3-6
ナナホシは、もう自分を止めることができなかった。なぜ自分がこんな衝動に駆られているのか、全く分からない。
望みを聞かれても尚、自分が何を望んでいるのか、彼に何を言ってほしいのかを説明できなかった。
ハイエナもそうなのだろうか? いや、この人はわかっている、自分に向けられている好意を、ナナホシの気持ちを。そういう男なのだ、とナナホシは知っている。
そして、ハイエナを引き留めるように追い縋る。
「私を抱いてください! それが望み」
気付いたらそう口走っていたのだ。
「悪いが、これが俺の答えだ」
そう言うと、ハイエナは静かにナナホシの腕を引き離した。
現実は残酷だった。いつだってそうだ。
とうとう最後まで、一瞬たりともこちらを見ることはなく、ハイエナは部屋を出て行った。
ナナホシはへなへなと床に座り込み、両手で顔を覆った。そして、自分の厚かましさと浅ましさを呪った。
「……ナナホシ」
ハイエナが出ていくのと入れ替わって、誰かが入ってくる。その声の主に不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。
「兄さん……! 私、馬鹿なことをしちゃった。どうしよう……」
そう言うと、泣き始めた。ホウジャクはナナホシをぎゅっと抱き寄せると、唇にキスを落とす。
「大丈夫、僕がいる。……大丈夫だから」
ホウジャクは優しくそう言うと、ナナホシを抱きかかえてベッドに寝かせる。
「何があっても、絶対にそばにいる」
こうして、今夜もナナホシとホウジャクは交わった。ホウジャクはナナホシの理想のために、ナナホシは叶わぬ理想のために、お互いにないものを補い合い、慰め合うのだ。
そして、お互いに理想の世界を求めて、この世界にやってきた。
母親も父親も、兄以外のすべてのものを捨てて来た。そして、そこには、兄と結ばれる世界線があったはずだった。ナナホシの欲しいもの、願い、それは叶ったはずだった。それなのに、さらに求めてしまったのだ。
「ナナホシ、愛してる」
「……うん」
兄を抱きしめながら、ナナホシは泣いた。私も、とは言わなかった。
☆
大雨の中、アゲハはそろそろ体が冷えて来た。ジガバチはまだ走り続けている。底なしの体力も、危険形質の持つ特徴なのだろうか? と思う程だ。
だが、変だ。アゲハは頭の中で、廃都市の地図を描いてみる。ハイエナの塒はB2地区付近であるが、そこよりもさらに回っている気がする。恐らくA3、B3、C3と進んでいる気がしたのだ。
「どこへ向かっているんですか? 自分で歩きます」
アゲハは雨音に搔き消されないように、声を張り上げた。
「なァ、アゲハ。……俺たちこのまま――」
ジガバチはアゲハの質問には答えず、何かを言いかけた。しかし、そこでちょうど近くに雷が落ち、その音で声は届かない。アゲハは「何て言ったんですか?」と再び尋ねた。
「……いや、このままパンゴリンに行こう。俺の生まれた廃都市だ」
ジガバチはそう言い直す。
予想はしていたが、やはりアンティーターのような理想都市というのはいくつも存在するようだ。同時に、完璧なはずの理想都市の陥落もよくあることだ、ということを意味している。
「わかりました」
アゲハはうなずくと、ジガバチに地に降ろされる。知らぬ間に壁際まで来ていた。壁の裂け目から抜け出ると、雨の匂いに混じって土の香りが鼻を突いた。
ここからは戦闘になる可能性が極めて高い。アゲハは自分の持ち物を歩きながら確認した。
ヤママユ戦で、吹き矢の威力が足りず、針が深部に届かなかった。そのためすぐに脱落し、薬の効き目が効きにくかった。その反省を生かし、アゲハは使用する針すべてに“返し”を施した。
さらに、長さ十五センチ程度と十センチ程度の針を持てるだけ持ってきた。筋肉注射できるケタミンが欲しいところだったが、手元にない。ジガバチが生成できるアコニチンを使用することにした。
数日後にショウジョウ討伐の件も控えている。このタイミングでパンゴリンに行けるのは、名案だとアゲハは考えた。
ジガバチに遅れないようにアゲハは必死に足を動かした。雨はやがて止み、茜色の夕暮れになる。
唇が痛い。全身は、濡れたせいでひどく寒かった。
「てかお前さ、泣きたいときは泣けよ」
長い沈黙を破ったのはジガバチだった。そういうと、少し後ろを歩いていたアゲハを振り返って、唇を指差した。
「ここ、ズッタズタだぜェ? そんな唇してちゃ、立派に化粧したって意味ねーぞ」
アゲハは目のやり場に困り、一瞬目を合わせたがすぐに逸らす。いつもはアップバングの髪型が雨で濡れて、前髪が下りていた。それも相まってまるで別人のように見えた。それが理由かもしれない。
瞳から大粒の涙が流れ落ちる。気づいたらアゲハは大声を泣いていた。
『泣かないで! そうやってお母さんを困らせないで!!』
いつしか言われた母ユズリハの言葉が聞こえてきそうだった。その頃から人前で泣くことは悪だと思っていた。次第にスイバや妹ヒイラギの前でも泣けなくなっていった。
クシャン、とくしゃみをしたときに、「着ろよ」とジガバチが自分の上着を差し出した。だが、アゲハはそれを突っぱねた。
「要らない!」
そう勝手に口が動いて、自分でもびっくりしてしまっていた。
「私にもう優しくしないで!! 勘違いしそうになる……。自分は独りぼっちなのに、甘えそうになっちゃう」
(どうしよう、嫌だ。ごめんなさい、ごめんなさい……。こんなこと、本当は言いたくないのに。こんなのただの八つ当たりだって分かってるのに)
だがアゲハの心に反して、口は止まらなかった。
「……大体みんな、みんな、勝手すぎる。いつも厳しくて冷たいくせに早帰りして手作りケーキ作って、お父さんに会いたいか? とか意味わかんないし!」
当然ジガバチに話してもわからない話だ。十七歳の誕生日の夜、保衛官に殺されかけた最悪な夜の話だからだ。ジガバチはアゲハの方を見据えたまま、黙って聞いていた。
「ヒイラギは勝手に宿題押し付けて死んじゃうし! ナナホシは絶対気が合わないし。それどころか何もしてないのに嫌われてる! アンティーターはひたすら気持ち悪い。三大システムも、恩恵に乗っかってる市民も、みんな気持ち悪い。ハイエナさんは何考えてるのかわかんないし、私はいっつもいっつも、いいように利用されてるdあけ! それで、それで……、せっかくできた友達は……――うわあああん」
アゲハはそこまで言ったところで顔を覆って再び泣き出した。こんなに叫んだり、喚いたりしたことは初めてだ。アゲハは鼻を啜りながら、そう思った。こんなにみっともなく、駄々をこねたり、八つ当たりをしたのも初めてだった。
さっきまで黙りこくっていたジガバチが、「ぷはっ」と吹き出した。そして、ククっと腹を抱えて笑い出す。
「何がおかしいんですか」
アゲハは鼻声でそういうと、キッと睨む。
「いや、お前でもさ、そういうとこあんだなーって」
そういうと、再びジガバチは笑った。アゲハはその様子に頬を膨らました。
「けどよ、オレ様の親切心は受け取っとけや。こんなことは滅多にやらねーんだぜェ」
ジガバチはそう言いながら、上着を乱雑に頭から押し付けた。
アゲハは今度は大人しくお礼を言った。
泣きすぎて。喉が痛いし、頭もガンガンする。鼻水も止まらない。人は泣き喚くとこうなるのか、と妙に冷静に解釈した。
だが不思議なことに、心はそれに反して清々しい気分だった。
夜空を遮る雨雲はもうなかった。大きな月が浮かび、星がキラキラと煌めいていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます