第27話 婚約破棄
◇ サイモンside
サイモンは常にイライラしていた。こと、ティオが生まれてからはそうだった。
今まではずっと次期グリムウィッチ伯爵家当主としてでかい顔をして生きることが出来たのに、ティオが生まれてから相続の順番が変わりその全てが奪われた。
かろうじて、子供の頃から好きだった許嫁、シエナとの結婚は約束されていたが、それだって周りから
「情けの結婚だろ? レディ・シエナがかわいそうだ」と言われ続けていた。
サイモンは苛ついていた。すでにシエナに対する恋慕は未だあったがそれは歪んでいた。
(こんなに俺をバカにしたんだ。結婚したら虐げてやる)
サイモンは自尊心を守ろうとしていた。シエナには見向きもされなかったので、将来金が入るというのをちらつかせてシエナ以外の女を作り心を満たした。人を陥れることで自分はやれるんだという虚栄を作り上げた。
サイモンの心は荒んでいた。
ある日舞踏会で彼はルークを見つけた。相変わらず嫌なやつだと思った。彼は最近舞踏会で噂されている女を連れていた。サイモンはその女をダンスに誘ったが断られた。
ぶん殴ろうかと思った。自分に反抗する女は容赦しない。今までだって庶民の女に金をちらつかせて関係を持っては、逆らった瞬間殴っていた。
(俺は偉いんだ。貴族なんだからな)
サイモンは本気でそう思っていた。だからルークが連れていた女、アンジェラ・カートライトがダンスを断ったのが気に食わなかった。
だが、まあいいさ。こんなところで騒ぎを起こせば損のほうが大きい。
サイモンはぐっと我慢して「まあ、仕方ないわな」そう言って彼女から離れた。
彼はむしゃくしゃしながら歩いて家に戻った。家は小さく、惨めだった。貴族でもないのに働きもせず散財して暮せばこうなるのも無理はない。サイモンはしかし、シエナとの結婚で金が入るのを頼っていたのでこの生活を変えるつもりはなかった。
彼は家に入ると棚を探した。ここにはあの薬があるはずだった。しかし、すでに使い切ってしまったのだろうか、それはなかった。頭をはっきりさせるにはあれが必要なのに。
サイモンは借りた金とガスランプを掴むと外に出て、路地を進んだ。
路地の先には男が一人、顔を隠して立っていた。老人なのか、若者なのかもわからない。声はしゃがれているが、もともとそういう声なのかもしれない。男は腰を曲げ、杖をついていた。彼は言った。
「貴族様、今日も薬をお求めですか?」
「早くよこせ。いつものだ」サイモンは金を渡す。男は手袋をはめた細い指でそれを受け取ると数えてから、小さな瓶を渡した。
サイモンはそれを奪うように受け取って立ち去ろうとした。
と、老人は言った。
「貴族様、今日は珍しい薬も入ったんですよ」
「あ? 気分が晴れるならこれで……」
「いえね、これは人を殺せる薬なんです。少し飲ませれば一発ですよ。……最近イライラしているようですから、誰か殺したいのかと思いましてね」
サイモンは逡巡した。
と、男は付け加えた。
「貴方のお父様も使っていましたよ。ええ、ミスター・ジェームス・スティーヴンスもね。妹が邪魔だと言って」
サイモンは目を細めた。
「お前、俺のことを知ってるのか?」
「ええ、もちろん。ミスター・サイモン。殺したいんでしょう? ティオ・スティーヴンスを」
男はそう言って小瓶をちらつかせた。
サイモンは男のそばに歩いて行くと言った。
「なぜ知ってる? なぜこの毒を売ろうとする?」
男の口が、ガスランプの光に浮かび上がる。口角の上がった紫色の唇の下にところどころ抜けた黄色い歯が並んでいた。
「商売には情報が重要なんですよ、貴族様。そして、貴方がティオ・スティーヴンスを殺せば、貴方はもっとたくさん私から薬を買ってくれる。そうでしょう?」
サイモンは持っていた金を突き出した。
「強欲な男だな」
男はにやにやと笑ってそれを受け取ると、毒の小瓶を渡した。
「気をつけて使ってくださいよ。強力ですから」
「ああ、わかったよ」
サイモンは家に戻ると薬の小瓶と毒の小瓶をテーブルに置いた。
ティオ・スティーヴンスを殺す。そうすれば相続権は自分に戻ってくる。サイモンはじっとそれを考えた。
今までだって何度も何度もそれを考えた。しかし実行に移すことが出来なかった。ネズミや猫を殺すのとは違う。
サイモンは躊躇した。一線を超える事自体は構わなかった。ただ一線を超えたあと自分自身を抑えられないような気がしていた。今でも人を殴るし、一度頭の中で感情の糸が切れると、わけがわからなくなって暴れてしまう。自分をコントロール出来ないということがことさら怖かった。
サイモンは人を殺すことではなく、自分をコントロールできなくなるのが怖かった。
だから、ティオを手に掛けることが出来ず、ズルズルとここまで来てしまった。
サイモンは部屋を見回した。惨めな生活だ。毎日を取り繕うのに必死で、衣装と身の回りのもの以外は皆寂れて貧乏だ。唯一いるのもオールワークスのメイドで、それもずっと雇えているわけではない。
それでも、サイモンは怖かった。
彼は毒の小瓶を棚にしまうと、薬の小瓶を開けて使った。
彼はドロドロとした快楽に飲まれて、考えるのをやめた。
しばらく、その小瓶のことは忘れていた。というより思い出さないようにしていた。
いつ何かの拍子に使ってしまうかわからなかったからだ。
それを思い出したのは、久しぶりにグリムキャッスル伯爵家に足を運んだ、その帰り道のことだった。
◇ シエナside
シエナはタウンハウスの応接室に両親と座って待っていた。
彼女は緊張していた。手に汗を握って震えてすらいた。隣に座っていた母親はその様子をみて心配そうだった。
「貴女、大丈夫?」
「ええ、お母様。大丈夫です」シエナはそう言ったが大丈夫ではなかった。
シエナはサイモンが嫌いだった。嫌いなだけではなく怖かった。最近特に何を考えているのかわからない。その彼を否定するのが怖かった。
けれどそうしなければ、自分の人生はサイモンによって汚されてしまう。それもまたわかっていた。
アリスはこれ以上の重圧を受けていたのだろう。そう思うとやはり彼女は強い女性なのだと思った。
認めざるを得なかった。自分が挑戦の重圧を体験して初めてその苦しみがよくわかった。
と、サイモンがフットマンに連れられて部屋に入ってきた。彼は最近良く顔に貼り付けているヘラヘラとした表情を浮かべていた。
シエナは最近彼を避けていた。だからこうやって面と向かって話すのは本当に久しぶりだった。彼は以前より暗く見えた。目の下にクマがあるし、肌はボロボロだし、やつれている。そのくせ、目だけはギラギラと輝いて、なにか常に獲物を探しているようなそんな感じがする。化け物がサイモンの皮をかぶって、彼に成り代わっているのではないかとすら思った。
サイモンは椅子に座ると言った。
「お話とは何でしょう? そろそろ正式に結婚をするという話でしょうか?」
サイモンはニヤニヤと笑ってそういった。
シエナは大きく深呼吸をした。
化け物を殺すには銀の弾丸が必要だった。シエナはそんなもの持ち合わせていなかった。だからこうしていままでずっとはっきりとしないまま従って生きてきた。
今だって銀の弾丸は持っていない。けれど戦う勇気はあった。
あの日、アリスが外国語の授業でわざと間違えたあの日、シエナは屈辱で心臓が裏返りそうだった。アリスに怒りをぶつけたが、その怒りはどちらかといえば自分自身に向かっていた。アリスにできるんだ。自分にだってできるはずだ。それが出来ないのがただただ屈辱だった。
今、それと似た感情がシエナの心に渦巻いていた。
アリスは成し遂げた。
(私だってできるはず)
シエナは口を開いた。
「ミスター・サイモン。貴方との婚約を解消します」
言った。
言ってしまった。
サイモンは初めキョトンとしていた。
「今なんて言った?」彼はつぶやくように尋ねた。
「貴方との婚約を解消すると言ったの、ミスター・サイモン」
サイモンはその言葉を理解するのに苦労しているようだった。彼はしばらく黙り込んで宙を見ていたが、ある瞬間、ふっと理解したように表情を代えた。
剣呑な表情だった。
額に血管が浮き上がり、顔は徐々にどす黒く染まった。
シエナは怖かった。ここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。でも、動かなかった。両手を握りしめて感情を押し殺した。そう、昔からやっているみたいに。
この化け物の行く末をみなければならない。
(それこそが私の責任なんだ)
シエナはじっとサイモンを見ていた。
サイモンは立ち上がり両手を握りしめた。それはシエナとは違う行動だ。
武器を作る行動だ。
彼はシエナに近づくと拳を振り上げた。
フットマンとヘンリーが慌てて彼を取り押さえる。
シエナはその間ずっと動かず彼を見ていた。
サイモンは言葉にならない声を上げてシエナを睨みつけていた。かろうじてきこえたのは。
「どういうつもりだ、てめえ!!」
という一文だけ。
サイモンは地面に組み伏せられたまま怒鳴り続けていた。
シエナは言った。
「貴方の噂は聞いています。貴方は貴族にふさわしくない。というより、そもそも貴方は貴族ではない。それは自分でもわかっているでしょう?」
サイモンはシエナをにらみ続けていた。彼は徐々に叫ぶのをやめておとなしくなった。
荒く呼吸だけを繰り返している。
「貴方は他にも女性を作っているでしょうから、あまり大きなダメージではないでしょう。といっても突然の婚約解消ですから、いくらかお金は渡します」
シエナは言った。
サイモンは地面に額を押し付けた。
しばらくそうしたあと彼は言った。
「起こしてくれ。もう暴れたりしない。帰るよ」
フットマンが力を抜いた。サイモンは膝に手をついて立ち上がるとシエナを見下ろした。
「いつか必ず後悔するからな」
サイモンはそう言って部屋を出ていった。
シエナは体中の力が抜けるのを感じて、がくんと姿勢を崩した。母が心配そうにシエナに触れた。
「シエナ!?」
「平気。少し疲れただけです。あ、でも立ち上がれないかも……」
シエナは少しだけ微笑んだ。
◇
「サイモンとの婚約を解消します。彼に爵位が渡った瞬間、私がいようとグリムキャッスル伯爵家は崩壊しますから」
数日前、シエナがヘンリーにそういったとき、ヘンリーは少し考えて頷いた。
「ああ、そうだな。……お前にも無理をさせていたからな。アリスのこともある。だが、サイモンに爵位が渡った瞬間、伯爵家が崩壊するとはどういう意味だ?」
「もしもティオが不幸に見舞われたときグリムキャッスル伯爵はサイモンに相続されます。だからその時のために、私を結婚させるとおっしゃいましたよね?」
ヘンリーは頷いた。
「ああ。そうだ」
「現状のサイモンの借金をご存知ですか? 家を売り払って別の場所で暮らしているのは?」
サイモンはかつて住んでいた家を売り払って今は小さな家に住んでいた。彼の生活は上辺だけで成り立っていた。
ヘンリーはため息をついた。
「ああ、知っている」
「それに彼は女性をつくって暴力を振るっています。これは噂ではなく真実です。調べさせましたから」
シエナは何かあったときのために探偵に今の状況を調べさせていた。このまま結婚するのだけはどうしても避けたかった。彼女はなにか抜け道がないかずっと探していた。
「……そうか」
「お父様。状況は変わったんです。ティオが生まれて、サイモンが第一継承者ではなくなったように。サイモンの行動をみれば、『もし彼に継承すれば、私がついていても伯爵家は破滅する』ことは目に見えています。きっと私に暴力を振るって、力でねじ伏せようとするでしょう。もしかしたら私は殺されてしまうかも」
「なにをいって……」
シエナは遮って言った。
「サイモンが殴った女性の一人は頭を打って一時期動けなくなりました。今は回復しているようですが、当たりどころが悪ければもしかしたら……」
ヘンリーはつばを飲み込んだ。
「とにかく、彼は散財し伯爵家は維持できなくなる」
そう、サイモンに継承権が渡れば、ただ破滅するだけなのだ。どんな努力も意味をなさない。
「もしもティオが生まれる前のままのサイモンであれば、少しは良識のあるサイモンであれば結婚は意味をなしたかもしれません。でも今は違う。わかりますよね?」
シエナが言うとヘンリーはしばらく考えて言った。
「そうか……そうだな。サイモンとは婚約を解消しよう。相続と伝統に囚われて娘を失うわけにはいかないからな……。私達は変わらなければならないのかもしれない」
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