3-4

 アゲハはA1地区へと足早に向かった。高鳴る鼓動が、早くそこに行けと急いているようだった。一週間分の薬をアゲハは握りしめて走った。

 廃都市には、久しぶりの鈍色の空が広がっていた。

 昼間のA1地区は意外にも閑散としていた。当たり前ではあるが、娼館はどこもシャッターが閉まっている。それでも、ぽつぽつとキャッチや売り子らしき人々とはすれ違った。今日も、ホウジャクはナナホシのためにどこかで働いているのだろうか、とふと思う。

 ナナホシは、カーディアックのデータ改ざんをした痕跡を見たと言っていた。やはり、ブレインを欺くことができる人がシステムの関係者として潜んでいるのだ。アゲハが十七歳まで無事に、ブレインに見つからずに生きてこれたことを考えると、アゲハかその母であるユズリハに近しい人物ではないだろうか。しかも、保衛官によって死刑になりかけた理由は、ハイエナとの接触が原因であることを考えるとすれば、そこまではカバーできなかった人物であるということになるだろう。


「アーゲハっ!」


 色んなことをごちゃごちゃと考えていたアゲハは、まるで夏の虫のようなその声に顔を上げる。そして、声のする方を振り返った。


「どーしたのよ、怖い顔しちゃってさ」


 ホタルだった。今日は黒のワンピースで、シックな格好をしていた。垢ぬけた格好のホタルは、儚げな少女の影に、色気のある強さがにじみ出ているようだった。


「これ、約束の薬。一週間分あるの」


 アゲハはジガバチから貰った薬を渡した。


「……えーっとね、この薬、消化液で溶けちゃうんだって。だから、一日一回の注射で投与してほしいの。針は毎日変えてね。量は――」


 ジガバチが教えてくれた用法を思い出しながら、ホタルにそれを伝える。ホタルは聞き終えると、「ありがとう」と言って手を握った。橙色に光る星屑が、瞳の中で踊っていた。今日のカラコンも、ホタルの色気を存分に引き立てている。


「お礼になるかわかんないんだけど、私もアゲハの髪型とメイク考えて来たの」


 ホタルはそう言うと、カバンをガサゴソと漁る。出てきたのは小型のヘアアイロンだった。カールもストレートもこなせる、しかも電源コードが必要ない最新のものだった。ヒイラギが母親にねだっていたのを思い出す。


「アゲハは綺麗なたまご型の輪郭だし、前髪が重めだから、ぱっつんとか似合うと思う。あとね、顎ラインと鼻の形が整ってて、横顔が綺麗だからサイドを見せた方がいい」


 ホタルはそう言うと、「ちょっと失礼」といって、前髪にハサミを当てた。


「嘘だぁ。そんなこと、言われたことないもん」


 アゲハは目を閉じて、身を任せながら言った。

 アゲハだって、年頃の娘である。興味がある時期はあった。だが、「そんなことにうつつを抜かさないで」と母に一喝されていたのを思い出す。スイバと会う時だけ、反骨精神でヒイラギのマスカラとグロスをこっそり使っていたのが懐かしい。


「本当だって! まあ、任せてよ」


 ホタルは手際よく前髪を綺麗に整える。続いて、肩より少し上の髪の毛を綺麗に巻いていく。


「アゲハ、昨日の男の人、お兄さんじゃないでしょ」

 

 アゲハの髪の毛をセットアップしながら、ホタルは含み笑いをしながら言う。アゲハはギクッとした。何故バレたのだろうか。


「あ、答えづらかったら答えなくていいのよ。私、こういう仕事してるし、人間観察が得意なの。だから、当ててみたくなっちゃっただけ。みんないろいろ事情はあるものね。私の養っている弟たちも、血は繋がってないしさ」


「女兄弟はいないの?」


「いないよー。ついでに母親もいないから男ばっかなの」


「どうやってメイクとか覚えたの?」


 アゲハはヒイラギが割とませた中学生だったため、大人物のSNSを一緒に見たり、雑誌を読んだりしていた。だから、母親の抑圧の中でも、人並みに興味はあった。しかし、こんな美少女が男だらけの家庭で育まれたというのは意外だった。


「練習よ、練習。アゲハもちょろーっとやれば、すぐ出来るようになるわよ」


 そう言うと、「ほら、見て」と鏡を渡した。


「すごーい! ぜんっぜん違う!」


 当然、スッピンだったが、髪型だけでこうも違うのか、とアゲハは思った。自分じゃないみたいで、にんまりする。

 眉ラインで切りそろえられた前髪は顔の輪郭にピッタシと合っていた。今アンティーターでもブームが来ている外はねも、とてもかわいかった。右サイドの髪の毛は耳にかけて横顔を出すのがポイントなのだそうだ。


「でしょ? これあげるから、自分で練習してみて」


 「ありがと」とアゲハは受け取った。今日から毎日練習しようと誓った。


「あのね、女の綺麗さって武器なの。男に媚びるためだけじゃないよ。自分に自信が出てくる、不思議な魔法の武器」


「……魔法の、武器」


 アゲハは科髪を覗きながら、すっかり変わった自分の顔を見る。そして、もう一度ホタルの言葉を繰り返した。


「よし、今日のレッスンはここまで」


 ホタルはパンと手を叩くと、そう言った。いつの間にか雪が降っていた。


「ええ! 短い!」


 アゲハが失意の念に駆られて思わず叫んだ。ホタルといると時間があっという間に過ぎ去ってしまう。そういえばあたりも暗くなり、吐息は白くなっている。雪も降っていた。


「だって、お迎え来てる」


 ホタルはアゲハの背後を指差すとそう言った。

 振り返ると、少し離れたところに、ジガバチがいた。


「やばっ……」


 アゲハは慌てて駆け寄ると、「おせーよ」とジガバチは不服そうに唸った。


「また、明日! 今度はメイクねー!」


 ホタルはそう言って手を振った。アゲハも手を振り返したのだった。また明日、という響きにアゲハは顔がほころんだ。

 ジガバチが傘を「ん!」押し付けて来たのを、アゲハはありがたく頂戴する。


「ありがとうございます」


「拾ってきたからやるよ。……って、お前なんだそれ!」


 アゲハの髪型を見たジガバチは、素っ頓狂な声を上げた。


「ば、馬鹿なことしてんじゃねーよ」


 そういうや否や、べしっと頭を叩かれ、アゲハは思わず「ちょっと!!」と手を払いのけて、怒鳴った。


「何するんですか! 最低!」


 手鏡で前髪を見ながら、手早く整える。一心不乱に前髪を直すアゲハに向かって、ジガバチは呆れたような、腑に落ちてないような、そんな不思議なため息をつく。


(別にジガバチに気に入られるためにやってるんじゃないのにぃー!)


 アゲハはホタルの言葉を思い出して、頬を膨らませた。そして、「あ、そういえば」とナナホシの伝言を思い出す。


「ナナホシが3Dの図面も用意してるって言ってましたよ」


「じゃあ帰りオッサンのとこ寄ってくか」


「はい! 私も用があるので、着いて行ってもいいですか?」


「おう」


 アゲハたちは、少しずつ少しずつ雪が積もり始めた街路を急いだ。











「何よ、また来たの」


 アゲハがナナホシのラボに行くと、ナナホシのぶっきらぼうな声が中から聞こえて来た。


「ナナホシのメイク道具貸して」


「はぁ? 一体どういう風に吹きまわしよ?」


 ナナホシが大きな機械塗れの部屋の奥から顔を出すと、嫌そうな顔をした。


「え、何、今更、女子力に目覚めたわけ?」


「えへへ、かわいいでしょ」


 アゲハはニヤニヤと笑って決めポーズをとる。


「……あ、アンタまさかハイ――」


「ちーがうってば。A1地区で出会った子にメイク教えてもらうの」


 ナナホシが何やら面倒くさい勘違いを起こしたようで、どしどしと足音を立てて近づいてくる。今すぐにでも掴み掛らんとばかりの形相である。

 アゲハは慌ててそれを遮って、ホタルの話をした。


「ふーん。ま、確かに、アゲハってば第一印象は蠟人形みたいだったもんね。ハンデだと思って、使わないやつあげるわ」


 そう言うと、ナナホシが化粧ポーチごと投げてよこす。それをキャッチすると、「ありがとう!」とお礼を言った。


「馬鹿か。ブスはいくら化粧してもブスだ!」


 扉の手前で腕を組んで待っていたジガバチが、吐き捨てるように言った。

 アゲハは、その時オシャレをしてスイバに会いに行ったのが母にバレた時のことをふと思い出した。その時に「いくらそんなことしたって、あなたのその顔は変わんないのよ」と冷ややかに言われた。その時、細かい氷柱つららで全身を刺すようなを感じたのを覚えている。


「分かってます。母にも以前、同じようなことを言われたことがあります」


 いつもジガバチには、そのようなことは言われ慣れていた。だが、アゲハは唐突に嫌な思い出を思い出してしまったのだ。

 だが、ホタルからの魔法の言葉のおかげで、アゲハはそんな罵り言葉は痛くも痒くもなかった。


「あーあ……。私知ーらない、っと」


 アゲハの心境に反して、不穏な空気を察したのか、ナナホシはさーっと奥に帰って行く。


「ま、別にいいんですけどね」


 アゲハは素っ気無くそう言うと、何食わぬ顔でスタスタと歩き出した。同情でもしたのだろうか、ジガバチはバツが悪そうな顔で黙っていた。

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