歳の差の壁
それから二日後。
しほりは残業の予定だったが、上司に体調が悪いと嘘をつき、定時で帰らせてもらった。
家には寄らず、スーツ姿のまま最寄り駅から走り続けた。その足で向かった場所は
汗を拭いたハンカチを握り締め、生徒玄関に入った瞬間、知らない女性の
「援助交際かなんかなの⁉︎」
獣の
ああ、きっと私のことだ。
最悪だと、蹲りたくなるのをグッと我慢する。冷たい壁に手をついて、乱れた呼吸を整える。私は額から流れる汗をハンカチで押さえながら、繰り返し聴こえる声に
ヒールを脱ぎ、靴箱に収める。
下校する生徒達は、怒鳴り声が聴こえる方へ視線を向けていた。集中する視線の矛先こそが職員室だった。
「ちょっとごめんなさいね」
生徒達の間を縫うようにそこへ辿り着くと、私に気づいた男性の先生が手招きをした。
職員室は想像以上に重たい空気。あちらこちらで溜め息が聞こえてきそうな表情の教員達がいた。
先生達に迷惑をかけていることを謝罪しながら、その声がする方へ足を進めた。
職員室の隅にある来客室で、
物腰の柔らかそうな男性は、九十度の位置で腰をかけていた。
「
スーツを着こなした彼は私に気づくと、ニッコリと微笑んだ。深いシワを刻んだ顔は疲れているようだったが、
「あなたなの⁉︎
私が黒革のソファに腰を落ち着かせた直後、年配の女性は私をギロリと睨みつける。
ということは、相当頭にキテいる筈だ。
私は慌てて頭を下げた。
「た、
「しほッ……
「教員のくせに嘘をつかないで! 家に帰ってきたのは十時前なのよ⁉︎ あなたの話では時間が合わないのよ!」
「そんなこと、あたしがわかるわけないじゃないですか! 家までの道のりを監視しろっていうのですか⁉︎」
二人の話が加熱していく。
一昨日のことは、私が一番関わっている。だから勇気を振り絞って割って入った。
「一昨日は、九時過ぎに学校から帰ろうとした時、
ちゃんと理由を聞いて、すぐに帰らせておくべきでした。
そう謝罪すると、
「ほら! やっぱりお前が
「待ってください、少し話をしただけです! 勿論それ以外のことはなにもありませんし、お母様が心配するような関係ではなくて」
「黙りなさいよ‼︎」
興奮している様子で、
体がビクッと震え、言葉が途切れる。感情的になっている母親に殴られるのかと思った。瞑った目を、恐る恐る開ける。
「
「は——」
「全然わかってない!
返事すらまともにさせてもらえない。
そこまで言わなくても。
そう反抗したくなるが、握り拳を作り、口を真一文字に結び、堪える。涙がじわりと滲んでも。会社でもここまで言われたことがなかった。この人は怖いと、全身でビリビリと感じた。
そこに様子を静かに伺っていた男性が、割って入った。
「恐れ入りますが、そこまでおっしゃらなくても」
「教頭は黙ってなさいよ!」
強い気迫に、教頭と呼ばれた男性は押し黙る。
「ちょっと!
突然名前を呼ばれて、顔を上げた。いつの間にか視線は下を向いていた。
「は、はい」
「責任とってくれるんでしょうねえ?」
「責任、ですか?」
「お前のせいで失った
どう、て?
過ぎた時間は戻せない。
その責任をどうとるべきか——お金を支払う? 勉強を教える? 母親の願望を叶える? いや、目の前にいる母親は全て納得をしないだろう。
上手く言葉を紡げずに俯いていると、なにかを掴む音がした。
「んっ!」
突然、顔面にぶつかって来た大きな物。
痛みのある顔を両手で覆う。指先に濡れるモノ。まさかと思い、手を離してみると、そこは赤い血で濡れていた。
視界の隅に映る影——私の近くに母親の鞄が落ちている。その鞄の金具部分が目元辺りを掠り、肌を切ったのだろう。
鞄を見た瞬間、母親に鞄を投げつけられたのだと、すぐに理解した。
「さっさと土下座しなさいよ!」
「お母様!
怒り狂ったように、
その間、教頭がハンカチで血を拭ってくれた。
「……ぅ……ごめんなさい……」
涙が溢れないように。我慢すればする程、声が漏れる。
ただ
三十過ぎの女が高校生と話すことは罪、か。第三者から見たら、そんな歳の差のある奴が話しかけたら、確かに犯罪よね。
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