7‐8
血腥(ちなまぐさ)い殺戮現場となってしまった、研究施設の一角を後にする。先ほどの戦闘で、ナナホシとの連絡が途絶えてしまった。ここからは独断専行となる。
そして、先ほどまで夜の静寂に包まれて双子葉製薬(メタボリックシステム)は喧騒に包まれつつあった。
ガシャン!
ガラスが割れるような大きな音に、アゲハは肩を震わせた。悲鳴や響(どよ)めきが上がる。保衛官の、覚醒が始まったのだ。元廃都市の彼らが、目を覚ましたらどう動くのか、彼女には全く予想がつかなかった。
騒ぎから離れる様にして、二人は進んだ。
「お前、強くなったよな」
そう言ったジガバチは、言葉に反して、ちっとも嬉しそうではなかった。そのため、アゲハは気まずそうに笑い返した。
「ここのフロアに、確か、調剤室があった」
思わず、え? と言う声が出る。ハイエナのいるフロアに行かなければ、ヤブイヌと合流しなければ、そう言った気持ちに急(せ)いていた。
「足、痛ェんだろ」
「……す、少し」
「熱も、あるよな」
ドキッとして、言い淀んだ。先ほど嘘のように動いていた足の怪我は、今では激痛と発熱を帯びていた。ドバドバと脳内麻薬が出ていたのだろう。その鎮痛効果が切れ、ついていくのがやっとだった。
「……えーっと、すみません。解熱剤忘れてきちゃって――」
「責めてねェよ……。いや、違うな。むしろ俺のせいだ」
「そっ、そんなこと――」
「何で、いつもこうなっちまうんだろなァ。お前を見た時、安心しちまった。何とかしてくれるって頼っちまったんだ……」
アゲハは、彼の心中を初めて知り、頗る驚いた。そんなことはない、と自分がいかに助けられたかを押し並べようと頭をフル回転させる。なにも、身体的な窮地だけではない。アゲハに大切な言葉をかけ続けたのは、彼だった。言うなれば、そう、彼は彼女の――。
しかし、刻一刻と目まぐるしく変わる状況は、彼女の言葉を待ってはくれない。
言葉を紡ぎ出そうと口を開いた彼女は、声を出す代わりに目の前を行く彼の上着を強く引いた。丁字路の分岐地点、彼の歩が曲がり角の手前で止まる。と、同時に乾いた発砲音が響く。
そうだ、誰かが狙撃する機会を狙っていた。
「居るのは分かってんだ。お前らも、あれか? ホエーカン?」
恐らく発砲した主の声だ。“悪意”の感じからして一人である。いや、違う。第三者がいるようだ。
なぜならその言葉に続き、「ん?」と、誰かに向かって話し始めたからだ。
「おめーは、どっからどーみても、ホエーカンだな」
相手からの返答はない。これは、悪手だった。本物の保衛官は、このように流暢には話さない。彼女は両手で思わず口を塞いだ。振り返ったジガバチの目を合わせると、じりじりと後退りする。そして、反対方向に向かって走り出した。
パンッ!。
乾いた銃声音が、背後から追ってくる。どちらの発砲音かは不明。覚醒した元保衛官と、それを免れた保衛官が混在している状況なのだろう。触らぬ神に祟りなし、だ。
それから、調剤室を目指した。
そこに着くまでの間、何度か職員と保衛官に鉢合わせた。しかしジガバチは、アゲハが構える前に、彼らに飛び掛かり、一撃を加えた。その様子に、彼女は焦慮の念を見た。
調剤室の前で、最後の保衛官を伸(の)す。脈がないのを確認すると、彼は銃を抜き取って彼女に渡す。
電気の点いていない調剤室の扉に、職員から切り取った指を翳すと扉が開いた。
一歩入って電気がつくと、アゲハはすぐ真横に人影を捉えた。真っ暗な部屋の中で、マネキン人形のように、ピクリともせずに佇んでいたのだ。咄嗟に、絶叫しそうになる。その口をジガバチはパッと防いで苦笑した。
「落ち着けって。アンドロイドだ」
扉の前で待機する人影の瞳は、生気を宿していない。そうわかると彼女は胸を撫で下ろす。中肉中背の女型、白衣を着て、専用の充電ステーションに頚部を密着させている。恐らくその容姿から、調剤の用途で使われるものであると推測される?
待ってろ、と言ってその場を去るジガバチを彼女は呼び止めた。
「さっきの話の続きなんですけど……」
「悪ィな。忘れてくれ」
素っ気無く、かつ有無を言わせない物言いに彼女は続ける言葉を失ってしまった。今、言わなければいけない気がする。その想いに反し、頭がぼうっとする。熱が傷口からじわじわと全身に広がっていく。
去る背に向かってかける言葉も見つからないまま、座り込んだ。そして、目を軽く瞑った。
どのぐらい、そうしていただろうか。お尻が痛くなり、アゲハは体勢を変えようと、膝を抱えて蹲る。その時、視界の端でちらっと何かが動くのが見えた。ジガバチか、そう思って再び目を瞑る。
部屋のもっと奥にある別室、散薬台と錠剤台のあるところで音がする。薬瓶同士がカチリとぶつかる音、布の擦れる音、リノリウムの床を踏む音……。これが彼の立てる音に違いなかった。
それでは、自分のすぐ横で、息を潜めるモノの正体は何なのだ? 全くの“悪意”どころか生を営む上で出す音を一切出さずに、揺らめくこの影は一体何なのだ?
アゲハはゾッとなり再び目を開けた。
恐る恐る視線を右に向ける。ちょうど、調剤ロボットのいた場所だ。充電ステーションに目をやる。しかし、そこはもぬけの殻だった。先ほど、その場所で俯いていたロボットは忽然と姿を消していた。
ハッとして彼女は、視線をずらした。さらに右、正面、そして左側を振り向いた時、アゲハは己の死を悟った。
目と鼻の先、と息がかかりそうなほどのゼロ距離。きっと彼女に呼吸と言う概念があるのならば聞こえただろう。それどころか、心音すら聞こえる距離かもしれない。それほど近くにいたのだ。
音もなく、“悪意”もなく、“彼女(ロボット)”は人差し指を彼女の額に向ける。
冴えわたるような青い瞳が、まるで生き物のように見つめている。
そして、人差し指は徐々に長く、平たく、鋭利になっていく。ああ、これは軟膏ヘラだ、とアゲハは思った。本来の用途はとは違うが、額に突き刺されたら死ぬだろう。そう思った。
銃を撃つか? いいや、間に合わない。間に合ったとしても、何だというのだ。相手は機械だろう。
叫んでジガバチを呼ぶか? これも間に合わないだろう。脳漿をぶちまけた瞬間を見せて、嫌な気持ちにさせるだけだ。
そうか、死ぬのか。やはりあの時無理にでも引き留めて、お礼を言っておくべきだった、と後悔した。
心臓の鼓動が妙に静かで、熱に絆されていた頭が冴えわたるようだ。保衛官たちが奏でる破壊音と喧騒が、やけに近くに聴こえるようだった。
アゲハはギュッと目を閉じた。
この感じは、懐かしい。何回目になるだろうか。二度と開くことはないと覚悟して閉じた瞳が、再び開くとき、いつも目の前には王子様(ハイエナ)がいた。
もし願わくば、もう一度、会いたかった。
「元気そうだな、アゲハ」
「……え?」
何ということだろうか、今一番逢いたい彼の声がするではないか。続けて、すぐ真横で銃声が轟く。
馬鹿な! アゲハは目を開けた。
「……嘘。どうして……」
そう言うとバキバキと、彼女の腕を握り潰す。ヘラになった右腕が、ひしゃげる。顔も、首を傾げたような不自然な角度で曲がっていた。撃たれた衝撃で、青い目がべろりと飛び出ている。
彼は、頚部に銃口を当てるともう一度撃った。
透明の液体が飛び散り、そのロボットはまるで気抜けするようにアゲハの方に向かって倒れ込んでくる。
ハイエナはそれを引っ掴むと、後ろに引きずり倒した。
「切り刻まれた死体の後を追って来た」
彼は調剤ロボットの体液を拭き取りながら、いつものように笑った。「何の音だよ!?」と、血相を欠いた様子のジガバチが視界に映る。
彼女は形振り構わず抱き着いた。具合が悪いのも、怪我が痛むのも忘れて、わんわん泣いた。ギュッと抱き返される。再会に、言葉は要らなかった。
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