アップルパイ

淹れ直したハーブティーを飲み干した。

店内にはきらきら星変奏曲が流れている。


あのお客さんはまだ出てきていない。


ここのところ続いているこの現象に少しずつ慣れてはきているが、何がどうなっているのかは未だ何もわかっていない。


でも、せっかくなら面白いことが起きていたらいいと思う。急に鏡の中に入って行ってしまうとか、そういうこと。

突然、そんな目に遭ったらたまったもんじゃないだろうけれど。


ガタガタッ。

表でこちらも聞き慣れた音がした。


きっと彼がきたのだろう。

座り続けて凝った体をほぐしつつ、扉に向かう。

カランカラン。

ベンチには予想通りの人物が座っていた。


「こんばんは。」

こちらを向いた彼に微笑みかける。

「こんばんは。

先日はありがとうございました。変なところをお見せしてしまって……。」

「いえ、気にしないでください、大丈夫なので。」

そう言い終わると、少しの間沈黙が流れた。

私は、その後どうですか、と聞くことができなかった。

彼が何も話さないということは、まだ何も起こしていない、ということだろう。


「あ、これ。もしお嫌いじゃなかったら、受け取ってください。アップルパイ、です。」

彼は沈黙を破り、アップルパイを渡してくる。これが私の好物だと、どうしてわかったのだろうか。知らないお店の紙袋だな、とわくわくしながら、彼との会話を思い返す。


「ありがとうございます。アップルパイは、私の好物なんです。遠慮なくいただきます。」

「なんとなくそんな気がしただけだったのですが、それはよかったです。」

そう言って、彼は立ち上がった。


「また、おまちしてます。」

その言葉に彼は小さく頷いて、彼は去って行った。前回よりは幾分元気にはなったが、その後ろ姿は肩が下がり、彼をいくらか老けてみさせた。


でも私まで落ち込むわけにはいかない。

カランカラン。

気を取り直して、店内に戻る。


お客さんはまだ出てきていない。

ちょうどいい。

いただいたアップルパイを食べよう。

程よく小腹が空いている。


紙袋から箱を出して、お茶の準備をする。

店名の書いてある空になった紙袋は綺麗に畳んで、取っておく。

美味しかったら、おじいさんにも食べてもらおう。

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