ギターケース
街中にある鏡が嫌いだ。
なんでかって、そりゃ思いがけないタイミングで自分と向き合わなくてはならなくなるから以外ないだろう。
前を向いて目標だけをみて進んでいるはずなのに、鏡というものはそれを邪魔してくる。
本当にそれでいいのか?
今のお前の姿は、本当にお前がなりたい姿なのか?
善人の顔をして、そう尋ねてくる。
ダメージを受けすぎたジーンズに
襟首がたるんだシャツ。
それらをごまかすように重ねられただけの
皺の目立つジャケット。
対して、ライブハウスのシールが
輝いてみえるエフェクターボードと
黒々と光っているギターケース。
そして、磨き上げられたお気に入りの革靴。
どれも大切で思い出が詰まっている。
バンドでステージに立った時の
高揚感。観客の何か凄いものを見るかのような眼差しに、夢追い人たちの眩い光。
きっとあの時以上の興奮を覚える機会なんてないのだろう、ということにはもう気がついているのにどうにかしてもう一度、もう一度だけ、とこの活動に縋り付いている。
見ないふり見ないふりをして5年。
あの日、居酒屋で決めた。
区切りをつける、と。
子どもの話をしたのだ。
子どもの名前の話。
裕貴也と香織で、裕香。
女の子が産まれたらそう名付けようと
俺は言った。
香織はだいぶ酔っ払っていたから
覚えてないかもしれない。
勇気を出したつもりの言葉はその前の
スカートに持ってかれていた。
「スカート履いたことある?」
軽く口から出た言葉がどうも香織の気に
触ってしまったようで、呂律の回っていない口で繰り返し呟いていた。
「スカートくらい履くもん、履くもん……」
と。
香織の黒いスキニーパンツを履いたすらりと伸びる足が好きなのに。
俺はいつも素直になれない。
ここは駅ホーム、
エスカレーターの近くにある鏡の前。
持っていたエフェクターボードを徐に地面に置いて、電話をかけた。
「速水さん、俺にその仕事、やらせてください。」
行き交う人々はそんな裕貴也の決意など
つゆ知らず迷惑そうな顔をして、その横を通り過ぎていく。
そんな人々を横目で見ながら
服を買いに行こう、そう思っていた。
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