君のそばなら
「はい」
中から返事が来た。
ゆっくりとドアを開けると、畳に使われている、い草の香りが鼻をくすぐる。
「
口を3のように尖らせて、中の様子を伺う。
一枚の板の両端を折った座卓が部屋の隅にある。それに向かっている彼と目が合った。
「なにしてるの?」
座卓の上には、私の楽譜と五つの線が書かれている五線譜。その下には書き込まれた五線譜が沢山置かれていた。彼の右手に鉛筆を持っていることから、五線譜になにかを書いているようだ。
私の視線の矛先に気づいた彼は苦笑した。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「ううん、眠れないだけ。それ……なにを書いてるの?」
「伴奏者がいないから、フルート二重奏として編曲してるんですよ」
勝手に楽譜を借りてます、と付け足した。
「え! 嘘! 凄いッ!」
私は感情に駆られ、彼の断りもなく部屋に入った。少しも嫌な顔をしない彼の隣に座ると、綺麗に書かれた音符が並ぶ楽譜を見つめる。
「わぁぁ! これ『さくらのうた』だぁ。フルート二重奏になったらどんな感じになるんだろう。すっごく楽しみ。……あ、今はロドリーゴの『ある貴神のための幻想曲』を書いてるんだね。私、書けないから凄く尊敬するよ」
「編曲っていっても、ピアノ伴奏をそのままフルートに起こしてるだけなんで」
彼はそう言いながら、再び苦笑した。
例え彼にとってはそうだとしても、私にとっては未知なる世界。そんな世界に片足でも入れている彼は尊敬の対象だ。そして、それと同時にある疑問が頭に浮かぶ。
「
「はい」
彼はピアノの楽譜を見ながら、フルートの音域に書き換えていく。
「どうして、ここまでしてくれるの? ピアノの楽譜をフルートに書き換えるのだって、大変な作業だよね」
私なんかの為に。知り合って間もないし、深い付き合いでもない。なのに、何故?
彼は鉛筆を走らせながら答えた。
「好きなんですよ」
「え?」
私のことが?
「
「……」
ですよね。
その言葉に期待してしまう自分が愚かすぎて、泣けてくる。よくあるパターンじゃないですか。漫画とか、アニメとか。
「素直に感情が音に表れるから、聴いていて面白いなって」
「お、面白い……ですか?」
一体どういう意味なのだろう。わからなさすぎて泣けてくる。思わず吐き出す言葉が敬語だ。
私の様子を見て察した
「あー、悪く言ってるわけじゃないんですよ。感情豊かで面し……綺麗だなって」
絶対にまた面白いって言いかけたよね。
「褒められてるのか、貶されてるのか、よくわかんない」
頬を少し膨らませて、不満を表す。
「褒めてます褒めてます。だからそんな膨れっ面にならないでくださいよ」
彼は笑った。嫌な感じではなく、私まで笑ってしまいそうな、そんな優しい感じ。
「音楽って、悲しいメロディだったり、楽しそうなメロディだったり、人のあらゆる感情を表しているなって、俺は吹いていて思うんです。曲には物語があるし、作曲者の人生とか、時代背景とか、いろんなものが詰め込まれてますよね」
彼は改めて私を見る。
「譜面上は白黒だけど、感情豊かな
そんなふうに評価してもらったことがなかった。
私の音楽を聴いて、楽しい?
上手い、下手の評価ではなく、楽しい?
面食らった。初めての感覚に戸惑うが、心の奥底からじんわりと温かくなるのを感じる。ああ、嬉しいんだ。
「…………褒めてる?」
「褒めてるって言ってるじゃないですか」
「困った人だなぁ」眉を寄せながら、笑う。
「てことは
フフッと笑ってみせると、彼は
「もしかして音楽室のドアの向こうで聴いてたあの日からずっと? 頭を押さえてた日があったよね」
「自分の足に引っかかって、ドアにぶつかったんですよ……それはもう忘れてください」
恥ずかしそうに顔を赤らめる。そして逃げるように、止めていた鉛筆を走らせた。
「
「……ありがと」
「ピアノは得意じゃないし、こういう楽譜の書き換えと、フルート演奏なら俺もできる。フルート二重奏に変更になったことは、当日にアナウンスして……ただ」
「『ただ』?」
「コンサートを聴きに来てくれた人に『あーピアノ伴奏の方が良かったな』なんて思われたくないんで、やるからには俺も全力でやります」
幼さがある顔だと思っていたのに、この時の彼は大人よりもしっかりした顔つきと、力強い眼差しがあった。
「本当にありがとう」
なにかを考えるより早く、口から言葉が出た。
「宜しくね」
「こちらこそ宜しくお願いします」
お互いに頭を下げた。そして、彼はすぐに楽譜を書き始める。
慣れた手つきで書き換えられていく楽譜。一切迷いなく、カリカリと鉛筆の走る音が、徐々に眠気を誘う。だが、もう少し見ていたいなと思って、彼の隣にいると、
「部屋に戻って良いですよ」
ウトウトとしているところを見られたのだろうか。彼に苦笑された。
起きようと何度も瞬きを繰り返すが、目が半分閉じ掛ける。かなり眠くなってきた。
「一緒にいたら、ダメ?」
目を擦りながらそう言ったら、
「一人じゃあ寝られないんですか?」
その言葉が胸にグサリと突き刺さる。その通りです。私のことをよく理解しておいでで。
「お恥ずかしながら。初めて寝る場所は、ちょっと緊張しちゃって」
頬をぽりぽりと指で掻く。
「じゃあ、そこの布団で寝ていいですよ。俺ので悪いんですけど」
「
「楽譜を書き換えるのに、まだ時間がかかるんで。
一向に目は合わないが、
「……本当に邪魔じゃない? いいの?」
「大丈夫大丈夫」
安心させるような声色と、紙上を走る鉛筆の音。
「では、お言葉に甘えて……」
もぞもぞと動き出すと、
秋の夜にしては少し暑い中、夏布団を掛けて横になると、
彼は視線を向けて、口の両端を優しく吊り上げる。
「おやすみなさい」
「おやすみ。無理はしないでね」
「はい」
彼がすぐそばにいることで緊張してしまうかと思ったが、不思議な心地よさを感じつつ、瞼はゆっくりと降りた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます