姉の『教材』として連れてこられた養子のアリスは恋人作りを禁止されたので、霊の力を借りて内緒で舞踏会に参加することにした(偽名で)

嵐山 紙切

第0話 現在

『想い人』にふさわしい女性となるべくアリスはたくさんの準備をしてきた。


 服を仕立ててシャペロンを用意するだけではなく、みっちりと教育もされてきた。男性との会話や、礼儀作法、恋愛をすすめる上でやってはいけないことなどなど。特に、社会的、肉体的純潔を守るために絶対に男性と二人きりの状態になってはいけない、ということは口酸っぱく言われていた。


 が、誰にも相手にされなかった。というか、アリスのまわりには距離があった。誰も近づこうとはしない。まるで汚いものでも避けるように。


 純潔は自動的に守られていた。


(逆に私が純潔を汚すものだと思われているのでは?)


 と、半分絶望していたら、いつの間にか一曲目のカドリルが始まっていて、完全な絶望へと変わった。初めは長椅子に座っていたのは付添人シャペロンの祖母ペギーだけだったが結局、アリスも一緒に長椅子にすわって項垂れていた。ペギーはというとシャペロンの役目も果たさず眠っていた。


 アリスは典型的な壁の花になっていた。なぜだ。偽名で参加したとしても、これはアリスにとってデビュタントの年の最初の舞踏会、最初の曲のはずだ。これじゃあ、本名で参加したとしても壁の花になっていたということじゃないか。しかもなんかヒソヒソとうわさ話をされているし。


(私のなにが悪いのか)


 まさかもうすでに偽名だということがバレてるんだろうか。それとも何か大きな間違いをしているんだろうか。




 そう、アリスは偽名でこの場に参加していた。




 グリムキャッスル伯爵家の養子である彼女は社交界に出ることを許されていなかったのだ。


 家族にバレてしまえば屋敷に半ば監禁されてしまうのは目に見えていた。


 だから、アリスは「アリス・スティーヴンス」ではなく、「アンジェラ・カートライト」としてこの場にいたのだった。


 『想い人』を探してみたもののこの場には見当たらなかった。まだ来ていないのか、それとも招待されていないのかそれすらわからなかった。だが、それはそれでいいと思い始めていた。こんな姿、彼に見られるわけにはいかない。


 もしかしたら上流階級の人間にはなにかを嗅ぎ分ける力があって、自分は令嬢として不十分だと思われているんじゃないかと思った。


 それはつまり、『想い人』の彼もそう感じるということで、今、彼の前に出ていったら令嬢としてふさわしくないという烙印を押されてしまうということだ。それはまずい。


 アリスはなんとしてでも踊りたかった。そうすることで令嬢としての第一歩を踏み出したかった。このままじゃ何のためにここに来たのかわからない。


 カドリルが流れる中、アリスは周りを見回していた。みんな楽しそうだった。心に真っ黒な絶望が流れているのは自分くらいだろうとアリスは思った。


 いや、違う。少し離れたところに同じように壁の花になってしまっている令嬢がすわっている。ガスライトの下でも美しく見える真紅のドレスに身を包んだブルネットの女性だった。アリスは勝手に彼女を同志だと思うことにした。



◇貴族たちside



 上流階級の人間たちがアンジェラ(アリス)を令嬢として不十分だと思っていたかというとそうではなかった。むしろ逆だった。


 アンジェラが舞踏室に入ってきたとき、その場にいる人々がアンジェラに抱いた感情は二分した。一つは近づくことができないほど神々しいという畏敬の念。もう一つは恐ろしい人がやってきたという畏怖の念。彼女の姿を見た者は会話の途中だろうが、ジョークのオチ直前だろうが口を引き結んで、その美しさに見惚れ、あるいは、恐怖した。


 彼等の目にはアンジェラが神々しい妖精か女神のように見えていた。結い上げられたブロンドの髪はガスライトの光に照らされて輝き、キリッとしたツリ目は彼女が見た者を従わせる力を持っている――そう、彼等は思っていた。


 物憂げな表情も美しい。


 主催者である侯爵夫人はこの様な場所にお呼びしてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだった。握手をしたときの手は震え、かつて女王陛下に拝謁をしたときと同じくらい緊張していた。そう、王族を招いてしまったのではないかとさえ思っていたのだ。もっと準備すればよかった。彼女はそう悔やんだ。


 デビュタントであるアンジェラの正体を知る者はこの場にはいなかった。畏敬の念をいだいた男性諸氏は、なんとかアンジェラに近づいて、できれば懇意になりたいと考えた。が、アンジェラのオーラに気圧された彼らは彼女に近づくことができなかった。近づけば最後、その力の前にチリになってしまうだろうと考えた。話しかけるのは恐れ多い。


 彼らはそれでも、アンジェラにお目通しをしたかった。そこでシャペロンを見た。直接話しかけなくてもシャペロンが紹介してくれる。


 その期待は、もろくも崩れ去った。


 なぜならシャペロンはガッツリ眠っていたからだった。


「まじかよ……、何しに来たんだあの人……」全員がそう思っていた。


 皆が、おいそれとアンジェラと懇意にはできないだろうと思った。それと同時に、彼らはこの人物をなんとしてでも守らなければならないという謎の義務感に襲われた。さながら、女王陛下を守らなければならないような義務感に似ていた。


 シャペロンのペギーが頼りないというのも拍車をかけた。


 一曲目のカドリルが終わった。懇意になれないとしても、せめて、紹介だけでも済ませたいと思い始める人物が現れ、はじめの一人が近づいていった。


 彼はペギーの顔見知りだった。見ず知らずの人物にいきなり自己紹介するのが重大なマナー違反である以上、アンジェラに近づけるのはペギーの顔見知りに限られた。アンジェラの方へと歩く彼は自分にその権利が十分あると考えていた。


 彼はペギーのそばで咳払いをした。アンジェラがペギーの肩を叩いて起こした。

「お久しぶりです、レディ・グリムキャッスル」

 ペギーは目を瞬いてから彼を見上げた。

「あら、貴方は……ロード・ハワードね。いつこちらに?」


 ペギーは答えた。他愛のない会話をする二人を遠巻きに見ている人々の目は嫉妬の炎に揺れていた。あいつ許さねえ。


 ハワードはアンジェラを紹介されたが、その神々しさにほとんど目を見ることができなかった。彼はなんとかアンジェラに声をかけて自分を知ってもらおうとしたが、結局は何も話すことができず、黙ったまま時間が過ぎてしまった。


 と、突然背中に衝撃が走って、ハワードは小さくうめいた。振り返ると、彼の友人が数名立っていた。どうやら突然背中を突かれただけらしい。驚きすぎて過剰に反応してしまった。


 ハワードは友人たちの目を見た。そこには「紹介しろ」という執念の炎があった。嫉妬の炎でもあった。ハワードは彼らを紹介したくなかった。自分だってまだちゃんと会話をしたわけじゃないのに。


 と、そこでペギーが口を開いた。

「あら、お友達? 紹介してくださる?」


 ハワードは深くため息をついた。


  

◇アリスside



 一曲目のカドリルが終わって、初めてアリス(アンジェラ)に近づく人が現れた。

(きっとペギーが紹介して回らないから、私の存在に気づかなかっただけなんだ)


 やっとダンスを踊って、令嬢としてそれなりの体面が保てるとアリスは安堵した。


 隣を見るとペギーはまだ眠っていた。アリスはペギーの肩を叩いた。

「お久しぶりです、レディ・グリムキャッスル」

「あら、貴方は……ロード・ハワードね。いつこちらに?」


 ペギーは男性と他愛のない話をつづけ、アリスに彼を紹介した。

「こちらロード・ハワード。伯爵家のご長男よ。そしてこの子がミス・カートライト」

「よろしく」ハワードと呼ばれた男性はそういったが、目を合わせてくれなかった。


 アリスは泣きたかった。やっぱり嫌われてるんじゃないのか、これ!

(シャイなだけだ。きっとそうだ!)

 とアリスは自分に言い聞かせた。言い聞かせないとこの場で泣き崩れてしまいそうだった。


 ハワードはアリスに目もくれず、ペギーに言った。

「最近舞踏会で物取りが増えているそうですから、お気をつけて」

「あら、そんな品のないことをする方がいらっしゃるの」ペギーは驚いたように言った。


 と、突然ハワードが顔をしかめてうめいた。見ると彼の後ろには男性が数人立っていた。ハワードは彼らに背中をこづかれたらしい。アリスはやっと人が来てくれたと思った。自分の前にもさっきのデビュタントの女性と同じように列ができるんだ!


 アリスは喜んでハワードをみた。


 そこでペギーが尋ねた。

「あら、お友達? 紹介してくださる?」


 ハワードは深くため息をついた。


 どうしてため息を吐く!


 そんなに紹介したくなかったのだろうか……。

(私を紹介したら自分の沽券に関わるとでも思ってるんだろうか)


 アリスは目を細めてハワードをみた。彼は相変わらずこちらを見向きもせず、ペギーの方ばかり見ている。


 ハワードは後ろにいた数人の男性をアリスに紹介した。アリスは笑顔で受け答えしたが、なぜだろう、誰もアリスをダンスに誘わなかった。流石にペギーも焦ったのか、列の最後の一人に言った。

「ミスター・フォックス、よろしければ、一曲この子のお相手をしてくださる?」


 アリスはこのときばかりは、心のなかでペギーに称賛を送った。そうだ。もっとやれ。とにかく誰でもいいからアリスは踊りたかった。


 しかし、フォックスと呼ばれたその男性は顔をしかめて、後ろを振り返り、またペギーをみて言った。

「申し訳有りません、先約が……」

「あら、それは残念ね」


 アリスもため息をついて落胆した。



◇ フォックスside



 ミスター・フォックスは動揺していた。


 ハワードに紹介してもらいアンジェラに近づけたのはいいが、レディ・グリムキャッスルが突然、

「ミスター・フォックス、よろしければ、一曲この子のお相手をしてくださる?」


 と言葉を発した瞬間に地獄に突き落とされた。フォックスはあたりを見回した。ハワードが最初にアンジェラに近づいたとき、彼は嫉妬の炎で焼き尽くされんばかりの目で見られていたが、今回はその比ではなかった。まじで火がつくのではないかと思った。中でも一番ハワードがフォックスを睨んでいた。横取りしやがってジェントリのくせに、と声が聞こえて来そうだった。


 フォックスはすぐにペギーに向き直って言った。

「申し訳有りません、先約が……」

「あら、それは残念ね」


 ペギーは相変わらず無表情でそう答えた。例によって、アンジェラをまっすぐ見ることができなかったフォックスは苦笑いをしてそそくさとそのばを立ち去ろうとした。


 これで、周りの目も元に戻ってくれるだろう。


 だが、その考えは浅はかだった。


 シャペロンに女神といっしょに踊ってくれないかと提案された人間というだけで、罪としては十分だったらしい。太陽に近づきすぎたイカロスよろしく、落とされる運命にある。


 どうしたらいい? 


 フォックスは考えた。そうだ、アンジェラからの誘いを今後一切受けないと宣言すればいい。それには愚かな行為をしなくては。アンジェラに嫌われるような行為をすればいいのだ。


 つまり、アンジェラからの誘いを先約が有ると断っておいて、目の前で別の誰かをダンスに誘う。


 アンジェラとの関係はなくなってしまうが、社交界での居場所がなくなってしまうよりずっといい。


 フォックスはあたりを見回して、壁際にすわっている令嬢の元へと歩いていった。そして、かなり大きい声で言った。



 宣言した。



「次の曲、いっしょに踊ってくれませんか?」


 フォックスは懇願するように令嬢に言った。

(頼む、俺を助けると思って、誘いを受けてくれ)


 令嬢はアンジェラの方をみて、フォックスの顔を見て、苦笑いをした。多分一部始終を見ていて、フォックスに同情したのだろう。

「喜んで」


 令嬢がいうと、フォックスは安堵の笑みを浮かべて彼女の手をとった。


 その瞬間、体中をチクチクと突き刺していた断罪の視線が一気になくなった。フォックスは自分は赦されたのだと知った。


 自分ごときが簡単に近づいていい相手ではなかったのだ。フォックスはそう考えて、自分を救ってくれた令嬢をみた。


 彼はハッとした。ものすごく美しいわけではない個性的な顔立ちだったが、フォックスは彼女をきれいだと思った。

「あの……私ダンスが上手くないのですけど」


 令嬢はそう言って顔を赤らめた。

「構いませんよ。僕もですから」


 フォックスはそういって、微笑んだ。



◇ アリスside



 ひどかったのはその後だった。


 フォックスは苦笑いをして歩いていったが、不意に、キョロキョロと周りを見回して、一人の女性を見つけて近づいていった。それは先程アリスが同志だと認めた真紅のドレスを来たブルネットの、壁の花になっていた女性だった。


 フォックスは彼女に言った。

「次の曲、いっしょに踊ってくれませんか?」声が大きかった。少し離れた場所にいるアリス達に聞こえるように言ったのだろう。誘われた女性はこちらを見て、フォックスの顔をみて、苦笑いをして、「喜んで」と答えた。


 アリスは驚愕してその様子を見ていた。


 嘘だろ、同志!


 どうしてそんなひどいことができるんだろう。フォックスが言った「先約がある」というのは嘘だったんだ。


 誰か抗議の声を上げてもいいじゃないか。一部始終を見ていた人はいっぱいいたのに、誰も何も言わなかった。


 みんなグルなんだと思った。

(私は嫌われ者なんだ)


 アリスはそう思って、長椅子に崩れ落ちるようにしてすわった。





 昔のアリスはこんなのではなかった。おかしなオーラなんてなかったし、むしろ純粋にいじめられていた。


 アリスのオーラは歳を取るごとに徐々に大きくなっていったのだ。


 物語はアリスが10歳のある日、黄金色の昼下がりに戻る。

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