第1話 十歳のアリス
黄金色の昼下がり、10歳のミス・アリス・スティーヴンスは小さなボートに膝を抱えて座っていた。彼女が住まうカントリーハウスの近くには大きな川が流れていて、秋の色をした葉で彩られていた。ボートを漕いでいるのはフットマンで、ボートには他にアリスの友人であるワンダと従兄弟のサイモンが乗っていた。
従兄弟と言っても、サイモンとアリスに血の繋がりはない。血がつながっているのは姉のシエナの方だった。彼女はもう一隻のボートに男の友人といっしょに乗って、先を進んでいた。
アリスは養子だった。グリムキャッスル伯爵家当主であるヘンリー・スティーヴンスはある日、赤ん坊だったアリスを突然連れてきた。どこから連れてきたのか、誰が親なのかということはグリムキャッスル伯爵しか知らない。アリスが私生児なのではないかと勘ぐる者もいた。それはシエナもサイモンもそうだった。
アリスの目の前に座るサイモンは苛ついて、ボートのヘリを指で叩いていた。彼は12歳だったがシエナと婚約していたし、それに、シエナのことが好きなようだった。だから、アリスといっしょにボートに乗るのは気に入らなかったし、それにシエナが、今一緒に乗っている友人の少年に微笑みかけているのも気に入らないようだった。アリスは更に自分の膝を抱きしめた。
「気をつけたほうがいいよ、アリス」ワンダが後ろから耳打ちした。少しだけ振り向くと彼女の褐色の肌と白い髪がかすかに見えた。アリスはうなずいた。
サイモンは結構――いや、かなり乱暴な人間だった。使用人に対する態度は尊大だし、それにこの前なんかネズミを……いや、思い出したくもない。アリスは大きく首を振った。ともかく、父親を早くに亡くした彼を教育する人間はいなかったのか、甘やかされて育ったのか、紳士としてあるまじき行動が目についた。そしてそれを、シエナにはうまく隠しているようだった。
どうしてそんな男とシエナは婚約させられているのかというと、男児のいないグリムキャッスル伯爵家にとって、サイモンは次期当主と言っても過言ではなかったからだった。男性にしか相続できない爵位と、それに密接に紐付いてしまっている財産はすべてサイモンのものになる予定だった。この婚約は爵位のためというより、財産のためのものだった。
日差しはあったが、少し肌寒かった。フットマンがオールを水面に沈めて、ボートが進んだ。魚が飛び跳ねて、向こうのボートではしゃぐ声がした。サイモンの眉間には更にシワが寄った。
アリスがサイモンから顔をそむけるとボートの近くでまた魚が飛び跳ねた。大きい。アリスは気になって身を乗り出した。
と、その瞬間、突然首の後ろを掴まれて、アリスは川に真っ逆さまに落ちた。
「アリス!!」ワンダの声が聞こえる。
泳げないアリスは手足をばたつかせた。上も下もわからない。なにかにつかまろうと必死だった。
「おい! 水を掛けるな、汚れるだろ!」アリスを落とした張本人であるサイモンが喚いた。
水が鼻から入ってきて目の裏まで痛みが走った。空気を吸い込みたいのに、胸は水を追い出すためにしぼんで、強制的に咳き込んだ。アリスは口から何もかも吐き出してしまうんじゃないかと思った。声をあげることもできない。サイモンは汚いものを見るような目でアリスを見ていた。
と、異変に気づいたもう一隻のボートが近づいてきて、だれかがアリスに手を伸ばした。アリスはなんとか手を掴み、ボートに引き上げられた。
空気を吸おうとすると、途端に咳き込んでしまう。鼻からも口からもぼたぼたと水が垂れる。はっとして、アリスは自分の腰に触れた。そこにはステッキがしっかりとくくりつけられていた。アリスはホッとして、また咳き込んだ。
「アリス! アリス!」いつの間にか近くにいたワンダが背中を擦ってくれて、だんだんと咳は落ち着いて来たけど、今度はひどく寒くて、両手で肩を抱えて震えた。
「大丈夫か!?」引き上げてくれた少年は心配そうにそう言った。アリスが引き上げられたボートはシエナの方だとようやく理解した。ということはこの少年はシエナが笑いかけていた少年だ。彼の袖口についているボタンにうさぎの模様が入っているのが見えた。
アリスがなんとかうなずくと少年はボートを岸に向けて漕ぎ出した。目の前に乗っているシエナは冷たい目でアリスを見ていた。きっと、この少年との幸せな時間を潰したのを恨んでいるのだろう。シエナは服が濡れないようにアリスから体を離しながら、アリスのことをじっと睨んでいた。
「僕もいっしょに行くよ」ボートを岸につけると少年はフットマンに言った。フットマンは首を横に振った。
「いえいえ。お手数をおかけするつもりはございません。私が責任を持ってお連れします。こちらでお待ち下さい」
フットマンがボートを岸につけると、サイモンは言った。
「誰がボートを漕ぐんだ?」
フットマンはアリスをボートから下ろすと言った。
「ミス・アリスを連れていかなくてはなりません」
サイモンはアリスを見た。アリスは寒さで顔を真っ青にして震えていた。
「貴族でもないそいつなんかほっとけばいいのに」
サイモンはそう言って、シエナたちの方へと歩いていった。
フットマンはアリスを連れて屋敷の方へと向かった。ワンダは心配そうな顔をしてついてきた。
濡れた服は重くて、冷たくて、体に張り付くのが嫌で引っ張ったけど、その隙間に空気が入ってきてそれはそれで冷たかった。
サイモンに対して怒りの感情がなかったわけではなかったけど、それ以上に苦しくて寒くて辛かった。
屋敷に着くと、表ではなく、使用人たちが使う裏口の前に立たされた。表からでも裏からでもいいから早く中に入って着替えたかった。フットマンは身を屈めて言った。
「いいですか、ミス・アリス。貴女は自分でボートから落ちたんです。誰になんと言われようと、そう答えるんですよ?」
ワンダはフットマンを睨み、叫んだ。
「サイモンに落とされたんでしょうが! 自分がついてて落とされたのをなかったことにするつもりだろ!」
フットマンはアリスの肩を力強く掴んで言った。
「いいですね?」
アリスの唇は紫色になっていた。顎が震えて歯がカチカチ音を立てている。フットマンはきっとうなずかない限り屋敷の中に入れないつもりだろう。
アリスは小さくうなずいた。
「いいですね?」フットマンはにらみつけるように顔を近づけた。タバコのニオイがした。
アリスは大きくうなずいた。
フットマンがアリスを連れて裏口から入るとメイドがひとり駆け寄ってきた。
「どうしたんですか!?」
「ボートから落ちたんです。すぐに着替えを。それと、このことは他の方には内密に」フットマンは平然とそう言って、アリスをメイドに押し付けた。
メイドはアリスを着替えさせたが、そのときには体が冷え切っていて、夜、アリスは高熱をだした。熱にうなされながらアリスは、そばに座っていたワンダに尋ねた。
「ねえ。あの助けてくれた人、名前なんて言うの?」
ワンダは言った。
「確か、ルークだよ。公爵の息子」
「ルーク……」アリスはその名前を覚えておこうと思った。
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