歳の差の壁

 それから二日後。

 夏希なつきから電話があった。

 しほりは残業の予定だったが、上司に体調が悪いと嘘をつき、定時で帰らせてもらった。

 家には寄らず、スーツ姿のまま最寄り駅から走り続けた。その足で向かった場所は賀翔がしょう高校。

 汗を拭いたハンカチを握り締め、生徒玄関に入った瞬間、知らない女性の罵声ばせいが遠くから聴こえた。

「援助交際かなんかなの⁉︎」

 獣の咆哮ほうこうのような声に目を見開き、声がする方へ向ける。

 ああ、きっと私のことだ。

 最悪だと、蹲りたくなるのをグッと我慢する。冷たい壁に手をついて、乱れた呼吸を整える。私は額から流れる汗をハンカチで押さえながら、繰り返し聴こえる声に苦悶くもんの表情を浮かべた。

 ヒールを脱ぎ、靴箱に収める。夏希なつきにいわれた職員室へ早く行かなければ。

 下校する生徒達は、怒鳴り声が聴こえる方へ視線を向けていた。集中する視線の矛先こそが職員室だった。

「ちょっとごめんなさいね」

 生徒達の間を縫うようにそこへ辿り着くと、私に気づいた男性の先生が手招きをした。

 職員室は想像以上に重たい空気。あちらこちらで溜め息が聞こえてきそうな表情の教員達がいた。

 先生達に迷惑をかけていることを謝罪しながら、その声がする方へ足を進めた。

 職員室の隅にある来客室で、夏希なつきは私より年上の女性と対面して座っていた。黒髪の黒い瞳——まるで深い夜のようだ。

 物腰の柔らかそうな男性は、九十度の位置で腰をかけていた。

眞野まのさん、こちらにお座りください」

 スーツを着こなした彼は私に気づくと、ニッコリと微笑んだ。深いシワを刻んだ顔は疲れているようだったが、夏希なつきの隣に座るように手招いてくれた。

「あなたなの⁉︎ そうを誑かしている女って?」

 私が黒革のソファに腰を落ち着かせた直後、年配の女性は私をギロリと睨みつける。

 夏希なつきの連絡によると、彼女は福岡ふくおかくんの母親。息子の帰宅時間が遅いとクレームに来たようだ。アポイントメントの電話一本もなく、直接学校へ。

 ということは、相当頭にキテいる筈だ。

 私は慌てて頭を下げた。

「た、たぶらかしてる……? 確かに一昨日帰宅を遅くさせた原因は私です。申し訳ございません」

「しほッ……眞野まのさんのせいではありません。この前は福岡ふくおかくんは忘れ物を取りに来ただけですし、そもそも二日前は、八時過ぎまで学校に残っていた理由はわかりませんけど、すぐに帰らせました!」

 夏希なつきはかなり動揺した様子で、私を振り返っていた。そうだよねと相槌あいづちがほしかったのだろうけど、私はなにもできなかった。

「教員のくせに嘘をつかないで! 家に帰ってきたのは十時前なのよ⁉︎ あなたの話では時間が合わないのよ!」

「そんなこと、あたしがわかるわけないじゃないですか! 家までの道のりを監視しろっていうのですか⁉︎」

 二人の話が加熱していく。

 一昨日のことは、私が一番関わっている。だから勇気を振り絞って割って入った。

「一昨日は、九時過ぎに学校から帰ろうとした時、福岡ふくおかくんがいました。どうしてその時間まで学校にいたのか、理由まで訊いてはいないですが」

 ちゃんと理由を聞いて、すぐに帰らせておくべきでした。

 そう謝罪すると、夏希なつきが「それは教員ではない眞野まのさんがやることじゃないですけど、一言連絡がほしかったです」と教師としての立場で言った。

「ほら! やっぱりお前がたぶらかしたんでしょうが! 高校生に手を出すような女なんだから、結婚もしていないんでしょうね! 汚い女! 馬鹿じゃないの! 腐った人間が! どうせこのままバレなければ湊に手を出すんでしょ! ああああああ気持ちが悪い‼︎」

「待ってください、少し話をしただけです! 勿論それ以外のことはなにもありませんし、お母様が心配するような関係ではなくて」

「黙りなさいよ‼︎」

 興奮している様子で、福岡ふくおかくんの母親は体を前のめりにして、テーブルを両手で叩いた。

 体がビクッと震え、言葉が途切れる。感情的になっている母親に殴られるのかと思った。瞑った目を、恐る恐る開ける。

そうはねぇ! 今が大切な時期なの! 人生の分かれ道に差しかかってるのよ⁉︎ この意味がわかる?」

「は——」

「全然わかってない! そうを連れ回すような糞女が理解できるはずがない! あばずれ! ビッチ! 人間の底辺!」

 返事すらまともにさせてもらえない。

 そこまで言わなくても。

 そう反抗したくなるが、握り拳を作り、口を真一文字に結び、堪える。涙がじわりと滲んでも。会社でもここまで言われたことがなかった。この人は怖いと、全身でビリビリと感じた。

 そこに様子を静かに伺っていた男性が、割って入った。

「恐れ入りますが、そこまでおっしゃらなくても」

「教頭は黙ってなさいよ!」

 強い気迫に、教頭と呼ばれた男性は押し黙る。

「ちょっと! 眞野まのさん! 聞いてるの⁉︎」

 突然名前を呼ばれて、顔を上げた。いつの間にか視線は下を向いていた。

「は、はい」

「責任とってくれるんでしょうねえ?」

「責任、ですか?」

「お前のせいで失ったそうの時間! その責任をどうとってくれるの⁉︎」

 どう、て?

 過ぎた時間は戻せない。

 その責任をどうとるべきか——お金を支払う? 勉強を教える? 母親の願望を叶える? いや、目の前にいる母親は全て納得をしないだろう。

 上手く言葉を紡げずに俯いていると、なにかを掴む音がした。

「んっ!」

 突然、顔面にぶつかって来た大きな物。

 痛みのある顔を両手で覆う。指先に濡れるモノ。まさかと思い、手を離してみると、そこは赤い血で濡れていた。

 視界の隅に映る影——私の近くに母親の鞄が落ちている。その鞄の金具部分が目元辺りを掠り、肌を切ったのだろう。

 鞄を見た瞬間、母親に鞄を投げつけられたのだと、すぐに理解した。

「さっさと土下座しなさいよ!」

「お母様! 眞野まのさんに怪我をさせるなんて……これ以上は警察を呼びますよ!」

 怒り狂ったように、夏希なつきは立ち上がって叫ぶ。今にでも引っ叩きそうな勢いだ。

 その間、教頭がハンカチで血を拭ってくれた。

「……ぅ……ごめんなさい……」

 涙が溢れないように。我慢すればする程、声が漏れる。

 ただ福岡ふくおかくんと他愛もない話をしただけ。

 三十過ぎの女が高校生と話すことは罪、か。第三者から見たら、そんな歳の差のある奴が話しかけたら、確かに犯罪よね。

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