海の見える部屋

あの常連の酔っ払いがくれたお店のアップルパイを持って、おじいさんを訪ねた。


おじいさんは良く来たね、と笑いながら読んでいた本を閉じた。


海側の3階の部屋。


あたりに部屋からの眺めを遮る建物はなく、暖かい日差しに照らされた海が窓の外一面に広がっている。

この部屋に来ると、季節にかかわらず海に入ってはしゃぎたい気持ちになる。特に今日のような一段と暖かそうに見える日は、その気持ちが高まる。しかし、わずかに開けた窓から流れ込んでくる細く冷え切った空気が、まだまだそれには適していないと教えてくれた。


温かい紅茶を入れて、アップルパイをそれぞれの皿に取り分ける。

「ほお、アップルパイか。奇遇だな。ちょうど食べたかったんだよ。」

おじいさんは目を細めて、本当に嬉しそうに言う。

「私もそう言う気分の時に、たまたまこのお店のアップルパイをいただいたんです。

それでとてもおいしかったから、是非一緒に食べたいな、と。」

「良いセンスの方だねえ。お客さんかい?」

「はい。お店にはあまり入らず、いつも店先でお話をしていかれる面白い方です。そうそう、その方のためにと言っては言い過ぎかもしれませんが、店のドアの隣にベンチを置いたんですよ。」

「すっかり店もお客も、おまえさん色だね。」

そう言って、ゆっくりと満足げに瞬きをした。

そして一口アップルパイを食べ、静かに数回頷いた。


窓の向こう側から聞こえる鳥の鳴き声以外に音の無いこの部屋の時間は、町や店よりも幾分ゆっくり流れているように感じる。

私達は太陽がじわじわと沈んでいくのを見ながら、笑い、時々まどろみつつ時間をかけて話をした。

おじいさんがみた夢の話や、店で起きた不思議な事、取り置きを依頼する人、何か吹っ切れたように帰って行くお客さんの事を。


私はお店を始めて以来、こんなに話したいことがあっただろうか、というくらい話をした。それくらい、今年は変わった経験をした1年だった。


「いい顔をしとる。」

2人で見つめていた太陽が沈んであっという間に暗くなり、訪問可能時刻が終わろうとしていた。

おやつタイムに使った諸々を片付け、また来ますね、と言い背を向け、部屋を出ようとした時、おじいさんはそう小さく呟いた。


微笑みを湛えて、私は彼の方を振り返った。

しかし、彼の瞳はすでに窓の方へと移っていた。私は何事もなかったように、また前に向き直り部屋を出た。


そっぽを向いていた彼の口元がかすかに笑っていたように見えた。


死人のような顔をして店を訪ねたあの日から、随分と時間が経った気がする。

私はもう昔のことも、先のことも考えなくなった。


大好きな人がいる今が、毎日を思ったように過ごすことの出来る今を存分に生きていけばいい。ただそれだけなんだと気がついた。


それだけでなんて幸せなんだろう。


ふと溢れた思いに、店までの道のりはずっとふわふわと飛んでいるような心地だった。

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