第2話 十三歳のアリス1

 アリスは『教材』だった。明確な階級社会の中で、領域を侵犯する存在がどんな扱いを受けるのか、しっかりとシエナ達に教えるための『教材』。大人になったら狐やキジの代わりに猟銃で撃たれるんじゃないかと思うこともあった。特に、サイモンが狩りに出るようになったら……、と考えずにはいられなかった。


 アリスの養父であるヘンリーは階級に対して極めて明確な態度を取っていた。具体的に言えば、彼は上流階級以外を存在しないものとして扱っていた。



 絵画商が家に来て説明を受けているときにも、ヘンリーは全く商人の方を見ようとしない。話をするときには、母、アグネスに耳打ちをして、聞いた内容を母が絵画商に伝えるといった方法をとっていた。


「伝書鳩みたいだね」その様子を影から見ていたワンダは言った。

「どうしてあんなに露骨なことをするんだろ」アリスも影から顔を出してヘンリーたちを見ながら小声で言った。

「差をつけて、明確に上流階級を敬ってるんだよきっと。王の椅子が高いところにあるのといっしょ。まあこの場合、椅子を高くできないから地面を掘ったって感じだけど」


 アリスはなぜか納得してうなずいてしまった。明確な線引なんだ。


「だから、庶民はいないものとして扱うのね。で、貴族やジェントリには礼節を持って対応する」

「そ。庶民の私には目もくれないの」ワンダはそう言ってニヤニヤと笑った。アリスが目を細めていると、いつの間に話が終わったのかヘンリーとアグネスが近くまで来ていた。ヘンリーはアリスに気がつくと言った。


「なんだ。気になるのか?」

 アリスは首を大きく横に振った。

「いえ。なんでもありません」

 ヘンリーはアリスの腰にぶら下がるステッキをちらりと見たが、何も言わずアグネスとともに行ってしまった。

「ね、私に目もくれなかったでしょ」ワンダはまたニヤニヤしていった。

「うるさいよ」アリスはため息をついた。



 そんな父なので、わざわざアリスという『教材』を養子にしたのだろうというのがアリスの考えだった。ただ庶民をいないものとして扱うからと言ってアリスがヘンリーから無視されているわけではなかった。アリスはあくまで「上流階級に入りこんだ庶民」であり、上流階級にいる以上存在するものとして扱われたし、令嬢としての教育だって一部受けさせられた。シエナはそれが気に食わないみたいだったけど。



 13歳になったアリスはシエナとともに外国語の授業を受けていた。家庭教師ガヴァネスは厳しそうな女性で歳は50代、アリスやシエナがなにか間違うと口をへの字に曲げる癖があった。アリスは答える時、ガヴァネスの口を注視して、少しでも曲がり始めたら別の答えを言うようにしていた。


 アリスは優秀だった。口の曲がり具合を見て別の答えを提示できるくらいには。それに対してシエナはあまり優秀ではなかった。発音もあまりうまくなかったし、質問に対して答えが全く思い浮かばないこともざらだった。


 授業が終わり、ガヴァネスが退出すると、シエナはアリスを睨みつけた。きっとシエナにとって、この授業の時間は耐え難いものなのだろうとアリスは思っていた。どこの馬の骨ともわからない、上流階級の生まれですらないかもしれないアリスが、正真正銘由緒正しい貴族の生まれである自分よりも優秀だと、まざまざと見せつけられる時間なのだろう。


 その日の夕食の時間、ヘンリーが珍しく口を開いた。


「外国語は嫌いか、シエナ。アリスのほうが良くできていると聞いたぞ」


 彼はフットマンが差し出すトレーから料理を取り分けながらそう言った。まるでなんでもないことのように、ちょっとした世間話のように。


 だが、アリスには別の意味に聞こえていた。

(「教材」のアリスより劣るとはどういうことだ?)


 きっとシエナも同じだっただろう。彼女はすました顔をして父を見ていたが、まるで感情を握りつぶすかのように、フォークをもつシエナの手が一瞬きつく握られて弛緩したのをアリスは見逃さなかった。姉と言ったって一つしか違わないシエナにそんなことができるなんて思ってもいなかった。肌が粟立つのを感じた。握りつぶした感情が恐怖なのか、それとも怒りなのか、その時アリスにはわからなかった。

「嫌いではありません。ちょっとした勘違いをしていただけです。次からはうまくやります」


 シエナは微笑んでそういった。ヘンリーはうなずいた。

「レディになるためには必要な知識だ。しっかり身につけるんだぞ」


 このままじゃまずい。シエナの怒りが爆発して何をされるかわかったもんじゃない。


 そうだ、とアリスは思いついた。


 一週間後、外国語の時間。アリスはわざと質問に間違えて答えた。ガヴァネスの口がへの字に曲がるのも気にせず、むしろ、早く曲がってくれと念じていた程だった。その日、彼女の口はずっとへの字に曲がっていた。


「今日のところは難しかったかしら」ガヴァネスはそう言って鼻から息を漏らすと本をまとめて部屋からでていった。


 シエナと二人きりになるのは嫌だったので、アリスはすぐに立ち上がって出ていこうとした。


 これできっとしばらくはおとなしくなるだろう。


 あと数歩で扉に手が届くというところで後ろから声がした。

「待ちなさい」アリスは扉に伸ばした手をそのままに振り返った。


 シエナはアリスを睨んでいた。見たことがないほど顔が真っ赤になっていた。


「今日のは何? どうしてわざと間違ったりなんかしたの?」


 アリスは驚いて言った。「わざとじゃ……」

「わざとでしょ!?」シエナは手を握りしめ下唇を噛んだ。そこでようやくアリスは自分が間違ったのだと理解した。この方法じゃだめだったんだ。

「違うの、そんなつもりじゃ……」アリスは後ずさった。と、そこにメイドが一人入ってきた。メイドはシエナとアリスの姿を見ると驚いたように言った。

「申し訳ございません。授業は終わって誰もいないと思っていました……」


 アリスはメイドの脇を通り抜けて部屋から逃げ出した。


 失敗した。


 そう、失敗したのだ。

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