3-6

 ナナホシは、もう自分を止めることができなかった。なぜ自分がこんな衝動に駆られているのか、全く分からない。

 望みを聞かれても尚、自分が何を望んでいるのか、彼に何を言ってほしいのかを説明できなかった。

 ハイエナもそうなのだろうか? いや、この人はわかっている、自分に向けられている好意を、ナナホシの気持ちを。そういう男なのだ、とナナホシは知っている。

 そして、ハイエナを引き留めるように追い縋る。


「私を抱いてください! それが望み」


 気付いたらそう口走っていたのだ。


「悪いが、これが俺の答えだ」


 そう言うと、ハイエナは静かにナナホシの腕を引き離した。

 現実は残酷だった。いつだってそうだ。

 とうとう最後まで、一瞬たりともこちらを見ることはなく、ハイエナは部屋を出て行った。

 ナナホシはへなへなと床に座り込み、両手で顔を覆った。そして、自分の厚かましさと浅ましさを呪った。


「……ナナホシ」


 ハイエナが出ていくのと入れ替わって、誰かが入ってくる。その声の主に不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。


「兄さん……! 私、馬鹿なことをしちゃった。どうしよう……」


 そう言うと、泣き始めた。ホウジャクはナナホシをぎゅっと抱き寄せると、唇にキスを落とす。


「大丈夫、僕がいる。……大丈夫だから」


 ホウジャクは優しくそう言うと、ナナホシを抱きかかえてベッドに寝かせる。


「何があっても、絶対にそばにいる」


 こうして、今夜もナナホシとホウジャクは交わった。ホウジャクはナナホシの理想のために、ナナホシは叶わぬ理想のために、お互いにないものを補い合い、慰め合うのだ。

 兄妹けいまいの域を超えてしまった二人に気付いた母親が死んだとき、ざまあみろと思った。

 そして、お互いに理想の世界を求めて、この世界にやってきた。

 母親も父親も、兄以外のすべてのものを捨てて来た。そして、そこには、兄と結ばれる世界線があったはずだった。ナナホシの欲しいもの、願い、それは叶ったはずだった。それなのに、さらに求めてしまったのだ。


「ナナホシ、愛してる」


「……うん」


 兄を抱きしめながら、ナナホシは泣いた。私も、とは言わなかった。



 大雨の中、アゲハはそろそろ体が冷えて来た。ジガバチはまだ走り続けている。底なしの体力も、危険形質の持つ特徴なのだろうか? と思う程だ。

 だが、変だ。アゲハは頭の中で、廃都市の地図を描いてみる。ハイエナの塒はB2地区付近であるが、そこよりもさらに回っている気がする。恐らくA3、B3、C3と進んでいる気がしたのだ。


「どこへ向かっているんですか? 自分で歩きます」


 アゲハは雨音に搔き消されないように、声を張り上げた。


「なァ、アゲハ。……俺たちこのまま――」


 ジガバチはアゲハの質問には答えず、何かを言いかけた。しかし、そこでちょうど近くに雷が落ち、その音で声は届かない。アゲハは「何て言ったんですか?」と再び尋ねた。


「……いや、このままパンゴリンに行こう。俺の生まれた廃都市だ」


 ジガバチはそう言い直す。

 予想はしていたが、やはりアンティーターのような理想都市というのはいくつも存在するようだ。同時に、完璧なはずの理想都市の陥落もよくあることだ、ということを意味している。


「わかりました」


 アゲハはうなずくと、ジガバチに地に降ろされる。知らぬ間に壁際まで来ていた。壁の裂け目から抜け出ると、雨の匂いに混じって土の香りが鼻を突いた。

 ここからは戦闘になる可能性が極めて高い。アゲハは自分の持ち物を歩きながら確認した。

 ヤママユ戦で、吹き矢の威力が足りず、針が深部に届かなかった。そのためすぐに脱落し、薬の効き目が効きにくかった。その反省を生かし、アゲハは使用する針すべてに“返し”を施した。

 さらに、長さ十五センチ程度と十センチ程度の針を持てるだけ持ってきた。筋肉注射できるケタミンが欲しいところだったが、手元にない。ジガバチが生成できるアコニチンを使用することにした。

 数日後にショウジョウ討伐の件も控えている。このタイミングでパンゴリンに行けるのは、名案だとアゲハは考えた。

 ジガバチに遅れないようにアゲハは必死に足を動かした。雨はやがて止み、茜色の夕暮れになる。

 唇が痛い。全身は、濡れたせいでひどく寒かった。


「てかお前さ、泣きたいときは泣けよ」


 長い沈黙を破ったのはジガバチだった。そういうと、少し後ろを歩いていたアゲハを振り返って、唇を指差した。


「ここ、ズッタズタだぜェ? そんな唇してちゃ、立派に化粧したって意味ねーぞ」


 アゲハは目のやり場に困り、一瞬目を合わせたがすぐに逸らす。いつもはアップバングの髪型が雨で濡れて、前髪が下りていた。それも相まってまるで別人のように見えた。それが理由かもしれない。

 瞳から大粒の涙が流れ落ちる。気づいたらアゲハは大声を泣いていた。


『泣かないで! そうやってお母さんを困らせないで!!』


 いつしか言われた母ユズリハの言葉が聞こえてきそうだった。その頃から人前で泣くことは悪だと思っていた。次第にスイバや妹ヒイラギの前でも泣けなくなっていった。

 クシャン、とくしゃみをしたときに、「着ろよ」とジガバチが自分の上着を差し出した。だが、アゲハはそれを突っぱねた。


「要らない!」


 そう勝手に口が動いて、自分でもびっくりしてしまっていた。


「私にもう優しくしないで!! 勘違いしそうになる……。自分は独りぼっちなのに、甘えそうになっちゃう」


(どうしよう、嫌だ。ごめんなさい、ごめんなさい……。こんなこと、本当は言いたくないのに。こんなのただの八つ当たりだって分かってるのに)


 だがアゲハの心に反して、口は止まらなかった。


「……大体みんな、みんな、勝手すぎる。いつも厳しくて冷たいくせに早帰りして手作りケーキ作って、お父さんに会いたいか? とか意味わかんないし!」


 当然ジガバチに話してもわからない話だ。十七歳の誕生日の夜、保衛官に殺されかけた最悪な夜の話だからだ。ジガバチはアゲハの方を見据えたまま、黙って聞いていた。


「ヒイラギは勝手に宿題押し付けて死んじゃうし! ナナホシは絶対気が合わないし。それどころか何もしてないのに嫌われてる! アンティーターはひたすら気持ち悪い。三大システムも、恩恵に乗っかってる市民も、みんな気持ち悪い。ハイエナさんは何考えてるのかわかんないし、私はいっつもいっつも、いいように利用されてるdあけ! それで、それで……、せっかくできた友達は……――うわあああん」


 アゲハはそこまで言ったところで顔を覆って再び泣き出した。こんなに叫んだり、喚いたりしたことは初めてだ。アゲハは鼻を啜りながら、そう思った。こんなにみっともなく、駄々をこねたり、八つ当たりをしたのも初めてだった。

 さっきまで黙りこくっていたジガバチが、「ぷはっ」と吹き出した。そして、ククっと腹を抱えて笑い出す。


「何がおかしいんですか」


 アゲハは鼻声でそういうと、キッと睨む。


「いや、お前でもさ、そういうとこあんだなーって」


 そういうと、再びジガバチは笑った。アゲハはその様子に頬を膨らました。


「けどよ、オレ様の親切心は受け取っとけや。こんなことは滅多にやらねーんだぜェ」


 ジガバチはそう言いながら、上着を乱雑に頭から押し付けた。

 アゲハは今度は大人しくお礼を言った。

 泣きすぎて。喉が痛いし、頭もガンガンする。鼻水も止まらない。人は泣き喚くとこうなるのか、と妙に冷静に解釈した。

 だが不思議なことに、心はそれに反して清々しい気分だった。

 夜空を遮る雨雲はもうなかった。大きな月が浮かび、星がキラキラと煌めいていた。

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