chapter5:SWARM(牛虻編)

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 ホウジャクと共に引き渡しを終えたジガバチは、重い足取りで部屋を出た。疲労と痛み、そして憂鬱な心持が相俟って鉛のように体が重い。アゲハがどう行動するか、手に取るようにわかっているつもりだった。だが、あの態度を見て、自信がなくなった。

 足を引きずるようにして外に向かおうとしたとき、バンっという何かを叩きつけたような大きな音とともに怒鳴り声が聞こえて来た。アゲハの声だ。ジガバチは思わず足を止め、その部屋の扉の脇に立った。


「――なぜ変化を見ようとしないんですか!? 人の心は変わります。仲間として迎え入れるべきです!」


「……変わってなどいない。見ただろう? アレがアイツの本性だ」


 相手はハイエナだった。捲し立てるアゲハに対し、いつもの声音で返す。頬杖をつき、無表情でそう言っている姿が目に浮かぶようだった。そして、目下繰り広げられる言い合いは自分の処遇についてだと分かる。


「そんなこと……、ないです」


「ほーう……?」


 弱弱しい声で彼女がそういった時、ジガバチの心臓の奥がキリっとした。


「ならば、尚のこと無理な話だ。人を殺せない戦闘員を二人も置いておくわけがないだろう」


「えっ……」


 冷たく言い放った尤もらしい彼の言葉に、彼女の心がぽきりと折れる。そんな音がした気がした。


「心まで捨てろ、とは言わない。だが、同情は捨てろ。駆虫剤を渡せば、ヤツは必ずお前を殺しにかかるぞ。もともとお前が蒔いた種だ。本当ならば、お前が摘むのが筋だ。だが俺が代わりに――」


「……分かりました」


 やがて、掌握された彼女は言った。きっとあの、出会った頃の能面のような表情を浮かべているに違いない。それとも“悪意”による苦痛に呻いているのだろうか。

 そして声の主が扉に近づいてくる。さあ、どうする? 開けた瞬間、拉致って薬のありかを吐かせるか? それとも……。


カチャリ


 扉が開いた。アゲハが、死の匂いを纏い、出てくる。そして、盗み聞きしていたジガバチとぱっちり目が合う。ガラス細工のような真っ黒な瞳を大きく見開いた。

 あぁ、無理だったと心底自分の行動力のなさに落胆した。結局、彼は何の行動に移せなかったのである。

 しかし、ドアの横、ハイエナのちょうど死角で固まっていたジガバチにアゲハが驚いたのは、意外なことにもほんの刹那のことだった。

 次の瞬間には、何事もなかったかのように扉をバンっと乱暴に閉める。そして人差し指を唇に持っていくと、「しーっ」と口を動かしたのだ。

 彼女に導かれるまま、外に雪崩れ出る。雨がまだ止む気配がなく、勢いよく二人の頭上から雫を落とした。

 ふーっと息を吐き、アゲハが何か言いかけた瞬間ジガバチは言葉を畳みかけた。


「一体どうしろって言うんだよ!! なァ!? 俺はどうすれば良かったんンだ!? それとも、もうお前らにつかまった瞬間から、既にノーチャンだったってことかァ!? 答えろ、アゲハ!!」


 気付けば彼女の小さな胸倉に、掴み掛かっていた。このままぐちゃぐちゃにして、小さく切り刻んで、逃れれたらどんなに気が晴れただろうか。いや、違う。そんなことはもう、できない。ジガバチの毒針は、いや翅も手足も、アゲハにとっくに奪われていたのだ。

 アゲハの瞳に映った自分の顔が、情けなく、恨めしい。頬を濡らしていたのは、きっと雨ではない。


「いいですか、落ち着いてよく聞いてください。時間がありません。質問は無し」


 逆上しているジガバチに対して、アゲハの声は冷静だった。だが、本当に時間がないのだろう。肩を持つ手が震えていた。


「寄生虫を盛ったという話は、とっさに考えた嘘です。本当はただの生理食塩水です」


 生食、つまり生理食塩水のことだ。人の体液とほぼ等張に作られた無害な液体だ。そんなものに、自分はここまで翻弄されていたのか、と驚き呆れる。だが、実にアゲハらしかった。


「あの日の勝負は私の負けです。きっと、今にでもこの私を八つ裂きにしたいという気持ちがあるかもしれません。ですが、今は自由に生きたいといったあなたの言葉を信じます。そのことだけを考えて、逃げてください。ハイエナさんは私が足止めしておきます。あなたを助けたいという気持ちが、ここまで空回りしてしまったことを許してください」


 そう言うと、ドンっと突き放す。怒り、悲しみ、悔しさ、戸惑い……色んな気持ちがどっと込み上げてくる。しかし、混沌とした感情が渦巻く中でまず思ったのは、自分が逃げたらアゲハはこの後どうなる? という疑問だった。

 尋ねようとしたが、彼女はあまりにも切羽詰まっている様子だった。ハイエナが怖いのだ。言う隙はなかった。


「あの日、泣きたいときは泣けって言ってくれてありがとう。まだ間に合うって言ってくれてありがとう。そしてたくさん傷つけてすみませんでした……」


 そう言ったアゲハの声は震えていた。そして、あの日のように泣いていた。唇は噛まずに、思いっきり泣いていたのだ。目から大粒の涙を溢し、何度も手で拭っていた。

 遠くの背後で、ハイエナの姿が見えたとき、ジガバチは自分でも驚くような行動に出た。いや、本当はもっとずっと前からこうしようと思っていたのかもしれない。それがいつから、そう思い始めていたのかは分からない。

 泣いているアゲハの腕を掴むと、口を塞いで抱き上げた。そして、駆け出す。

 ひゅっと空を切る音共に、足にワイヤーが巻き付いた。ハイエナである。引っ張れば締め付けられて、身が切れることはかつて学んでいた。絞まる前に切ったが、薄皮一枚がスッと切れる。恐ろしいほどの切れ味だった。

 足を止めずに、走った。雨の音は足音を消してくれる。ジグザグに走り、追っ手を撒こうとする。この感じは、アゲハの友人ホタルを見殺しにしたあの日を思い出す。

 あの日、アゲハにずっと言おうと思っていたことがあった。


『このまま俺と一緒に、逃げ出そう』


と、いう言葉だった。何度も言おうとして躊躇った。やがて、言う機会を失ってしまった言葉だった。

 彼女が自身における現実と、背負わされた業に向き合おうとしていることを知ってしまったからだ。そして今は、今伝えたい言葉は――。

 足首がじくじくする。妙に、血が止まらない。

 アゲハは一瞬もがいたが、意味がないことを悟ると大人しくなった。

 そして、人気(ひとけ)のなさそうな廃墟に着く。追っ手はすぐに来るだろう。だが、相当闇雲に走った。話す時間はあるはずだった。アゲハと二人で、話がしたかったのだ。

 「ハァ、ハァ……」という自分の息遣いが白い空気になって消えていく。

 廃工場の重い扉を開けると、すぐにアゲハを解放した。すると、自由になった彼女はすぐに隙を見せたジガバチに飛び掛かった。果物ナイフのようなものを突き出して、切りかかったのだ。

 とっさに腕を前に出して顔を庇った。グサリとナイフが前腕に突き刺さる。アゲハはナイフは引き抜かず、腰を屈めて突き飛ばした。

 そして馬乗りになると、メス刃をジガバチの首筋に当てがう。


「ジガバチ、私は知ってます。あなたは最初の一発目を受ける癖があること。体の丈夫さとリーチを活かして、カウント攻撃を繰り出すためですよね。でもそのせいで、私の攻撃を受けてしまった。たった今から、もうあなたの負けです」


「そうだな、俺の負けだ殺したいなら殺せばいい。元々お前の気紛れで生かされた命だ」


 抵抗はしなかった。両腕を頭上に上げ、無抵抗のポーズをとる。そうか、受けてはいけない攻撃だったのか。毒でも塗ってあるのだろうか。自分に利かない毒が……。彼女にはこの能力の欠陥について、話してしまっていたからだ。


「けどなア、俺も知ってるんだぜ。お前に、俺は殺せない……、そうだろ!?」


 半分は確信があったことだが、残りの半分ははったりだ。アゲハも恐らく同じ気持ちだったはずだ。そして、ジガバチは自分に向かってはこないだろう、という方に賭けたのだ。その気持ちに報いたかった。


「……どうして逃げなかったんですか? 何者にも支配されずに生きるって言ったじゃないですか!!」


 思った通り、アゲハは質問には答えず、代わりに泣きそうな声でそう言った。刃を持つ手にまるで殺気がこもっていない。


「俺はもう、逃げねエ!!」


 叫ぶ彼女の声に呼応するように、彼もさらに叫んだ。

 一緒に逃げようという言葉は、いつしか、逃げない、という言葉に変わっていた。その言葉はあの時言い出せなかった言葉の代わりに、どうしても伝えたかった言葉だった。


「お前と一緒に闘う。お前だけの味方になってやる。俺は今まで、何のしがらみもねー中で自由に生きて来た。だから、お前のために……お前だけのために行動できる」


 アゲハにとっては、思ってもみなかった言葉だったのかもしれない。息を呑むと、そのままの格好でフリーズしている。自分でもおかしいと思っている。そういえば、頭もグラグラしているような気がする。血が、止まらない。足の小さなケガさえももさっきから止まらない。


「……なんでそん――」


「あんなァ……、人間ってのは利他行動っつーのがとれんだよ。そんなモンに……、理由求めてどーすんだよ。ごちゃごちゃ言ってんじゃ、ねェ……」


 狼狽えたアゲハが何か言おうとしているのを遮った。そして、完全に戦意を失った彼女を、今度は逆に押し倒した。右手に持っているメス刃を蹴り飛ばし、腕に刺さったナイフを抜く。そして放り投げた。

 傷口から、ドバドバと血が溢れ出る。頭に血が上ると、くらくらしてくる。やはりおかしい。やはり、何か塗ってあったのだろう。

 するとアゲハは、ジーっと目を見開いて彼の瞳を覗き込んだ。


(コイツ、この期に及んで……!)


 彼女の意図に気付いたとき、バチっと頬を平手打ちした。驚きと痛みで「いだっ」とアゲハが小さく叫んだ。


「“悪意”見ようと……、してんじゃねェ!」


 アゲハのシャツがどんどん真っ赤に染まっていく。自分の血だ。加えて変な汗も出る。ぽたぽたと、彼女の上に滴り落ちる。意識を失う前に、ハイエナに殺される前に、どうしても聞いておきたいことがあった。


「俺は、俺はできるぜ……。お前のために、何人でも殺してやる。何発でもアイツに殴られてやる。好きじゃねー……女とだって何人でもヤれるさ……。男にだって、抱かれてやる……」


 回らない頭で、ジガバチは必死に言葉を紡ぎだした。何か途轍もなく変なことを口走っているような気がする。


「……俺が……、必要なんじゃないのかァ? 助けて、って……言えよ! アゲハ!!」


 最後の力を振り絞って、胸倉をつかむと、再び怒鳴りつける。

 そう、この問いに続く答えが聞きたかったのだ。かつて彼女が好きだったという男に、彼女が言えなくて後悔したという言葉だ。それは――。


「……たすけて……ください」


 消え入るような彼女の声がそれに答えた。

 言葉を絞り出すのに必死で気付かなかったが、アゲハは泣いていた。顔中を涙と鼻水だらけにして、わんわん泣いていた。


「……おう」

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