0-3
ポタポタと、冷たい滴が肩や頭に落ちてくる。その冷たさで、アゲハはハッと目を覚ました。地下水路のようだった。
「ひーちゃんは!?」
足音とアゲハの声が、迫り来るコンクリートの壁に空むなしく反響した。嗅覚をムッと包み込むのは、アゲハがこれまでに嗅いだことも無いような、不快な匂いだった。
やがて暗闇に目が慣れて、薄暗くだが周りが見て取れるようになる。だが、どこを見渡してもヒイラギの姿はない。足音もアゲハを抱えるハイエナのものしか聞こえないのだ。
「死んだ」
ハイエナはぶっきらぼうに答えた。
心の中で彼の言葉を咀嚼し、何度も反芻する。そして、意味が分かった時、ムッと吐き気を催し、アゲハは嘔吐した。
「おい!」
ハイエナの足元にアゲハの吐瀉物が盛大に掛かり、悪態を付こうとしたのだろう。しかし、彼は言葉半ばで口を噤つぐんだ。
一通り吐き終わったアゲハは、ハイエナに掴み掛かった。
「どうしてひーちゃんを置いていったんですか!? 勝手に死んだみたいな言い方して! あなたが殺したんだ!! 見殺しにしたんだ!!」
喉が痛いほど叫んだ。こんなに叫んだのはいつぶりだろう、こんなに誰かに怒りが湧いたことはかつてあっただろうか。
しかし、命の恩人に対して言い過ぎた、そう思った時には遅かった。
一瞬にして口を塞がれて、そのまま顔ごと壁に押し付けられる。
「黙れ! 一切、歯向かうな。お前はただ俺の指示通りについてくるだけでいい」
そう言うや否や、アゲハの顔のすぐ横の壁をナイフで突き刺した。背筋に冷たい汗が噴き出る。
彼が酷くイラついていることが全身の痛覚を通して分かった。ヒシヒシとした痛みとして伝わってくる。
「勘違いするなよ。俺は助けたくてお前を助けたわけじゃない」
その言葉に彼女は恐れ戦いた。では、なぜ? と問いかけたかったが、鼻を塞がれていたら窒息するだろうと思うほど強く口を塞がれており、言葉どころか嗚咽さえも出せなかった。
「……意味は分かるな?」
低い声で唸られ、とりあえずコクコクと頷く。真っ赤に燃える目に、真っ黒に浮かび上がる虹彩が見えるほどの距離だった。まるで太陽の黒点のようだった。すぐ横の刃先よりも、彼の射殺すような視線が怖かった。
拘束を解かれ、ずるずると壁越しにしゃがみ込む。あまりの出来事の連続に動けないでいると、「早くしろ」と急かされる。
「お前の足はお飾りか? 要らないなら切るぞ」
「そ、そんな! 歩きます……!」
アゲハは俊敏に立ち上がると、彼のすぐ後ろについた。
「あの、質問はしてもいいですか?」
横顔を後ろから覗き込みながら、恐々と聞く。相変わらずとって張りつけたような無表情だった。
「なんだ」
「なぜ、私は暗殺? されそうになったのでしょうか」
聞きたいことは山ほどあった。だが、どの質問なら答えてくれるのかわからず、アゲハはひどく安っぽい質問をした。
「お前が俺と接触したのがバレたからに決まっているだろう」
「……たったそれだけでですか?」
「俺は存在しているだけで大罪人なんだ」
彼はテロリストなのだ、全てが納得いった。しかもアンティーターのデータを傍受したり妨害したりと、ハッキングできるとは大きな組織なのだろうか。
「アンティーターは、ブレインと言う人工知能がすべてを統率している。そして、ブレインがアンティーターにとって邪魔な存在だと認識したら、どんな手段を持ってしてでも排除する。これが理想都市の実態だ。そして、その武力となるのが保衛官だ。管轄しているのはイミューンシステム」
ハイエナは歩幅を緩めることなく、ぬかるんだ地面を歩く。
「お前、保衛官のことをアンドロイドだと思ったか?」
アゲハは目を見開いた。その様子に「図星か」と呟いた。
「あれは人間だ」
そんなモノと、何も知らずに一戦を交えた自分の無謀な行動を顧みて、アゲハは恐ろしく感じた。
「保衛官の材料は廃都市の人間だ。そして、ブレインも、人工知能と生身の人間の脳を結合させて造ってある」
アゲハは全身から鳥肌が立つのを感じた。
この時、アゲハの中に浮かんだのは母親の顔だった。母はどこまで知っていたのだろうか? この理想都市の正体を。
『理想って言うのはね、たくさんの犠牲からなりたっているのよ。そして平和っていうのはね、その犠牲の上に成り立った一部の快楽なの。その上にいる私たちはそれを忘れちゃいけないわ、アゲハ』
どんなに忙しくても、必ず学校の行事にきてくれる母。新作の料理を編み出すと悪戯っぽく笑う母。手作りのケーキを微笑みながら突き出す母。だけど、仕事のことは何も言わない母、勉強のことになると厳しい母、そして、娘に悪意の視線を向ける母……。
アゲハはもう、母が何なのか分からなくなってしまった。
「お母さんは、何をしていたんでしょうか……」
「さあな」
あまりにも素っ気無い返事にアゲハはがっかりする。この男は一体どこまで知っているのだろうか。
そのやり取りを最後に、数時間ずっと黙々と同じ場所を歩いた。好意で助けられたわけではない、と知った辺りから、これからどうなるのか不安と恐怖がじわじわと彼女を侵食した。
どうやら無傷であることにこだわるわけではなさそうだ。臓器を売られるのだろうか、または風俗で働かされる? それとも……。
まるで遠い昔の話やおとぎ話じゃあるまいし、と彼女は自分に言い聞かせた。
「……そ、その、ずっと気になってたんですけど――」
「何だ」
「一体、私を助けた理由は何なんでしょうか」
不意にハイエナは足を止めた。アゲハはその広い背中のすぐ後ろで、慌てて足を止める。二人の距離が、ぐっと近くなった。
「知りたいか?」
そう凄むと、彼が激しく一歩、アゲハの方へ踏み出した。足下の水がバシャッと音を立てて飛び跳ねる。反射的に顔を上げて壁際に仰け反る。
コクリと、静かに頷いた。
大きな火傷痕がピクつき、彼は微かに笑った気がした。
「……お前の母親を殺すための人質にするからだ、と言ったらどうする?」
アゲハは思いがけない言葉に思わず両手で口を塞いだ。未来が見えるヒイラギは邪魔だ。見殺しにする理由にぴったりだった。
止めなければいけない、そう思うと同時に恐怖で何もできなかった。
ただただ、大きな瞳で見つめ返すしかなかった。
「そういうことだから、五体満足でいたかったらいうことを聞け」
恐れ戦くアゲハを尻目に、ハイエナはくるりと踵を返すと、まるで何もなかったかのように再び歩き始めた。
やがて水路は人一人通れるか否かの狭さになる。
何時間もほっつき歩いた気がしたが、実際は数十分程度だろう。その狭い水路も行き当たった。
「アンティーターの最果てだ」
彼は振り返ると呟いた。真っ暗闇のはずなのに、瞳が光を放っているかのように見えた。
見るからに重そうな古い錆臭そうな鋼鉄のハンドルを回すと、仄かに様々な匂いが混じった風が扉の向こうから流れ込んできた。
土の匂いもあった。
「アンティーターの壁の向こうへようこそ、アゲハ」
追放されてしまったアゲハに、もはや還る路みちはなかった。
教科書の話とは違う、想像していたものとも違うった。扉の向こう側にはアンティーターと同じ夜空が広がっていた。
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