7‐2

 いやな汗が噴き出す。


『ヤバい!! 嘘でしょ!? ハッキングバレた! ヤブイヌのおじさんも、兄さんも、通信途絶えてて状況訳わかんないし!!』


 明らかに、ナナホシは焦っていた。その焦燥はアゲハにも伝播していく。そう言えば、三大システム側にもハッカーがいたのだった、ということを思い出す。しかも、カーディアックシステムの個人情報を上書きし、ブレインをも欺く天才だ。ナナホシより上手の敵がいるのだ。

 だが、ヤブイヌの位置情報を確認すると、移動しているようで胸を撫で下ろした。だが、胸の不安は消えない。

 目下の心配の種は、ジガバチだった。先ほどから数十分、位置が動いていない。意図的に動いていないのかもしれない。動けないのかもしれない。それを確かめたかった。


「ここの鎮圧状況ってどんな感じ?」


『九割くらいね。十五階のセキュリティが硬くて、やってる最中に押し戻された。どうするつもり?』


「……やっぱ、ジガバチと合流したい」


 耳元でわざとらしい溜息が広がる。頭を抱えて、神経質そうに眼鏡を押し上げる彼女の様子が目に浮かぶようだった。彼の安否よりも、ハイエナのところに向かわせたい思惑が見え透いていた。その気持ちは痛いほどに伝わった。


『言ったって聞かないんでしょ』


「……うん」


『いつかの、どこかで見たことがある状況ね』


 そういうと、柔らかく笑った。アゲハも同じことを思っていた。初めて、二人で仕事をした、あの日を思い出していた。だが、あの日の彼女たちとは、何もかもが違っていた。きっと、導く結果もあの夜とは違うものになるだろう。



 ジガバチはより非力な捕食者を狙うため、情報格差(デジタルデバイド)の奈落に落ちた情報弱者を格好の餌として生きて来た。山で、非文明的な生活を行う情報弱者である。

 弱いものほどよく群れる。自然界でもそうだ。アリ、ムクドリ、ドブネズミ……。小さな魚だってそうだ。食物連鎖において、最下層に位置する被食者は生存率を上げるために群れる。より強い個体を守り、より被害が最小限に留まるように動くのだ。

 そこで、捕食者はそれに抗い進化する。より、多くの被食者を蹂躙し、より、それを安全に執り行うのだ。共振化である。

 捕食者側である彼は、より効率を上げるために必要な力を身に着けた。それは、人同士の関係性を見極める洞察力である。それを使って誰を、どの順番で捕らえるか、いや、殺すか、生かすかさえも、判断するのである。

 それは、うまく機能しているはずだった。


「キャッハハ!! 神経に作用する薬物が効かない!? そんなことってあるのねぇ!? これって掘り出し物じゃないっ!?」


 キンキンと耳に着く高い声で、女が叫ぶようにして言った。全身の筋肉が弛緩したように、力が入らない。それなのに、ぴくぴくと引き攣るように動く。筋弛緩薬を盛られたのだ。だが、通常それは末梢神経に作用する。彼には効かないはずだった。恐らく、ただの筋弛緩薬ではないのだろう。

 着崩した白衣の裾から、足首までの丈のスリットスカートが見える。そのちょうど目の前にある右足が、顔面に向かって蹴りだされる。真っ赤なヒールブーツのつま先が、眉間と鼻にのめり込んだ。

 手足を縛られているが、こんなものがあってもなくても、動けないほど力が入らなかった。当然、全ての暴力を甘受するしかない。

 

「生きてるぅ?」


 甘ったるい声を出しながら、何度も蹴りつける。これは、答えるまで続く、と思ったジガバチは、身を微かに捩って応じた。


「あ、生きてた。アハハ!」


「動けないのでしょう。ライラックを呼んで、コイツの処遇を決めましょう」


 もう一人の声は、理性的に聞こえた。どちらも顔は見えない。顔を上げることすらできず、地に突っ伏して暴力に耐えた。

 そうだ、この女二人に、油断したのだ。アゲハが居なくてよかった、と思ったが、違う。

 アゲハが居れば、こんなことにはならなかっただろう。


「えぇー! ユウガオ先輩、飼いましょうよ!! ぐっちゃぐちゃにして、どろどろにしましょ? こんな面白い被験体は、手に入りませんよぉー」


 媚びるような熱を帯びた声を出し、サイコパスの白衣女の足元は“先輩”に擦り寄った。「……はぁっ、はぁっ」と妙に甘い吐息の声が続く。何かが吸い付く音、そう、唇だ。その不快な音と息遣いが交互に頭上から聞こえてくる。

 もう何度目になろうか、情事を致す感覚を締め出すように、目を閉じた。


(くたばれ、ビッチ共!)


 心の中で悪態を吐いた。彼女たちは、ただのマッドサイエンティストではない。性的サディズム障害を持つ、レズビアンだったのだ。



 アゲハをヤブイヌに預け、保衛官をいなしたところまでは良かった。ブッチャーナイフの攻撃を寸で躱し、そのすぐ後ろでコンクリートの壁が大きく陥没したのを見て肝を冷やしたのを覚えている。以前の自分だったら、一瞬でお陀仏だったに違いない。

 壁は、蜘蛛の巣状に亀裂が入っていた。拳で、砕いたのだ。保衛官の身体能力は化け物だった。


「恐怖や躊躇のリミッターを外して、強靭な体を手に入れたってわけかよ」


 回し蹴りを食らわし、横から来るナイフの攻撃を躱す。その遠心力でほんの少しぐら付いた隙を狙って、傾いた方向にもう一度蹴りつけた。ぐら付きが大きくなったところで、右手の鉤爪で大きく腹部を切り裂いた。はずだった。

 だが、保衛官は驚異的な反射能力で避ける。切ったのは、薄皮一枚。心許なさすぎる。左手で銃を弄るのが見える。撃たれる、と思ったジガバチは、咄嗟に床に突っ伏した。パンっと言う音がすぐ頭上を弾け飛んだ。

 すぐに右手のブッチャーナイフが来る。右にくるっと回転し、避ける。目と鼻の先の床に、刃先がめり込んでいた。

 拳銃を持った手に掴み掛かり、銃を奪い取る。敵は、まだ床からナイフを抜こうと藻掻いていた。


「……負けるかァッ!!」


 そのまま、背負い投げして床に叩きつけた。それと同時に、喉笛に刃を突き刺す。びしゃっと返り血が飛び散り、事切れるのを確認し、ようやく安堵する。

 こんなものがリラを拠点に、うろうろしていることを考えたら堪ったものではない。狙うは非戦闘員だ。ラボから偉い人間を連れ去り、楯にして歩く。そのつもりで忍び込んだのが、双子葉製薬の一番大きな施設だった。

 二十人程度いた職員たちを、一瞬で制圧した。そして、双子葉の“偉い人間”は、ユウガオとライラックと言う名の女であることが分かった。つまり、母オオゼリの後釜である、最高責任者だ。

 長身の女が、冷ややかな目をして麻酔銃を構えているのを見たとき、勝ったと思った。

 神経毒が効かない、と言うのは即ち、無敵だと思っていた。巷に出回る麻酔薬は全部と言ってもいいほど、彼の能力の前では無効だ。危惧するのは、ヘビ毒くらいである。ヘビ毒には、筋肉や細胞壊死、出血毒などがある。だが、それらを薬物として摘出したり、似た物質を創りったり、と応用することは出来ない、とされていたはずだった。


 パスッ!!


 スッと一発目の弾道を避ける。その時、背中に痛みが走る。肩に目をやると、注射筒が刺さっているのが見える。後ろからも撃たれたのだ。「まじぃ?」と、その主が笑うのが聞こえる。どんな表情でその言葉を発したのかは分からない。見向きすらもしなかったからだ。

 まずは目の前の一匹だ、ともう一度長躯な女に向き直る。そのまま後ろは一切振り向かず、掴み掛かろうとした。


 パスッ、パスッ!


 目の前の女が、きつく顔を歪めて、今度は命中させた。さらに、もう一発、腿の裏に食らった。後ろから撃たれたのだ。

 何発撃っても同じだ、そう言おうとして、一歩右足を前に出した。その瞬間、前のめりに倒れたのだ。こけたのか? そう思った。いや、違う、右足から崩れ落ちたのだ。

 それに気づいた時には、もうすべてが遅かった。


「マジ? ヒグマ一頭分のケタミン入れたんだけど」


「……結局、何が有効だったの」


「さぁ? 混合鎮静薬だったしぃ、どの組み合わせかもわかんないですねぇー! 試してみましょうよお、先輩っ?」


「そうね」


 彼は、意識を手放したのだった。

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