3-5
それからアゲハは、毎日のようにホタルに会いに行った。そして、家に戻ると洗面所を占領し、ホタルに教えてもらったことを実践するのだ。
毎日のように洗面所を長時間使っていたため、ジガバチはことあるごとに突っかかってきた。それを機に、アゲハはハイエナの埃塗れの空き部屋をきれいに掃除し、自分の部屋にすることにした。
掃除片付け、メイクの研究、ヘアアレンジの練習、そしてヤブイヌのところで吹き矢を作る……。アゲハはアンティーターにいるときよりも活き活きしているような感覚を覚えた。
「アゲハちゃんさぁ、雰囲気変わったねー」
あるとき、ヤブイヌにそう言われた。
「可愛くなったのはもちろんだけどさ、よく笑うようになった」
思い当たる節があったアゲハは、思わず顔を真っ赤にして照れた。
きっと、それはホタルのお陰だった。本当に魔法が掛かったように、毎日が充実していた。アンティーターにいた頃は、時間を浪費するような感覚だったが、ここ最近はあっという間に時間が過ぎるのだ。悪夢で飛び起きることもほとんどなくなった。
「アンティーターではAIが画像認識で似合うメイクを教えてくれるんだってー。アゲハに教えてるメイクが本当に合ってるか、いつか答え合わせしたいなぁ」
ホタルはどこで仕入れているのか知らないが、アンティーターでの流行をいつも教えてくれた。アゲハは全部知っていたため、話を合わせていた。しかし、その内心では、ホタルの情報収集力に驚いていた。
もし、全て終わったら、ホタルには自分の身分のことを全部話そうと、ふと思った。
「自分の瞼の形に合わせて曲がるマスカラとかさ、貼るタイプのコンシーラーとかさ、欲しいなぁ」
「ちょっと時間かかるかもしれないけどさ、いつか持ってきてあげるよ」
「え、どういうこと!? 当てがあるの?」
くっきりな二重の大きな瞳が一段と輝いた。アゲハはにっこりと笑って見つめ返すと、大きく頷いた。ハイエナが帰ってきたら、もうすぐにでもアンティーターを潰しにかかりたいほどの気兼ねだった。
アゲハは少しずつ、前に進み始めたのだった。
その日は真冬だというのに変に気温が高く、雨が降っていた。天気は最悪だったが、どうしてもホタルに会わなくてはいけなかったのだ。
曇天の中、アゲハは傘をさして
今日は雨だからだろうか、いやに人通りが少ない。誰ともすれ違わなかった。しかも、A1地区方向に進むにつれて、エンジン音のようなものが地面を伝って、体に響いてくる。なんだか、お昼の繁華街にしては騒がしいような気がする。
そして、そこの角を曲がれば、いつもの通りが続く。そう思った時、誰かの怒鳴り声、すすり泣く声、ガラスの破壊音が聞こえた。そして、あの不快な金属を擦り合わせるような人間の声も……。
(まさか、保衛官!?)
アゲハがその声に気付いた瞬間と、恐ろしいあの真っ黒な姿を目視した瞬間は同時だった。大勢の保衛官がいた。エンジン音の正体は大勢の人を収容できそうな大きさの、車両だったのだ。その車両に、どんどんと人を乗せていく。収容する人間に条件があるのか、詰め込まれている人たちは皆若い女だった。
娼館、路地、通行人手当たり次第に若い女を連れ去っているのだ。
アゲハは踵を返し、駆け出そうとした、その時だった。
「嫌だ、放して!!」
喧騒と騒音に紛れて聞こえてきたのはホタルの声だったのだ。アゲハはそれを聞いた瞬間、足を止め、そちらに駆け出した。
だがその瞬間、グイっと後ろの襟を力強く引っ張られ、大きくよろける。その拍子に傘が手元から離れる。そしてあっという間に、抵抗する暇もなく抱きかかえられた。そのまま全速力で路地裏をB地区方向に連れて行かれる。
「っぶねー! 間一髪」
追ってきたのは、ジガバチだった。
「ダメ! ホタルが――」
アゲハが声を発した瞬間、口を手で押さえられる。振りほどこうとするが、当然ビクともしない。
「無理に決まってんだろ、このノロマが! 何人いると思ってんだ! らしくねーことしてんじゃねェ!!」
ジガバチが怒鳴りつけた。ぐうの音も出ないほどの正論は、雨の音ですぐに掻き消される。
「お前は生きて、やり遂げないといけねェことが沢山あんだろ」
ジガバチの言葉でヒイラギの事を思い出し、唇を嚙み締めた。ハイエナに甘えるなと怒られたときのことを思い出し、やがてアゲハは抵抗するのをやめた。
全く持ってその通りだったからだ。血が滲むほど強く、その唇を噛み締めた。そうでなければ、今にでも泣き喚きそうになったからだ。
雨に濡れた地面に足を取られ、ジガバチが一瞬滑る。片手を地面について、支え、また走り出す。そして塞がれていた手が離れる。
「でもホタルに、薬あげないと……――」
塞がれた口が自由になったアゲハは思わず、口を開いた。支離滅裂なことを口走る自分の声は、びっくりするほど震えていた。自分でも意味のない言葉だと理解していたが、何も言わないわけにはいかなかった。
「落ち着けって」
そう言ったジガバチの声があまりにも優しく聞こえ、アゲハは堰き止めていた涙を
アゲハは顔をうずめてこっそりと涙を流した。
☆
ちょうどその頃、ハイエナは土砂降りの中の帰路を疾走した。嫌な予感がしたからだ。妙に温い真冬の廃都市の風が、雨を叩きつけている。
ここに来る途中、保衛官を大勢見た。恐らく、人体実験の被験者を確保するためである。廃都市などと言った人が集まる場所に、収容するターゲットを決めて、やって来るのである。遠くから見た時のあの蟻の大群の様な整列を思い出し、ハイエナはチッと舌打ちをした。
そして自分の
「はぁ、はぁ」と肩で息をしながら、玄関に入る。大量の荷物を地面にドサッと落とすと、大きな音が響き渡る。それ以外の音は聞こえない。真っ暗である。そう、誰もいないのだ。
明かりを灯した瞬間、部屋の様子にハイエナは目を見張った。自分が出て行った一週間ほど前と大きく異なっていたからだ。
塵と埃だらけだった床はピカピカに磨きあげられ、天井や床の隅に張っていた蜘蛛の巣もなくなっていた。無秩序に散乱していた物は、秩序をもって整頓してある。
空き部屋だったはずの二階に行くと、アゲハに与えた簡易ベッドが居間から移動してあり、見慣れない化粧道具やヘアアイロンが置いてある。いつの間にか、完全にアゲハの自室と化している部屋の様子にハイエナは思わず失笑した。
あり得ない、とは思ったが逃亡したわけではないことは明らかだった。
そして、ハイエナはふと壁の一角に目が行く。そこにはヒイラギの遺書が打ち付けられていた。ハイエナは、その手記を打ち付けているものに目が釘付けになった。
十五センチほどの針だった。太さは十六ゲージの注射針と同じくらい、今手元にあるサイズの中で一番太いものだ。だが、明らかに穿刺に使う形状ではない。そもそも、こんな長さの針はハイエナは彼女に渡していなかった。そう、彼女が自分で作ったのだ。ヤブイヌのところにある3Dプリンターはタンパク質、金属、プラスチックを生成できるものだ。それを使ったのだろうとハイエナは推測した。
「フン、面白い」
ハイエナは針を引き抜いた。穿孔(せんこう)があり、先も尖っていた。針先は完全に穿刺針と同じ形状である。だが、一つの工夫がこなしてあった。針が簡単に抜けないように“返し”がついていたのである。
アゲハが頬を腫らして帰ってきたあの夜、ヤママユの件をふと思い出した。
「……あの時、何かを学んだというのか?」
思わずハイエナは呟いた。アゲハは進化していたのだ。そしてそれは、アンティーターに楯を突くという無謀な計画に向かって、歩を進めている証拠だった。表情にはおくびにも出さなかったが、確実に前に進んでいたのである。
ハイエナは針を元に戻すと、下腹部に痛みを伴っているのに気付く。先日アンティーターから出る際にで保衛官に撃たれた傷がうまく縫えていなかったようで、傷口が開いていたのだ。
ハイエナはガーゼを噛むと、服を捲る。消毒液をドバドバと掛け、素早い手際で縫合していった。
アゲハに初めて出会った時のことをふと思い出した。手際は悪かったが、均一な縫い目と丁寧な結びできっちりと縫合されていた。自分でやると、走ったり跳んだりした拍子に傷口が開くことはザラにあった。だが、たしか、あの時は傷が癒えるまで傷口が開くことは無かった。
痛みに顔を顰めながら応急処置を終えると、ヤブイヌのところに向かった。ヤブイヌにバレるのはマズイと思ったハイエナは、ナナホシに行方の候補を聞くつもりだった。
「ナナホシ、アゲハがいない。行方の心当たりはあるか?」
ハイエナはナナホシのラボの扉を勢い良く開けると、奥の方にいるナナホシに呼びかける。ナナホシは「ハイエナさま!」と小さく叫んで、ハイエナの姿を認めると、すぐに奥から駆けて来た。
「家に居なかったのですか?」
「あぁ。ついでにジガバチもいない」
ナナホシは一瞬考えるそぶりを見せると、「あぁ、そういえば」と言葉を続けた。
「A1地区で友達が出来たようで、よく足を運んでいたようですよ。アゲハがどうかし――」
「そうか」
ハイエナはナナホシの言葉を最後まで聞かずに短く返事をすると、くるりと踵を返した。だが、同時にナナホシに手を掴まれる。
「待ってください」
ナナホシはそう言うと、強く掴んだ手を握る。ハイエナは「悪いが……」と、その手を引き離しながら言葉を紡ぐ。
「どうして!? どうして、アゲハはいつも特別なんですか!? 私じゃダメなんですか!? アゲハがあの人の――」
「お前はお前で必要だ。それ以上の何を俺に望むんだ」
ハイエナは表情を一切変えずにナナホシの言葉を遮った。
すると、ナナホシが後ろから腰を回し、ハイエナに抱き着いた。
「私を抱いてください。それが望みです……」
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