カルメン

 最後を飾るのは、ビゼー作曲『カルメン幻想曲』

 昨日、そうくんが突然楽譜を書き換えた、あれだ。

 ラストに入る前に長めの休憩を挟み、その間に私達は次の衣装に着替える。

 私はカルメンをイメージしたAラインの赤いドレスに身を包む。

 実は、カルメンのドレスだけは普段以上に気合を入れて選んだ。

 サテンとオーガンジーの上に、アシンメトリーのローズレースで大人の色気を演出。背中を白いリボンで編み上げて、羽根をイメージして蝶結びで結ぶ。長く伸ばした端が歩くたびに揺れる姿は可愛い。

 それを見たそうくんは「綺麗ですね」と褒めてくれた。女心をよく分かってますなぁと、素直に受け止める。

 一方、そんなそうくんはネクタイの色を赤に変えただけで、基本的に変わらない。スーツの胸元にあるポケットには、よく目立つ黄色い花が挿さっていた。

 整った顔だと前から感じていたが、胸元の黄色と緑色の瞳がより閑麗かんれいさを引き立たせるようだった。

 恐らくオペラのカルメンの第一幕『ハバネラ』にある、カルメンがドン・ホセにアカシアの花を投げつけて去るシーンを意識しているのだと思う。

 管に息を送る彼の胸元が華やかで、ついその黄色い花に目が釘付けになった。

「どうしました?」

「そのポケットに入ってる黄色い花って、やっぱりカルメンが投げつけたアカシアの花をイメージしてるの?」

「当たりです。よく知ってますね」

「原作はアカシアなのに、舞台では赤い薔薇が多いもんね。これがアカシアの花かぁ……」

 それは五センチくらいの花。同じものは見たことがないが、どことなく蘭に似てる気がする。その花弁は、ドレスを広げているような形で可愛い。

 そっと指先で触れてみるとザラッとした。本物の花かと思ったが、どうやら造花のようだ。しかし、とても近くて見ないと作り物だとは気づかない。

 凄いなぁと、まじまじと眺めていると、

「アカシアじゃないですよ。昨日、衣装を取りに家に帰ったんですけど、衣装部屋には無かったんですよね。代わりに母さんがこれを持っていけって」

「そ、そうなんだ……」

 てことは、そうくんのお母さんも、このコンサートを知ってるのかな。

「この花は、えーっと、なんて言ってたかなぁ……」

 と、思い出そうとする彼に、慌てて首を横に振った。

「いいよいいよ。聞いたって、花の名前なんて覚えられないし」

 ちゃっかりそうくんの実家に衣裳部屋があるという告白にも驚いた。流石、音楽一家というのか。服装の小物にもお金がかかってる。

 そんな私にそうくんは、ニッと口の両端を吊り上げる。

「あー、いや、たぶん聞いておいた方が良いと思いますよ」

「それってどういう意味?」

「あ、わかった」すぐに思い出し、

「花の名前は、オンシジューム。これは造花ですけど、本物みたいでしょ」

「うん、本物の花っぽくて騙されたよ」

「花言葉は『清楚』と——」

 間を置いてから、

「『一緒に踊って』」

 花言葉を聞いた瞬間、トクンと、優しく胸が鳴った。

 自然と笑みが溢れる。今から演奏する曲に相応しい花言葉だと思ったから。

「カルメンの為の花言葉みたい。すっごくピッタリ。花言葉通りに、私と一緒に踊ってね」

「もちろんですとも。お姫様」

 そう言って、クスリと笑った。

 ダンスパーティで踊る王子様とお姫様をイメージしているのかな。私をお姫様に例えるなんて嬉しい冗談。だから私もそれに乗っかってみる。

「じゃあ、そんなお姫様からお願いがあるの」

「なんでしょ?」

「今から演奏が終わるまで、敬語はなしでお願いね」

「敬語?」

「仮面舞踏会とかが良い例だと思うんだけど、踊ってる間って、身分や年齢とか関係ないじゃない? それと同じ意味で、私とに立ってほしいの。私もに立って踊りたいから」

 そう。同じ舞台へ。

 それは目の前にあるステージという意味ではない。同じ場所に立つ演奏者にしか感じられない魂のいる場所——精神的な舞台のようなもの。

 どれだけ一緒に音を出して、ぴったり揃っていたとしても、が違う人はいる。

 それを熱量というのか、心構え、それとも雰囲気と説明したら良いのか。どう言葉にすれば良いのかわからないが、全てをひっくるめてそう呼んでいるのかもしれない。

 私は、この曲で一緒に演奏をしている感覚がないのは嫌だった。

 最後の曲はお客さんにとって、この演奏会の印象、評価になるといっても過言ではない。

 だから、絶対に同じ舞台に立って演奏して、お客さんの心に触れるような、余韻を残すような演奏をしたい。

そうくんは徹底して伴奏……縁の下の力持ちをしてくれてるの、凄くわかるよ。だって、とても自由に吹けるもの。それは『さくらのうた』ですっごく実感した。でも」

 力強い眼差しで、そうくんを見遣る。

「それじゃあダメなんだってわかってる。この曲はに立っていなきゃって」

 彼はちょっと驚いたような表情を浮かべた。が、すぐに目を細める。

「わかった。じゃあ、名前も〝しほり〟って呼んでいい?」

 あまりにも素直に応えてくれたから、少し心臓がドキリとする。いや、急に下の名前をさんなしで呼ばれたからかもしれない。聴き慣れていないから。

 私は首を縦に振った。

「でもに立つかどうかは、しほりがどれだけ魅せてくれるか……かな」

 向けられたものは、挑戦的な眼差しだった。

「ドン・ホセも最初はカルメンに興味がなかった。だから、惚れさせるくらい俺に魅せてくれないとには上がれない」

 そう言うと、右手を差し出してきた。

「エスコートして。しほり」

 ドクン

 心臓が大量の血液を運ぶ。

 その口ぶりに、その視線。完全に挑発されている。だからこそ、私は——

「任せて」

 その手を握る。

そう、私の本気を魅せるから。必ずに立たせてみせる」

 グッと顔を引き締めると、彼は楽しそうに微笑み、頷いた。

「その為に、最後にもう一つ」

「ん?」

 ニヤッと悪戯っ子のような笑顔を浮かべる。

「本番直前でごめんね。急遽、お願いしたいことがありまして」

 その時、アナウンスが入った。観客席の明かりが暗くなり、代わってステージは一気に明るくなる。

 限られた短い時間の間に、彼の耳元で囁いた。


 これで準備はできた。

 本気のカルメンを、魅せてあげる——

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