第26話 一歩

 アリスはタウンハウスに戻るとすぐにヘンリーのいる書斎に向かった。


 ヘンリーは顔を上げた。


「ああ、帰っていたのか。……何か話でもあるのか?」


 彼はアリスの様子をみて何かを感じ取ったのかそういった。


 アリスはネックレスに触れた。


「お祖母様の家でグレース……アンジェラについて聞きました。私の叔母、お父様達の『教材』についてです」


 ヘンリーは深くため息をついて椅子に座り直した。


「そうか。お前には話してなかったな。そうだ、たしかに私にも『教材』がいた。アンジェラ・グレース・スティーヴンス。優しい妹だったよ。それがどうかしたのか?」


「お聞きしたいことがあるんです」


 アリスはずっと考えていた。ペギーの家から帰ってくる馬車の中でずっと。


 ヘンリーがアリスにネックレスを渡したのは、アリスが同じ『教材』だったからだろう。けれど、では、どうして彼はアリスを社交界に出さないなんて言ったんだろう?


 グレースは社交界に出ていた。同じ『教材』として同じように扱うならどうしてそんな事をしたのか。


 ペギーは、首をかしげて「たしかにそうね。アンジェラの前の『教材』たちも社交界には出ていたと言うし」と言っていた。


 これはイレギュラーなんだ。


「どうして私は社交界に出さなかったんです? アンジェラは社交界に出してもらったんでしょう?」


「まだ社交界に出せという話をするのか?」ヘンリーが煩わしそうに言った。


(そうじゃない! そうじゃないんだよ!!)


 アリスは首を大きく横に振った。


「違います。そうじゃない。どうして私はアンジェラとは違う対応をされているのかを聞きたいんです!」


 ヘンリーは明確に階級を分けた態度を取る。いつも決まった時間に書斎で作業をして、決まった時間に夕食を取る。


 そう、彼は神経質でルールに縛られた生活をしている。ルールに縛られた信条を持っている。


 だから、これはおかしい。


「お父様は明確にルールと伝統を守る生活をしています。『教材』として私を連れてきたのもその一つです」


 ヘンリーは小さく頷いた。


「ああ。そうだ」


「『教材』にもルールがあったはずです。子どもたちといっしょに育てるが中身は庶民だと教えるとか、差をつけて接するとか。でもその中には『社交界に出す』というルールがあったはずです。アンジェラも、その前の『教材』も社交界には出ていたはずですよね?」


 ヘンリーは黙ったがアリスは続けた。


「お父様、私が聞きたいのはこういうことです。『どうして貴方はルールを破ったんですか?』。いつも明確にルールを守るお父様には不自然な行動です」


『教材』を子供与えるというルールを遵守するのであればそのルールも遵守して然るべきだ。しかし彼はそうしなかった。


 どうして?


「どうして、お父様は私を社交界に出さなかったのですか?」


 ヘンリーはしばらくアリスを見ていたが、ふいにため息をついて言った。


「それはな、アリス、私がアンジェラとお前を重ねてしまったからだよ」


 彼はうつむいて言った。


「アンジェラは優しい子だった。サイモンの父ジェームスにいじめられようと、私の父に怒鳴られようと、まっすぐ生きていたし、私を守ってくれたりした。彼女は大切な妹だった。ジェームスにとってはそうでなくとも、私にとってはそうだった」


 ヘンリーは咳払いをした。


「あの子は社交界で受け入れられなかった。ジェームスが言いふらしたからだ。彼女は可愛そうだった。私はなんとか彼女を守ろうとしたが、だめだった」


 アリスはグレースを見た。グレースは小さく息を吐いて頷いた。


 そうだったんだ。辛かっただろう。


 そこでヘンリーは下唇を噛んで、吐き出すように言った。


「アンジェラが亡くなったのは、健康を害したからと言うことになっているが、本当は殺されたんだ。俺はそう思っている。ある日の公爵家の舞踏会でのことだった。彼女は使用人に何かを飲まされた。アンジェラは体調不良を訴えて帰宅したが、回復せずにそのまま……」


 ヘンリーは手を握りしめた。


「私の父は犯人を探そうとしなかった。それよりも舞踏会が開かれた公爵家との関係を維持するためにアンジェラが殺されたと言う事実を隠した。あの子は……アンジェラは社交界に受け入れられなかったから、はじき出されたんだと思った」


「じゃあ……じゃあ私を社交界に出さないと言ったのは……」


 アリスは自分の声が震えるのを聞いた。


 ヘンリーはため息をついた。


「ああ、アンジェラと同じように、殺されてしまうことを恐れたんだ。社交界に受け入れられず、殺されてしまうことを。……あの日は自分でも無理を言っているとわかっていたよ。でもそうしなければ説得することが出来ないと思ったんだ。お前を……そして、私自身を。誰でもいいなんてひどいことを言って、すまなかった……」


(私のことを守ろうとしたんだ)


 アリスはヘンリーの言葉を思い出した。彼の言っていた言葉は彼自身の言葉というより、彼を抑圧している社交界の、ひいてはヘンリーの父親の言葉なんじゃないかと思った。


 そうだ。ヘンリーは自分の言葉で話していなかったんだ。


(でもじゃあ、どうして……)


「じゃあ、どうして『教材』として私を養子にとったんです? 初めから受け入れられないなら、『教材』なんていらないじゃないですか」


「それは……」ヘンリーは下唇を強く噛んだ。


 グレースがアリスの肩に触れた。


「ヘンリーはずっと苦しんできたんですわ、アリス。ずっと伝統とそれに対する疑念の間で苦しんできたんです。自分の中に矛盾があることを知っていて、それとなんとか戦った結果、こんな風に歪んだ形で表出したんですわ」


 グレースは続けた。


「ヘンリーは伝統とルールに従ってアリスと言う『教材』を使ってシエナを育てました。ただそれが間違っているとわかっていたのです。わかっていながら、伝統に――もっと言えば私達の父親の影に逆らうことが出来なかった」


「私を社交界に出さないというのは、それに対する反抗だったのね」


 私が言うとグレースは頷いた。


「ええ、それも初めての唯一の反抗ですわ」


 そうか。そうだったんだ。


 アリスは初めて舞踏会に出た日のことを思い出した。偽名を使って身分を偽って、なんとしてでも舞踏会に参加した。


(あれは私の反抗だった。父への反抗だった。従って従ってずっと部屋に閉じこもっていた私がした反抗だった)


 アリスは言った。


「お父様。私は貴方に反抗します。貴方が貴方のお父様に反抗したように」


 アリスは意を決して言った。


「……もう、私を守らなくてもいいんです。私は一人で戦えます」


 戦わなくてはいけないんだ。アンジェラとしてではなく、アリスとして社交界に出て、ルークと話をしなければならないんだ。


 ヘンリーは驚いたように顔を上げると、微笑んで言った。


「ああ、そうだな。お祖母様から聞いたよ。舞踏会では一定の地位を築けていると。それに夕食会にも参加したそうじゃないか」


 いつも寝ているのにペギーはよく見ていたんだなとアリスは苦笑した。


 ヘンリーは続けた。


「私は怒りもしたが、同時に誇らしかったんだ。そして羨ましかった。ルールに反抗して成功を収めたお前がな。驚いたよ、自分の感情に」


 彼はため息をついて言った。


「成長したんだなアリス。私はお前を見習わないといけない」


「『教材』としてですか?」


 アリスが尋ねると、ヘンリーは苦笑した。


「人としてだよ。……手厳しいなお前は」


 アリスは笑みを浮かべた。


 それはヘンリーに向ける初めての感情だった。






◇ シエナside




 シエナはアリスが戻ってきてから書斎に向かいヘンリーと話している一部始終を見ていた。彼女は両手を握りしめた。


 そんなのってない。


(私は今までずっと我慢してきた。なのにどうしてアリスだけ……)


 シエナは下唇を噛んでそう思っていたが、同時にアリスの言葉が頭に響いていた。


――お父様。私は貴方に反抗します。貴方が貴方のお父様に反抗したように。


――……もう、私を守らなくてもいいんです。私は一人で戦えます。


 アリスは反抗してきた。だから言いつけを破って舞踏会に参加したんだ。


(彼女は戦った。けれど、私は……)


 シエナは自分の行動を思い出した。サイモンとの婚約が破棄できないと知ったあと、今まで何もしてこなかった。ただアリスのことを睨んで彼女が自由で羨ましいと思っただけだ。


 彼女は自由でもなんでもなかったのに。


 シエナはアリスを今でも許せなかった。それはヘンリーから叩き込まれた階級とルールが思考を完全に色づけていたから。でも論理じゃない別の部分で、それは間違っているんじゃないかと思い始めていた。


 アリスはヘンリーとの話を終えると書斎から出てきた。


 彼女と目があった。これはまるであの日の再現みたいだと思った。あの日、婚約破棄が出来ないと知ったの日。シエナは書斎からでてきて、ずっと話を聞いていたアリスを睨んだ。


 でも今は全くの逆になっている。聞いていたのはシエナで、でてきたアリスは微笑みを浮かべている。


 シエナはアリスを睨んだ。


「アリス……」そう声をかけたものの、次の言葉がでてこなかった。


 何を聞こうとしているのか自分でもわからなかった。ただ、何かを聞かなければならないのはわかっていた。そうしなければ、自分はただ奈落のそこに落ちてしまうのではないかと、そう思ったのだ。


「何でしょう?」アリスは微笑みを引っ込めてそう尋ねた。


 シエナは下唇を噛んで地面を見た。


 聞かなければならない。


「どうして……、どうして身分を偽って、危険を冒してまで舞踏会に参加したの?」


 アリスはキョトンとしていた。シエナは少し不機嫌になって尋ねた。


「何よ」


「いや、怒鳴られると思ったから。絶対許さないから! とか」


 シエナはぐっと言葉をつまらせた。たしかにそう怒鳴るのが正解だったかもしれない。けれど、今は聞きたいことの方が大きかった。


「で、どうして?」


 シエナが言うとアリスは少し考えて言った。


「私は、私の人生を取り返したかった。……いや、正確には、つかみ取りたかった。だって、未練を持って死んだら、死にきれないから」


「……そう」シエナは衝撃を受けてそうつぶやいた。


「じゃあ」アリスは行ってしまったが、シエナはその場に突っ立っていた。


 今まで考えたこともなかった。自分の人生はレールに載った蒸気機関車のように決まった道を進んでいくのだと思っていた。それが生まれながらの運命で、それることは許されないのだと。貴族として生まれて、『伯爵家のために』最善の行動をして、『伯爵家のために』自分を犠牲にしなければならないのだと。


 それは責任だった。貴族の責任だ。


 アリスにだって責任はあった。『教材』として生きていく責任が。押し付けられた責任という意味ではどちらも同じだ。


 けれど彼女はそれを打ち破った。責任に縛られ続けることが最良の選択ではないと、行動し、結果を出してヘンリーを説き伏せることで証明した。


 シエナは鳥肌が立つのを感じた。


 彼女は言った。「人生をつかみ取りたかった」と。


 だから危険を冒してでも行動をした。


 それが成功するかどうかなんてわからなかっただろう。それどころか失敗する可能性の方が大きかったに違いない。


 でもやったんだ。そして成し遂げた。


 シエナは考えた。


 安全なままで生きていくのはきっと安心だ。けれど幸せかどうかはわからない。


 安心は、幸せじゃない。


 シエナは書斎の扉を開いて、ヘンリーの前に立った。


 彼女は言った。


「お父様、お話があります」


 ヘンリーは顔を上げて言った。


「なんだ?」


「サイモンとの婚約を解消します。彼に爵位が渡った瞬間、私がいようとグリムキャッスル伯爵は崩壊しますから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る