呪いの言葉
頭に浮かぶキスの二文字。
あまりにも急な出来事に、息が止まる。
「え、え?」
相手は高校生。私よりずっと年下で。
私は一体なにをされるの?
頭の中の思考が動き出したのは、足音が遠ざかっていると認識した時。そして——
「あ、やっぱりストーカーだったみたいですね」
冷静に言う彼の言葉。
「は、はいぃぃ⁉︎」
ストーカーも勿論怖かったが、それよりもあと少しで唇が触れ合いそうな近さだったのに、どうしてそんなに冷静でいられるの?
いや、理解できないことはない。寸止めでキスもなにもしていないのだから。そう、なにも。本当になにも。
「ストーカーを追い払ってくれてありがとう。でもね! ちょ、ちょっと! いくらなんでも顔が近すぎるから! 大人をからかったらダメなんだよ⁉︎」
恥ずかしさが私に説教をさせる。
私の顔は赤く染まり、お湯のように熱い。
お互いの吐息を感じられる顔の近さに、彼は羞恥心が湧かないのだろうか。
「ん? あ、すみません」
一方、彼は動揺する様子は全くない。
「でもストーカーが逃げたから、結果オーライじゃないですか」
うん、上手くいってよかった、と呟いていた。
冷静にそういうこと言いますかね。最近の子はませてるって聞くけど、本当なんだな。
シャイニーケースを抱きしめる。
そんな年下の子に、こんなにドキドキするのが馬鹿馬鹿しくなってきた。むしろ無性に腹立ってくる。
とは思いつつ、変な人から助けてくれたのは間違いない。
ストーカー容疑の人が誰かはわからないが、その気配が消えて、恐怖が遠ざかったのだと実感すると、その場に崩れるように座り込んだ。
「腰が抜けて……立てない……」
「え?」
彼は非常に驚いた表情を浮かべた。そりゃそうだ。悪しき敵は消え失せたというのに、後になって座り込んだまま、立てないのだもの。困ってしまうだろう。
だが、どうしようもない。何度も立ち上がろうとするが、脚に力が入らず、尻が浮かない。——それに、
「こ、怖かった」
まさか自分の身にこんなことが起きるなんて想像もしていなかった。もっと美人さんを狙えよと、声を大にして言いたい。どうして私なんだよ、本当。
「家まで送りますよ」
彼はそう言った。
ニッコリと微笑む彼は「ほら、立って」と言い、立ち上がらせてくようと両手を差し出してくれた。
「ありが——」言葉を止める。
脳裏に浮かぶ呪いの言葉。
『甘えるなよ』
そう言った元彼とは何年前に別れたのだろう。いや、それ以上なにも思い出したくもない。でも、昔の言葉が今の私に呪いをかけてくる。
「こんなおばさんを助けてくれて、本当にありがとう。ここでもう大丈夫だから!」
「『おばさん』?」
彼の目を見られない。
動かない両足を叩いて、立ち上がれと喝を入れる。
「動いて……動いてよ」
念じるように呟くと、足の感覚が戻ってきた。
シャイニーケースを強く抱き締めて、ゆっくりと立ち上がる。一歩、また一歩と歩みを進めた。もう大丈夫。自分の足で歩けるから。
でも、本当はこのまま一人で帰りたくない。
またさっきの人が来たらどうしよう。私、力が無いから、振り解くことも、逃げ切る自信もない。予測不可能な未来に不安が溢れてきた。
「…………」
今まで付き合って、別れた原因が自分にあるのを知っている。年齢にそぐわない程、子供のように甘えん坊で。
私を助けてくれる人なんていない。だって私は人に甘えたらダメなんだもの。
『もっとしっかりしろよ。もう大人だろ』
とか、
『甘え過ぎ、ウザい』
とか、言われたっけ。
彼の優しさだって、この場だけのもの。今後を考えるなら、絶対に距離を縮めたらダメだ。
ちょっと人に優しくされただけ。特別でもなんでもない、ただの優しさなだけ。
忘れろ。彼の優しさを忘れろ。今すぐに、早く。
そう思えば思う程、涙が溢れそうになる。そして、漏れそうになる嗚咽を、強く下唇を噛んで止めた。
「大丈夫、きっと、大丈夫っ」
強く目を瞑る。なに一つ溢してはならない。言葉も、気持ちも。もしまた溢してしまったら、
あの時——
それは私が中学一年生だった頃。
吹奏楽部に入って、初めてフルートを吹いた。先輩や先生に褒められるたびにとても嬉しくて、もっともっとフルートを上手になりたいと思っていた。
ある日、一つ上の先輩が楽器を買った。学校で使うどの楽器よりも綺麗で、良い音が出て、凄く羨ましかったのを覚えている。
私はまだ子供だったから、思ったことは全て親に話した。楽器が欲しい、と。
母は、中学校を卒業しても続けるかわからないし、楽器は高いから家計的に無理だと却下した。
仕事が休みの日、父は私を連れ出した。お店にあるフードコートでバナナチョコのパフェを頬張っていると、
『しほりはフルートが欲しいのかい?』
そう言ったことをよく覚えてる。
父の問いに、私は『うん』と言った。
なにも知らないくせに。家のことなんて、親のことさえもわかってないくせに言ってしまった。自分の欲望に忠実で、我慢できなくて。
だからこそ思い返す度に、父の言葉に甘えなければ、両親も離婚しなかったのかもしれない。離婚の原因は、私だから——
そばに設置されている街路灯の明かりがチカチカと点滅していた。次第に点灯しない時間が伸びていく。
「急にどうしたんですか? ちゃんと家まで送りますから」
「え——」
突然すぐそばから聞こえた声に、私は目を開けた。逃げるように動かしていた脚も止まってしまった。
彼は、まるで恋人や妹の手でも握るかのように、躊躇なく手を繋ぐ。
すぐにでも泣き出しそうな私を見ても、嫌な顔はせずに、
「怖かったですね。でも、あなたも不用心です。女性一人で夜道を帰るものじゃないですよ」
「…………て……」
どうして?
上手く声にならなかったのに、彼はまるで聞き取れたように言葉を返す。
「あ、俺が年下だから不安ですか?」
うーんと、困ったかのように彼の表情は陰る。
そんな彼に、私はすぐ首を横に振った。
「違う、年下とかじゃなくて……! その、こんなおばさんを助けるのは、嫌じゃないの? 明らかに君より年上なのに、君の優しさにあ、あま……甘え、ちゃうし」
甘えという言葉を吐くことに抵抗があった。
だからこそ、その言葉を出してしまった瞬間、ずっと我慢していた感情が溢れる。流れる涙を指で拭っていると、彼は微笑んだ。
ジジッと微かな音を立てて、街路灯の光が消えた。
一瞬にして真っ暗闇に閉じ込められたが、淡い月光が優しく注ぐ。
人工的ではないその光に、彼の柔らかい表情と姿、そして繋いだ手が照らされた。彼の顔があまりにも優しく見えて、
「人を助けるのに年齢なんて関係ないでしょ」
その言葉が嘘ではないかという疑心が、スッと引いていく。
彼は私の手を引いて、歩き出した。
「それに、人に甘えるのも年齢は関係ない」
男性らしい大きな手。肌と肌で感じる温もりが心地良い。恐怖で、不安で上がっていた心拍数は落ち着いていた。
空いた手で抱きしめるシャイニーケースが、氷のようにとても冷たかった。そんなこと、普段思ったこともないのに。
それだけ彼の手は温かいということなのだろう。
人を好きになるって、あたたかいのかな。
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