部活ノート
「おし! 気分上々! コンサートの曲に入ろっか」
流れる汗をタオルで拭きながら、
何故だろう? と首を傾げると、呆れたような声色で次の楽譜の準備をする。
「『熊蜂の飛行』が練習曲ってあり得んでしょ」
「そ? 私は指の慣らしにもなるし、コンディションが悪かったらすぐにわかるし、いいと思うけどな〜」
「ロングトーンがない。苦手なのはわかるけど、ちゃんと基本練習しないと」
「苦手じゃないよ! 好きじゃないだけ」
「しほりは連符が好きだもんね~」
「私の強みは連符くらいしかないもん」
「『カヴァレリア・ルスティカーナ』やる?」
「やらないよ」
マジ勘弁! 私はリッププレートを指で拭いながら、首を激しく横に振った。
『カヴァレリア・ルスティカーナ』は、ピエトロ・マスカーニが作曲したオペラ。
ゆったりとした、美しい旋律。ロングトーンがきちんとできていないと吹ききれず、メロディの途中で切れてしまう。
譜面上は簡単に見えるが、いざ吹いてみるとかなり難しい。
それがわかっているからこそ、私は嫌な顔をする。
「じゃ、ロドリーゴ、やろっか」
いくら生徒が帰った後だからといって、音楽室を無限に使えるわけではない。今日は二十一時までと決まっている。時間がない。
楽器に息を吹き込んでいると、突然、ガチャリとドアを開ける音がした。
「あ」
目を向けると、そこにいたのはグリーンアイを持つ、茶髪の男の子——昨日、助けてくれた人だ。緑の瞳なんてそんなに出会えないだろうから、きっと彼がそう。
声を漏らした私に気づいた彼と、目が合う。
「どしたぁ?」
私は慌てて両手を振った。「あ、いや」
「おっ! 珍しいなぁ、
彼女の視線は私を素通りし、音楽室に入ってきた男子生徒へ向けられる。
「すみません。忘れ物を取りに来ました」
あれ? 気づいてない? 私に気づいてない?
最初に少し目が合っただけで、その後からは全く合わない。
「忘れ物って、部活ノートでしょ?」
ニヤッと悪戯っ子のような笑顔をすると、
「えっと、
昨日はありがとう。
そう言おうとしたのだが、彼に話しかけても尚、視線をこちらには向けない。そのまま
「あ、あれ?」
え? 私の存在は無視ですか。もしかして聞こえてなかったとか?
頭上に大量のクエスチョンマークが浮かぶ。
「はい、ノート。ちゃんと今日のスケジュールと感想を書いて、明日提出してね」
「ありがとうございます」
「どういたしまして! 大事なノートなんだから忘れずにね」
「先生みたいにボケないよう気をつけます」
「一言多いんだよ」
私は呆気にとられ、ただ彼の姿を追うだけで終わった。
吹奏楽部顧問の
もし吹奏楽部員なのなら、なんの楽器をしているのだろう。トランペットとかパーカッションとか似合いそうだな。
私の視線に気づいた
「なぁに?
「違うよ」
私は目を背け、リッププレートを無駄に拭きながら、楽譜を見つめる。
ピアノに座りながら
「じゃあ、知り合い?」
「別に」
「あの子さぁ、父親が外国人で、母親は日本人。ハーフだから綺麗な子よねー。性格もよくってさ。荷物を抱えてる時は進んで持ってくれるし、困った時は助けてくれる、凄く優しくて、良い子よ。なかなか紳士で女子からモテモテくんだし、今後が有望だねぇ」
「あ、そう」
私の顔を覗き込んだ彼女は、含み笑いをした。
「しほりは前の彼氏と別れてから、まだ彼氏はいなかったよね。何年いないんだっけ?」
「……………………四年」
「四年かぁ! じゃあ、そろそろ彼氏が欲しくなる時期じゃないかい?」
完全に遊ばれている。こめかみに青筋がくっきりと浮き出た。フルートを持っていなかったらグーで殴ってやるところだったのに、とても残念。
「今度の彼氏は年下狙いかな~?」
「……違います」
ピタッと体にくっついて、茶化してくる夏希を剥がしながら、首を横に振る。そんなつもりはない。歳が離れ過ぎてる。非現実的だ。
「まー、歳の差がありすぎるもんねー。三十三と十七だっけ? 十六歳差かぁ、数字に出したらスゴイな」
「んもー! うっさい!」
「はいはい。いろいろ面倒だから、高校生に手を出すのはやめときなよ」
「だから、しないって!」
楽譜をじっと見つめる。
「一回も目を合わせてくれなかったし」
ふと気づく、こんなに腹が立つのは茶化してくる
昨日のお礼、改めて言いたかったのに。意味もわからず、あんなふうに完全拒否されて、ムカつく。
だけど。
怒りよりも悲しい気持ちが、水面に滴が落ちるように広がった。
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