春の匂い
ちんちくりん。の冬は暖かい。
エアコンだけでは凌げない寒さを、今では珍しくなった石油ストーブで補っている。
そろそろ電気ストーブに替えようか、と考えることもあるが、店内に入ってきたお客さんが時折見せるほっとしたような顔を見ると、そんな考えはあっさりと消えてしまう。石油ストーブの独特の匂いは、人の記憶をくすぐるのだろう。
なにより私自身、この匂いの中でおやつの時間を過ごすことの虜になっている。
午後6時。
BGMは「遠き山に日は落ちて」が流れている。
雑貨を買っていったお客さんを見送ったタイミングで小腹が空いたので、おやつの準備をすることにした。店内には私1人。心ゆくままにおやつの時間を楽しむことができる、と心が躍った。
ココアとパウンドケーキ。
最近はすっかりこの組み合わせにはまっている。
ココアが美味しいと感じられるのは、冬の喜びだ、と私は思う。
ストーブの匂いに甘い匂いが混ざる。
一口パウンドケーキを食べ、追いかけるようにココアを飲む。
このためにパウンドケーキは、プレーンと決めている。お互いの良さを最大限引き出しあっていると感じられるこの瞬間が、幸せなのだ。
カウンターに栞で挟んで置いておいた本に手を伸ばす。
古民家でのんびりカフェを営む女性の話。この時間にぴったりだと思って、途中で読むのをやめてとっておいたものだ。
1ページ、1ページ丁寧にめくりながら、世界に入り込んでいく。自分の状況と背景設定が近いからか、そう時間はかからなかった。
そのとき、カランカランと扉の鈴が鳴った。
は、っとお客さんだと意識が戻るのと同時に、顔を上げた。
すると、そこには見覚えのある人々が並んでいた。
偶然居合わせたのではなく、誘い合って訪ねてきてくれたという感じだが、なぜ3人一緒にいるのか、全く検討もつかなかった。
緑色のスカートを買っていった女性、外のベンチに遊びに来てくれる酔っ払いさん、そして試着後何も買わないことを選んだ男性。
年齢は近そうだけれど、ぱっと見共通点は見当たらなかった。
「お久しぶりです。」
女性がまずそう言った。
そして、それに続くように他の2人もたどたどしく会釈をした。
「どうして3人一緒なんだろう、って思いますよね。」
女性は微笑んで私の目を見つめる。そんなに顔に思っていることが出てしまっていたのだろうか。
「はい、そうですね。あまり共通点が思いつかなくて。」
申し訳なさそうに言う私に、酔っ払いさんが笑った。
「私達、大学の時の同級生で。久しぶりに集まったら、不思議な体験をしたという話で盛り上がりまして……。」
「そうなんっす。よくよく話してみると、みんなおんなじ店に行ってたことがわかって。じゃあ、3人で行ってみようかって。」
「俺はついに店内に入らせていただきました。いつもベンチでしたもんね。」
酔っ払いさんに頷きながら、楽しそうに話す3人を見てとても安心した。
それぞれ、ここに1人で来たときは思い詰めているような顔をしていたのが少し気になっていた。きっともうすっかり吹っ切れたのだろう。
「このお店のおかげで俺、自分の思いに気がつけたんす。」
そう言って、変わらずだぼだぼの服を着ている男性は、あのとき買っていただいた緑のスカートを身につけた女性の手を握った。
女性は照れくさそうに、うつむいた。
「おめでとうございます。」
自分の口から出た、心の底からの祝福の言葉に自分で自分の事に驚いた、がココアの優しい香りに一緒に溶かすことにした。
酔っ払いさんが言っていた、傷つけてしまった人というのはきっとこの男性のことなのだろう。彼もすっきりした顔をしているということはおそらく、彼の夢とやらもいい方向に行ったのだろう。
私はちょっと失礼します、と言い、店の営業が終了している事を伝える札を表の扉にかけた。
楽しそうな、幸せそうな彼らの話をもっと聞いていたくなった。
そして家中の椅子―大きさも形もまちまちのもの―を集めて並べ、多めに買っておいていたパウンドケーキとココアを用意した。
3人は突如用意されたおやつについて口々に喜び、それらを食べた。
私も食べかけだったそれを食べた。一緒に。
その日のちんちくりん。はいつもよりも暖かかった。
そして、私もいつの間にか大きな声を出して笑っていた。久しぶりのことだった。
春ももう近づいてきているのかも知れない。
店内には、「ふるさと」が小さく流れていた。
(完)
ここまでご愛読いただきありがとうございました。
試着室の向こう 碧海 山葵 @aomi_wasabi25
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