「クソッタレ」

梶瑛かじあき

 彼女の右手を掴むそうくん。

「止めないでよ!」

「事情がちゃんとあったし、殴ったら駄目でしょ」

「知らないわよ! ……そんなことよりも! アンタはもっと自分のことを大切にしてあげて!」

「はいはい。わかってるから」

 二人にしかわからない物語がある。それを目の当たりにして、輪に入ることができない孤立感がじんわりと滲んだ。

「これだから大人は嫌いなのよッ」

 梶瑛かじあきさんは手を下ろした。それでもである私に嫌悪が隠せないようでいた。どうして大人が嫌いなのだろうかとは思う。

 大人、か。

 ワンピースの皺を伸ばしながら、彼女の言葉に心が反応する。

 私は本当に大人なのかな。体だけが時間と共に大人になっただけで、精神面では子供の頃から変わっていないような気がする。

 心が、痛い。

 いろんな言葉が突き刺さって。針のようなものが抜けなくて。抜こうと思った自分の指で、更に深く刺してしまう。

「もう、いやだな」

 小さな声で呟いた。もうなにもかも投げ出して、なにもかも考えずに過ごせたら良いのに。

 会社のことも、母の言葉も、奈良栄ならさか先輩のことも……。

 そんなことは無理だよと、もう一人の自分が呟く。私はそっと目を閉じた。

「話が脱線したけど、二次会ができるか先生に電話してみますね」

 そうくんの声が耳に入り、目を開けてみると、彼は私を見ていた。ニコッと笑うと、電話をする為に一旦喫茶店から外へ出る。

 そして、私は梶瑛かじあきさんと二人きり。気づけば、マスターとアルバイトのヒツさんの姿はなかった。

 トイレから掃除をする音がするので、一人はトイレにいるのだろうが、もう一人はどこへ。

「……」

「……」

 気まずい。

 どちらも口を固く閉じている。私の方が大人なのだから、気が紛れるような話題を提供しなければと決心した時だった。

そう、誰にでも優しいから」

 ちょうど曲が移り変わる無音の店内に、梶瑛かじあきさんの声が響く。視線は全く合わない。だが、そっぽを向く彼女の声に悪意は感じられない。

「だから勘違いしないで。年増が特別じゃないの」

 カウンターに頬杖をつき、ぶっきら棒な物言いで念を押す。

「うん、そうなんだろうなって思ってた」

 静かに答えた。

 きっとこの二人もいろいろあったのだろう。だから彼女はそうくんを心配して、不甲斐ない私に腹を立てているのだ。

そうくんと演奏できるのも、今日のコンサートが最初で最後だってわかってる。だから、ちゃんとお別れしようって思って、二次会を頼んだの」

「そう。それならいいけど」

そうくんは、羨ましいな」

「はあ?」

 二人の空間になって、初めて視線が交わる。訝しむ視線をしっかりと受け止めた。

「あなたみたいな心配してくれる人がいて……」

「……年増にはいないわけ?」

「結婚もしてない、彼氏もいない。良い感じになった会社の先輩には殴られて、私の大切な友達も傷つけられて……」

 カウンターに肘をつき、両手で顔を覆う。

「お父さんから貰った大切なフルートも、ぐちゃぐちゃに壊されちゃって。もう良いことなんてないよ」

「男を見る目がないのね」

「ふふ。そうかもしれないね」

 思わず吹いた。確かにそうだなって思ったから。

「だから、助けてもらったそうくんには感謝しても感謝しきれないよ」

そうそう、優しいから。本当にアンタだけじゃないから——ッ」

 二度も言わなくてもわかってるのに。

 不意に思い出した奈良栄先輩の存在に心が重くなる。

 今まで思い出さないようにしていたのに。どうしてこんな時に思い出しちゃうかな。

「もう……嫌になっちゃうなぁ」

「いつまでも後ろ向きな発言しないでくれる? あたしまで気持ちが暗くなるわ」

「……ごめん」

 それしか言えなかった。彼女には関係ないから。

 喉元まで込み上げてきた言葉を、必死に押し込むことくらいしかできない。

「意味不明」

 彼女は不愉快に顔を歪める。組んだ足を組み直し、ミックスジュースを一気に飲んだ。

 そこに、ドアが開いた鈴の音が聴こえた。

「先生、いいよって」

 そうくんが戻ってきたのを見計らったかのように、マスターは封の開いていない珈琲豆を持って、顔を覗き込んだ。

「あと、そういえば日野和ひのわ先生、五日後に退院だって。しほりさんのスマホにもメールが入ってません?」

「え?」

 そう言われて、慌ててスマートフォンを出した。確かに夏希なつきから『もう大丈夫。あとは退院するだけ!』という内容のメールが来ていた。

 梶瑛かじあきさんは「まさか傷つけられた友達って」と言って、呆れたように私を見る。

 その視線に私は空笑いをした。

「うん、私の方にも夏希なつきからメールが来てたよ。そっか。目処が立ってよかった」

 心底安心した。息をゆっくり吐いていると、そうくんのスマートフォンから音が鳴る。彼は「あ」と声を漏らし、暫く経った後から画面を私に見せてくれた。

「これ、もしかしたら、しほりさんが関係してるかもしれませんよ」

 それはそうくんの母親からのメールだった。

 その本文には、URLと共に『近場で不法侵入があったなんて怖いわね〜。そうも戸締まりには気をつけなさいよ』と母親らしい言葉が綴られていた。

 そうくんはその英数字をタッチすると、元になった地方新聞のホームページに飛んだ。

「住所的にこの辺りの事件ですね。住居不法侵入をしたとして、奈良栄ならさかやなぎ容疑者を逮捕。余罪を追及……」

「住居、不法侵入?」

 その単語を聞いて、頭の中にある小さな記憶が掠める。しかし、それがどの記憶だったか、なかなか思い出せない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る