幸せな気持ちを持っていて良いんだろうか
チョコレート屋の店員さんに手渡された青い紙袋。そこには二つの箱が入っている。
私と
自ら荷物を持ってくれる
恋人でもなんでもないのに二人並んで歩くのは、少し照れくさい気持ちもあるが、嬉しかった。箱の中身を二人で食べるのも恋人っぽいかも。
今だって、もし手を繋いでいたら、周りからカップルだと思われるのだろうか。
頬がほんのりと朱色に染まる。
全てなんちゃっての世界。幸せな未来を頭の中だけで作り上げられる中、不意に過ぎる暗い感覚。
私、こんなに幸せな気持ちを持っていて良いんだろうか?
不意に足が止まった。
人々が行き交う中、彼の背中を見つめる。
コンサートは無事に終わった。
でも最も解決しなきゃいけない問題が、まだ残っている——
「なにも、解決してない」
彼と演奏して抱いた満足感。心が幸せな現状だからこそ、その未解決な不安要素はより暗く、より重たい。
胸元に手を寄せると、不安の鼓動がした。この胸の奥で、ずっと淀んでいる。認識してからそれは、黒い雨雲のように覆っていく。
今だけは見ないでおこう。
頭を大きく振り、暗い感情を払い除ける。
そして彼に追いつかなくちゃと前を見た時、既にその背中はどこにもなかった。
「あ、はぐれちゃった」
人が多い中、名前を叫ぶのは羞恥心から憚られた。
だから、前にいるであろう彼を慌てて追いかける。走れば、すぐに追いつけるだろうと思った。
しかし駅前の人通りの多さが、私の行く手を阻むようだった。人にぶつかっては謝り、よく見渡しながら、彼の姿を探す。
「どうしよ……」
たった一瞬見離しただけ。だからそこまで遠くには行ってない筈。なのに、どこにもいない。似たような人はあちらこちらにいるが、黒のティーシャツを着た
普段からよく通る、慣れた道なのに、不安が心を占める。
オロオロしながらも、目を皿のようにして探した。
そこに、肩を優しく叩く手。
「
見知らぬ、茶色の髪の女性。
「あのぉ、一人ですかぁ?」
「いえ、そういうわけじゃあ……」
「じゃあ、今ぁ、時間ありますぅ?」
「今はちょっと……」
「あなたみたいなぁ、綺麗な女の人に声を掛けてるんですけどぉ、接客とか興味ありません?」
ぐいぐいと彼女は食い下がる。
この手口。嫌な予感がした。
「接客は苦手なんで……」
相手が悪い気にならないように愛想笑いをしていると、女性の後ろから男性が一人、二人。いや、いつの間にか背後にも男性がいる。完全に囲まれていた。
冷や汗がじわりと出る。
「お姉さん、可愛いねぇ! ちょっとやってみない? 儲かるよ〜」
黒髪の短髪で爽やかな青年を演じているのだろうが、ニコニコと笑っているのが逆に怪しい。
突然、後ろにいた男性が両肩を掴んだ。ビクッと震え、体が強張る。私がイエスと答えるまで逃さないつもりなのか。
怖い。あなたなんかに可愛いと褒められても、全然嬉しくない。
「嫌……嫌です。接客なんてしません」
心臓が煩い。勇気を振り絞るだけ振り絞って、ハッキリとノーを突きつけた。どれだけ怖くても、こういう時はきちんと断らないとダメだ。
悪い仕事の勧誘は、曖昧な返答では自分達に都合がいいように捉えるから。しかし、私の勇気を知ってか知らずか、男性は無視をして、勧誘を続けた。
「そんなこと言わずにさ〜、一回だけやってみなよ。アンタだったら、きっとたくさん客取れちゃうから」
「そうそう。大人はすぐに『何事も体験してみないとわからない』って言うだろ。俺らにもそういう姿を見せてよ」
男達も女性と同じように高校生くらいなのだろうか。でもマスクとかで顔を隠していないし、二十代くらいにも見える。それにしても面倒な程、彼らは結託している。
だからといって、私もこのまま負けられない。
「私には接客なんて必要のないものです。人を待たせているので行かせてください」
表情を引き締め、堂々とした態度で挑んだ。
「わかったよ」
一人の男がそう言った。
「あ、じゃあ——」
解放してもらえると思った瞬間、肩を掴んでいた男が強く肩を揉んできた。
首筋に、男の息がかかる——神経が凍結したような気味悪さだった。顔が青ざめる。怒らせたかな。
「もしかしてお姉さん、疲れてない? 肩が凝ってるよ。お試しに
嘘だ。
合法だとか、副作用がないと言って、実は覚醒剤みたいなそういう悪い薬に決まってる。前にニュースで警察官が言ってたもん。そんな口車には乗らないんだから。
それにしても接客の次は薬だとか、どれだけネタを仕入れてるの。
「不安なことが無くなって、幸せになれるよ」
その言葉だけは、よく耳に届いた。
不安なこと——
一瞬だけ、本当に一瞬だけ心は揺らいだ。しかし、
「私、今が幸せなので必要ありません」
確かに問題は解決されてないし、不安がある。でも
嘘はついてない。
というか、最初に女性で安心させておいて、複数の男性で囲むなんて卑怯だ。逃げられない。首元に顔を近づけてこないで! キモい!
「お姉さん、良い匂いする〜! 食べちゃいたいなあ」
「いやいやいや! 触らないで!」
怖い。
助けて。
誰か一人でもいいから助けてよ。どうしてみんな通り過ぎていくの? 見て見ぬフリしないで。こんな駅前のメイン道路を歩く人達は多いから、誰も気づかないわけがないのに。
「やめて、いやぁ……
「なになに〜? 彼氏〜? そんなの忘れてあげるよ〜? 薬でね」
腰元を抱き、両腕を掴んできた。思いきり腕を動かしても離れない。このまま知らない場所に連れ去られたらどうしようと、恐怖が全身を襲う。
股に見知らぬ脚が入ってきたのが見えて、ぞくりとした。これ、ヤバイ奴だ——
「
怖い!
怖いよ!
私に触らないでッ!
誰か助けてよ!
「はーい。お兄さん達、すぐに俺の連れを離さないと警察呼ぶよ」
聴き慣れた声はとても低くて、すぐにはその持ち主が誰かなんて気づけなかった。
頭を上げると、110の数字を画面に映すスマートフォンを片手で持ち、男性達に見せていた。
そしてその表情は額に青筋を張り、
鋭い目をいっそう細め、私の置かれている状況を把握すると、彼は舌打ちをした。演奏で見せた優しい彼とは別人のようだった。
今にも飛びかかるような
「さっさと手ェ離せよ」
怒鳴ることなく、淡々と言ったが、
私の後ろにいる男が肩から両手を離し、軽く手を挙げる。
「誤解すんなよ。俺ら、まだ
そう言うと、その仲間であろう女性と男性達は簡単に離れていった。
あくまで
緊張状態から解放され、一気に全身の力が抜ける。
「はああぁぁ。助かった……」
「大丈夫? 怪我は?」
「ううん、大丈夫……」
心配もしてるけど、まだ彼は怒っているようだ。薄くはなったが、眉間の皺がある。
「助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。もう急にいなくならないでくださいよ」
「ごめんなさい……」
「心配しました」
「おこ、怒ってる?」
「そりゃ勿論」
「ごめんなさい……」
二度目の謝罪。
「ていうか、電話に出てくださいよ」
「あ、ごめん。コンサートからずっと電源を切ったままだ。忘れてた」
「そりゃあ、何回かけても繋がらない筈ですね」
「面目ない……」
身を小さくしていると、
突然のことに、慌てて彼の歩く速さに合わせる。一昨日よりスピードが速くて、駆け足になってしまいそう。あの時は、私の歩く速さに合わせてくれたんだ。
彼の手が熱い。ずっと探してくれたのかな。
助けに来てくれて、本当にありがとう。
「
呼ぶと、すぐに足を止めてくれた。
「……すみません」
パッと離される手。気まずそうな顔をして、視線を逸らす。
「また……また、はぐれちゃいけないから……」
彼の言葉にドキドキする。
言っちゃえと勧める自分もいれば、はしたないから言うなと言う自分もいる。でも心臓が高鳴るのは、もう答えが決まってるから。
「手、繋いでも……いいかな……?」
甘えたい。
大人っぽくない私だけど、年下の彼に甘えたかった。
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