4-7
へたったソファのちょこんと座ってるアゲハは、落ち着かない様子でタブレットの画面と睨み合っていた。今後のビジョン、状況に関する疑問点と考察、戦闘に置いての反省……、それらを書き連ねてはノートに整理しているのだ。アゲハは非常に几帳面なところがあるのである。
しかし、このような状況では何の考えも浮かばない。悩みの種は、目下進行中の賭場の件である。
ナナホシのところに行けば状況が掴めるかもしれない、と思い立ったアゲハは、腰を上げようとした。その時である。
「どうだい、そのタブレットパソコン。型番は古いけど、使いやすいでしょ」
切って張ったような笑みを浮かべながら、ヤブイヌが話しかけてくる。
「いつもありがとうございます。とても役に立っています」
丁寧にお礼を言う裏腹に、猜疑心もあった。ヤブイヌはアゲハが欲しいものを、先回りしてすぐに与えてくれる。頼み事は基本断らない。目元はいつも優しく笑っていて、“悪意”も感じない。
だが、自分に向けられる優しさには必ず裏があることをアゲハは知っている。人はいつだって利己的な生物なのだ。
そして、ここから無駄話が始まるのだ。「今、何をやっているの?」とか、「ごはんは何を食べた?」とかそういった、今時井戸端会議でも話さないような話題である。
彼女はそれっぽい返事を返しながら、せわしなく唇に手を当てたり、座り直したりしている。
その時、たまたまこちらをニタニタと笑いながら見つめるハイエナと目が合った。
「来い、アゲハ。そんなオッサンの話なんかより面白いものを見せてやる」
「ハイエナ、何を考えて――」
しかしそれに答えるのは気を悪くしたヤブイヌだ。眉間にしわを寄せ、表情を一変させる。
「ジガバチのこと、気になっているだろう?」
ハイエナはそう言ってヤブイヌを遮ると、彼を一切無視してアゲハに言った。そして、“オッサン”の小言が発動する前に部屋を出る。
その言葉で、彼女はパッとソファから立ち上がった。
アゲハも、「また来ます」と言って、一礼すると豪雨の中に消えていく。
心中を察して助けてくれたのだろうか? そんな甘い考えが浮かぶが、すぐに消える。なぜなら、全身を這いずり回る“悪意”がアゲハの痛覚を蝕んでいたからだ。
そう、人間はいつだって利己的だ。笑い顔の裏、優しい言葉、気を遣う行動……それを“悪意”を孕みながら、いとも容易く取り繕うことができるのだ。
バケツをひっくり返したような雨の音が、嫌に大きく聞こえた。
☆
娼婦の言った通り、件の男は勝ち上がってきた。試合の空き時間を使い、ジガバチは拮抗剤を打つと傷口を包帯で強く縛り上げた。
コロシアムに戻ると、ヤジが飛ぶ。それに一切動じずシカトをかますと、男に向き直った。
その佇(たたず)まいを見て、なるほど、と思った。どう見てもそこら辺にいるチンピラのような雰囲気だ。にやりと笑ったときに見える歯は金ぴかに光り輝いている。強そうでもないわりに、傷が偉く少ない。
そう、彼は不正選手(チーター)だった。ジャラジャラとつけたリングが怪しい。特に右中指のシルバーリングだ。
「そろそろ頼むぜ、眼鏡女」
『りょうかーい』
ゴングが鳴って、最初に仕掛けてきたのは相手だった。しかし、これをわざと食らった。やはり右手から繰り出されたパンチが頬にめり込む。チクっとトゲのようなもので打たれたような感触が残る。
そして、ジガバチは両膝をついて項垂れる。男が高らかに笑い、群衆が沸き立つ。
「……なんてな」
そう言って舌を出すと、下顎を上方向に思いっきりぶん殴った。舌でも嚙んだのだろう。男の口から血が吹き飛ぶ。
「神経毒使ってんだろ、オマエ」
たった一発殴っただけで、男はわなわなと震えだし、失禁した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
両手を地に着き、額をこすり合わせて相手が謝っているその時、二階の方で騒ぎが起こった。これはヤジなどではない。混乱だった。
バッタバッタと人が倒れていく。やがて、三階でも同じようなことが起こった。突如、「ガスじゃないのか!?」と誰かが叫ぶのが聞こえ、それがきっかけとなり、一瞬でビルを揺るがす大きなどよめきに変わる。
「そろそろかァ?」
ジガバチは誰に言うでもなく呟くと、男に拮抗剤を打った。死んでもらっては困るからだ。男はうつろな目で念仏のように懺悔を繰り返していた。騒ぎなどには全く気付いていない。
『ドアと窓、近寄らないようにね』
ホウジャクが無線を通して言った直後、誰かが混乱の中「窓を開けろ! すぐに外に出ろ!」と叫ぶのが聞こえた。その最中も、人はどんどん倒れる。痙攣し、失禁し、嘔吐している。
嗚咽音、嘔吐音、悲鳴、怒号……地獄絵図だった。
どっと窓とドアに向かう人の流れができた。蛍光灯に集まる羽虫のようだ。しかし、その羽虫たちは、窓に近づくや否や、見えない壁にぶつかったようにバタバタと倒れていった。
ジガバチは男の腿に足を置くと、腕で足先を持ち上げる。何をするか分かったのだろう。男は「やめてくれぇ!」と叫んだ。しかし、それを無視すると、この原理を使って本来は曲がらない方向に力を加える。バキッという音とともに、叫び声が上がる。反対の足も同じようにする。すると男は失神した。
意識を失った男を担ぎ上げると、「あれは何なんだ?」とホウジャクに尋ねた。
窓とドアを目前にして絶命している羽虫の残骸が、目線の先にある。
『音響兵器だよ。指向性が強いから、そこからじゃ何の音も聞こえないと思うけど。でも、近づいたら音波で脳みそと鼓膜がぐちゃぐちゃになるよ』
「お前何モンなんだよ」
呆れたようにジガバチが言うと、耳元でクスクスと笑い声が聞こえる。
『ただの大学教授だよ。元だけどね』
『はア!?』
ジガバチは、“大学”と“教授”の言葉の羅列が物語る意味を知っている。十代だと思っていた青年は、アンティーターで教鞭を揮っていたのだ。
『ずっと言おうと思ってたけど、ジガバチ君よりかなり年上だよ』
そう言うと再びクスクスと笑ったのだった。
気付けば、立っているのはジガバチだけになっていた。頃合いだな、と思っていたところでナナホシの声がした。
『兄さんが合流するんで、アレ、出しますねー』
すると、シャーっという音共に水が降ってきた。このビルに備え付けられているスプリンクラーである。サリンは科学的に不安定な物質である。そのため、加水分解されやすいのだ。つまり、水によって毒性を持たない物質に分解されるのである。さらにこの豪雨が、ジガバチの体に染みついた劇物を分解する手助けとなるだろう。アゲハたちと合流するときは、サリンは無害な液体になっているというわけだ。
「で、こっからどうやってショウジョウを探し出す……?」
合流したホウジャクは、全身に防護スーツ、ガスマスク、滑車の付いたタンクが付いたホースという重装備で立っていた。
表情は見えないが、困惑しているのだろう。一人ずつ当たって訊きだすしかない、そう言いかけたとき背後で音がした。
「こイつガ“ショウジョウ”だ」
ジガバチが見逃してやった、アンドロイドだった。引き千切られた方の腕を口に咥え、残った腕ででっぷりとした中年の男を抱えている。
「借りハ返しタ……」
そう言うと、ショウジョウを床に打ち捨てるとその場を去る。
「いいの? 逃がして」
ホウジャクの問いに対し、「あァ、別に」と返事をする。
「君って、案外そういうキャラだったんだね」
「はア?」
一人ずつ捕虜を抱えると、びちゃびちゃと数センチ溜まったスプリンクラーの水を踏み歩く。
屍を乗り越えて、進んでいく。しかし、正面玄関を出たところで、ジガバチはピタッと足を止めた。
「……アゲハ」
傘も差さず、土砂降りの中、アゲハは少し離れたところに立っていた。何しに来た? 来るなと言ってあったはずだった。だが、背後にはハイエナが腕を組んで立っているのを見て嫌な予感がした。表情は遠くてよく見えないが、笑っているようにも見えた。
「それ、ヤブイヌのところに持って来い」
二人を指さすと、ハイエナは声を張り上げて言った。そしてくるっと踵を返す。
その時、アゲハは何かを言いかけた。そして狼狽えるような表情を作る。だが、その目は、今ジガバチが最も見たくない感情を宿していた。怖いものはなかったはずだった。なのに、いつしか、怖いものができた。それは、アゲハのその目だ。
「そんな目で……!」
怒鳴りつけようとした。だが、その言葉の続きは言えなかった。一歩前へ、まるで縋るように彼女の方に足を繰り出したとき、まるでそれに逃れるように後ずさりしたからだ。
当たり前だった。背後にはドアに張り付くように無数の死体が犇めいていた。自分の今の姿も相当ひどいだろう。
「ご、ごめんなさい!」
いきなり怒鳴りつけられて、困惑したのだろう。投げ出すように言葉を紡ぎだすと、ジガバチに一切目を合わせずにアゲハは駆け出した。そしてハイエナの後ろに付いて行った。
「血まみれだから怖がられてんじゃん」
二人がいなくなった後、茶化すようにホウジャクはそう言った。そして、持っていたホースで水を掛ける。だが、彼はそれにリアクションする余裕はなかった。
「俺、そろそろ殺されるかもしんねェな」
そんな予感がし、ぽつりと呟いた。数週間、ずっとアゲハと過ごしてきた。きっと廃都市では誰よりもよく彼女を知っている。だからわかる、何かを抱えているのだと。
アゲハに、命を握られている。だから、殺されに行く他選択肢はなかった。
「……どうしたら、いいんだろうね。こういうのって」
空を見上げて言ったホウジャクの声は、雨音に搔き消された。
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