懐かしい曲
「緑のスカート、即決だったな。」
一人になった店内でつぶやく。
結局、試着室でなにをしていたのか聞きそびれてしまった。
表はすっかり夜になっていて、会社帰りのサラリーマンがぽつりぽつり歩いているだけだ。今日は金曜日。
金曜日はいつまで経っても特別な日な気がする。お休みの前の日。もう別に土曜日は休みじゃないのに刷り込みはすごい。
体も濃いめのハイボールを欲している。
20時。
少し早いけれど店を閉めてしまおうか。そんなことを考えながら店内をうろうろする。
お風呂に入る前のベッドで転がっている時間と、店を閉める前の店内を徘徊する時間は似ている。さっ、とやってしまったら一瞬なのになんとなく余韻を探して先延ばしにしてしまうこと。
一日の終わり。
いつも金曜日は日が変わる頃までこっそり店を開けている。開いているか開いていないかわからないくらいで。気づいた人にだけ入ってきて欲しい、そんな思い。金曜日の夜に来店するお客さんはだいたい迷子のような顔をしている。そのなかでも定期的にやってくる酔っ払いの話を聞くのが好きだ。まだ若く見えるのに、少し薄くなり始めた頭を丁寧になでつけながら、ほんとうか嘘かもわからない話をしてくれる。
でも、今日はきっと来ない。
彼は月がきれいな夜に決まって現れる。
雲が月を隠しているこんな日は、今頃何をしているのだろう。
ピアノソナタ第2番を聴きながら、のんびりと店仕舞いをする。随分とピアノには触れていないけれど、やっぱりピアノの音色は安心する。母がいつも弾いていたこの曲。感情豊かな彼女の弾くピアノにはそのすべてが乗っていた。いや、乗っていたというより乗り移ってしまっていた。彼女が弾くとその曲はもう彼女のものでしかなくて、街で同じ曲を聴いても同じ曲だと気づくのが難しい、それくらい彼女はすべてを自分の色に染めてしまう人だった。
彼女と似て非なる私と彼女の距離は、近づいたり離れたりして絶対に追い抜くことのできないハンデがあった。
懐かしい曲は古い記憶を呼び起こす。
子どもの頃のこと。まだ彼女が母だった頃。
「たくさんドーナツを食べたい」
と私はよくわがままを言った。
そのたびに願いを叶えようと、彼女はドーナツを決まって10個買ってきた。
「一緒に食べましょう」
大喜びの私は
彼女と並んで1つずつ食べる。
私より断然口も胃袋も大きい彼女はどんどんドーナツを咀嚼していく。1つ食べ終わると彼女はもう2つめで、私がなんとか2つめを食べ終わると彼女は3つめを食べ終わる。
「口がぱさぱさだよ」
と言い、わたしは必ず紅茶をねだる。
「ふふ」
と余裕の笑みをドーナツと一緒に置いて、彼女は台所で準備をしてくれる。小さくて姑息だったわたしは、この間になんとか差を縮めようと頑張る。
それでも決まって3つめの途中で気分が悪くなってしまった。私はあまりたくさんものを食べられない小さく痩せ細った子どもだった。本当はドーナツなんて1つで、いっぱいいっぱいだった。
トイレの石を数える。
黒い石、白い石。
大きいし、小さい石。
数えているうちにまた込み上げてくる。
さっき食べたドーナツが自分から出て行ってしまうことが悲しくて声を殺してなみだも流した。トイレの水の音に混ざってかき消されてしまえるように。
大体わたしのわがままの後には4つのドーナツが残った。食べて、その多くを吐き出してしまったわたしに翌日またそれらを食べる気力は残っていなかった。ただ、わたしは残ったドーナツを彼女が食べているところも見たことはない。
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