた。心臓が握り潰されて血が吹き出したかと思った。これは——得体の知れない、恐怖だ。
冷や汗がこめかみ、そして首元まで流れていく。
周りの音が聞こえない。
息が、できない。
「
カチリと魔法が解ける。
「すみません! えっと、ここの会社の見積書をお願いします! もう送りましたのでよろしくお願いします!」
なんだったんだ。さっきのは一体……。
「で、
パッチリ二重の彼は、悪戯っ子のように笑う。いつもの先輩だ。頭の中で彼が彼だと理解すると、安心した。
ホワイトムスクの甘い香水に頭の奥が痺れるような感覚に陥りながらも、電話の音で我に返った私は「先輩、顔が近いです」と両手で遠ざけた。
鼓動が速い。一呼吸置いた。
「別に彼氏じゃないですよ」
「じゃあ、なに?」
「なにかと言われたら……うーん、後輩、でしょうか?」
「そうなんだ! よかったァ」
安堵したような表情を浮かべるので、私は首を傾げる。
「どうして『よかった』んですか?」
「どうしてでしょーか?」
少年のような、屈託のない笑顔を向けられる。
先輩にとって、私は特別な存在?
「今日、仕事が終わったら時間ある?」
「えっと、はい。大丈夫です」
「じゃあ、また後でね」
これはデートというのでしょうか。
状況の変化に頭が追いつかず、しばらくの間茫然とした。すると、隣のデスクにいる同僚から肘打ちされる。
茶髪を団子にしている同僚は、なにかあった時に助けてもらうような関係ではないけど、話くらいはできる人。
「先輩とご飯?」
「さ、さあ」
「
「まさかっ……んなわけないよ」
「独身同士、いいと思うよ? 結婚すればいいじゃん。私はもう結婚してるし、応援してあげる。結婚式、呼んでね!」
「いやいやいや、話が急すぎるし」
そう否定したものの、実際は確かにそうかもしれない。
私は三十三歳。先輩は私の三つ上。先輩も親から結婚の話を切り出されていてもおかしくない。母の言葉が蘇る。
『今は一人で生きていけるでしょうけど、歳を食えば独りだなんて不安ばかりなの、わかってる? 安定の生活を手に入れないと、後からつらい思いをするのはアンタよ⁉︎』
まるで呪いの言葉のようだ。どれだけ振り払っても、母の言葉がべったりとくっついてくる。
現実を見ろ、呪いはそう言っているかのように思えた。
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