7‐7
ユウガオは、ぼろ雑巾のようになったかつての恋人をぼうっと眺めていた。いや、彼女との間に愛などなかった。だから、恋人なんていう高尚な関係ではなかったかもしれない。
胸倉を掴まれた彼女の死人のような目がこちらを向いた。鼻筋はひしゃげ、血が滴り落ちている。陸に打ち揚げられた深海魚のように、顔が膨張している。目が合うと、一瞬だけその瞳が輝いた気がした。
ユウガオは、目を逸らした。
「壁の外を、何も知らないお前に、何が分かる!? ジガバチは、お前らに与えられたものよりも遥かに少ない選択肢の中で、いつだって一生懸命に生きて来た。お前らのせいでッ! こうしなくちゃ生きて行けなかっただけなのにッ!! 謝れ!!」
そうか、ジガバチと言うのか。
ユウガオは、愛おしい女と憎たらしいあの男の面影を持つ彼の名前を、頭に焼き付けた。
モクレンはつうっと顔を上げると、薄気味悪い笑みを浮かべた。その顔に、拳が突き刺さる。幾度となく繰り出す執拗な暴力に、本人も疲弊しているようだった。相当に、怒っているのだろう。
やがて、モクレンは動かなくなった。恐らく、死んだのだろう。
それでも拳を上げようとする彼女の手を止めたのは、ジガバチだった。
重たい体を引きずるようにして、駆け寄った。薬の効果が切れたのだろうが、まだそこまで動けたのか、と驚いた。そう言えば、彼女の吹きつけた針を口で咥えて、足枷を外していた。手枷も同様にしたのだろう。
その、手際の良さに心を痛めた。“そうでなくては、生きて行けない”という人生を歩んできた証なのだろう。
「アゲハ、心配かけたな」
アゲハ、という名はどこかで聞いたこともあるようで、ないようでもあった。その声に振り返った彼女は、今までモノクロだった表情を一変させ、色彩を宿した。
先ほどの振る舞いから、彼は色事師の印象が強かった。そのため、ユウガオはてっきり強く抱擁してキスでもするのかと思ったのだ。だが、浅はかなその先入観を恥じた。
「俺は大丈夫……。悪かったなァ」
目を合わせ、優しくそうつぶやくだけで十分だったようだ。彼女は、先ほどの殺気立った表情が嘘のように、うぇーん! と声を出して泣き始めた。
その様子を見つめる彼の眼差しに、ユウガオはオオゼリの横顔を重ねた。そして、彼の立場に、自分を重ねた。
『私は大丈夫。今までありがとう』
そう言って、彼女は優しく笑った。誰かに嵌められ、私刑が成されようとしていたあの日、最後に交わした言葉だった。
エデン計画の内部告発をしようとしていたようだ。二人の身を案じた彼女は、当初、その詳細を明かしていなかった。あの夜、ようやくすべてのことを知った。
モクレンとユウガオは、死体処理車に彼女を隠し、壁の外に送り出した。心臓を止める薬で死を偽装したのだ。
彼女の安全を祈り、固く両手を合わせた。だが、ジガバチの話を聞くには、彼女もまた、壊れてしまったのかもしれない。硬くて、真っすぐな繊維でできた物質は、折れやすい。彼女も例に漏れず、そうだったのだろう。
★
オオゼリは、ユウガオと同じ高校の先輩だった。理数科目の成績はいつも学年一位、美人で熱血、正義感に溢れた生徒会長として有名だった。
対して自分は、理数系は大の苦手。あだ名は脳筋プレイヤー。男女ともに恋愛で多々泣かせてきたことと、助っ人であらゆる運動部の大会に引っ張りだこだったことに由来する。この時は自分の容姿が好きだった。
この頃から、秘かにオオゼリを目で追っていた。そして、一年以内に落とす、と言う願望に変わっていった。そう決めてからは、猛アタックした。男も女も、自分が落とせない人間はいなかった。
当時の自分の漲る活力は、あの女を隣に置けば映えるだろうな、という何とも料簡に足らない理由だった。しかし、とうとうモノにすることはできず、彼女は卒業した。
延長戦だ、そう思った。大学までつきまとってやる、とやけくそになった。いいや、違う。既に、本気で惚れ込んでいた。
「どうして!?」
受験まで最後のカーディアックが出す、スキル判定で、E判定を取った。一番下のランク。つまり、その大学も専攻も、その先にある就職も、不適合であるというレッテルだ。
血反吐を吐くほどの努力をした。すべてを捨て去り、がむしゃらに努力をした。その上での完膚なきまでの敗北だった。
「はぁ、もういいや」
大きくため息をつき、判定シートを丸めた。その時、「みーちゃった」と、あの人の声がした。
「うちの大学に、どうしても行きたいんじゃないのー? もう夢諦めちゃうのー? 私のことはなかなか諦めなかったくせにぃー」
愛しきあの人は、ユウガオの隣にやってくると、挑発的に笑った。あまりに煽情的なので、今すぐに唇を塞ぎ、押し倒してやろうか、とさえ思った。今も諦めてない! そう言ってやりたかった。しかし、彼女との関係は大切にしたかったため、やめておいた。
彼女にはあこがれの人がいることを、人づてに聞いたのだ。そのために、小さなころから猛勉強し、成績を維持し、今の大学に入ったそうだ。その人の右腕になるために、ずっと頑張って来たのだ。
到底、敵いはしないことはとうに悟っていた。この頃から、自分の容姿が嫌いになった。
「システムの判定は、あなたの人生を支配するものじゃないわ。占いみたいなものよ。そんなものに、将来を潰されて悔しくないの?」
何も知らないくせに、詭弁だ、とユウガオは思った。だが、黙って俯いていた彼女に、オオゼリは続けた。
「いいこと教えてあげる。私も、小学校も中学校も高校も……、そして大学も最初はE判定だったのよ。そして、就きたい仕事は、今もEなの。でも、私は諦めないわ。システムの判定何て、覆して見せる」
「……え?」
「で、アナタはどうするの?」
そう言って彼女は、また唆すようないたずらな笑みを浮かべた。
そして、晴れて、二人は揃ってシステムに打ち勝ったのだ。とてもとても小さな勝利だったが、ユウガオは嬉しかった。
しかし同時に、“あこがれの人”の正体も目星をつけた。さらに、ジガバチに出会ったことで、それも疑惑は確信に変わった。
それでも、良かった。肉体関係はなくても、同じ空間に居れることだけで十分に幸せだった。あの日までは、そうだった。
「聞いて、ユウガオ。私は今夜から、自由に生きさせてもらう。何のしがらみもなく、自分が正義だと思ったことをやり遂げることにするわ。だからね――」
彼女は手を握ると、自分の頬に当てた。
「アナタに会いに行く。どんな形になっても、必ず。だから待っていて!」
この言葉は、この先ずっと、彼女を縛る呪いになった。
「先輩、私はクズです。姉さんが居なくなったのに、ホッとしています。何だか鎖が解けたみたい」
初めて聞く、モクレンの泣き言だった。
「いつも姉さんの代わり、姉さんには及ばない、姉さんの劣化版。何をしても、どんなことでも、姉さんに勝てない私はいつも――」
彼女の唇を奪い、押し倒した。彼女が自分に抱く感情には気付いていた。やっと鎖が解けた彼女に、また鎖をつけたのはユウガオだったのだ。
彼女を狂わせたのも、一番狂っていたのも、ユウガオだ。
「“代わり”としての、役割も十分大切な存在よ」
ずっと押し殺していた感情を、欲望を、モクレンに叩きつけるようにしてぶつける日々が始まったのだった。
★
「……ごめんなさい」
言葉を一つ一つ噛み締めるようにして、ユウガオは謝った。
「彼女の代わりに私が謝ります。ごめんなさい」
ばっと二人がこちらを見た。
「殺してなかったのか?」
「……は、はい。だって――」
言い訳をする彼女を手で制すと、彼は立ち上がった。嫌な予感がした。愛おしい彼女の顔が消え、憎たらしい彼の顔が前面に出た。
「オ、オオゼリ先輩の話を聴かせて欲しい。そのあとはどうなってもいい。お願い」
懇願するように、彼女は言葉を紡ぎ出した。
「あァ、そうだったな。教えてやるよ。オオゼリについて――」
彼の口から明かされる彼女の真実にユウガオが愕然としたのと、首筋に何かを打たれるのは同時だった。何も考えられなくなる頭、重たくなっていく瞼、速度を落とす心臓の拍動……。
「こ、殺したんですか?」
アゲハの声が聞こえる。その返事を聞く前に、彼女は意識を手放したのだった。
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