7‐4
微睡(まどろ)みの中、ジガバチは新たな刺客が現れたことを悟った。以前として顔をもたげることすらできない。ただ、地に横たわり、コツコツとリノリウムの床を叩く音を黙って聞くしかなかった。何かをぞろ引くような音も、後を追うように重ねて聞こえて来た。
しこたま蹴られたところも痛かったが、ハイエナよりも何倍も楽に感じた。ほんのかすり傷程度である。何百回でも耐えれるだろう。
しかし、筋肉が引き攣る症状には参った。力を入れようにも、腕がゴムになったように動かないのだ。時折、ピクつき、がくがくと痙攣する。一方で心拍数の上昇、排尿や排便の障害は見られない。つまり、骨格筋に作用する薬を盛られたと分かる。
「面白そうなことしてるわね、モクレン」
良家の育ちなのだろうか、品のある声音がよく響き渡る。そこで彼は、ようやく気付いた。この女と最初に手を掛けようとしたレズビアンの女が、研究所のツートップだったのだ。早とちりをした自分の浅はかさを、心底恨んだ。
「アッハハ! コイツ、薬剤耐性強くって、大変だったんですからぁ!」
「アンドロイドかなにか、じゃあないの? うちの製品では、なさそうだけれど」
すぐ頭上で、女の澄み切った声が聞こえてきた。恐らく顔を覗いているのだ。
それと同時に、コツコツと忌まわしい足音が近づいてくる。モクレンだ。鼻先のヒールブーツのつま先に見つめると、再び目を閉じた。僅かに血痕が付いていた。自分の血痕だろう。鼻血はまだ止まっていなかった。
「試してみますぅ?」
いやな予感がし、体を竦めた。いや、竦めようとした。実際は、動かなかった。されるがまま、上着を上に引っ張られる。すると、首筋から背中にかけて何かを流し込んだような感覚がした。何をされた? そう思った瞬間、猛烈な灼けるような痛みが走った。事実、灼けていたのかもしれない。
「ッガア!!」
サディストの前で、叫ぶのはタブーだ。嗜虐心を煽るだけだからだ。ジガバチは、自分は痛みに対して我慢強い方だと思っていた。だが、今度は痛みに声を押し殺すことができなかった。
じわり、じわりと痛みが拡散していく。一瞬だけならまだしも、今は空気に触れるだけでも痛い。皮膚の灼ける臭いと、腐卵臭が鼻腔を突く。衣服が溶け、皮膚に癒着する感覚もある。
あまりの痛さに、目じりに涙が浮かぶ。力のうまく入らない拳で、空(くう)をギュッと掴む。
「へぇ」
フーッ、フーッと息を吐くジガバチの様子を俯瞰している誰かが、興味深そうに感嘆する。誰が言ったのかは分からない。痛すぎて、何も考えられなかったのだ。
「でも、妙よ。なにか緊急連絡はあった?」
「そうねぇ。野ネズミが、二匹も紛れ込んでいたのに、ねぇ……。けれど――」
野ネズミ二匹、その言葉にドキリとした。そう言えば、ナナホシの声が聞こえない。後ろで手を組まされているので、他の人の位置情報も把握できない。アゲハは、どこにいる? そう思った時、一抹の不安だったものがどっとコールタール色の波のように押し寄せて来た。
痛みと不安で、手のひらが汗でぐっしょりと濡れる。
「それって、私たちが何をしてもいいってことよねぇ」
ライラックの笑いを含んだ声と重なるように、「うあぁっ!」と甲高い叫び声が聞こえた。叫び声と言うよりは、泣き声に近かった。
その声に、ジガバチは「やめろ!」と叫ぼうとした。だがしかし、声が出なかった。代わりに、何とも情けない大きな息が漏れるだけだった。
痛みに啼(な)いた声の主は、アゲハだった。
「ライラックさん、サイッコーですね、それぇっ! 報告書誤魔化すの、チョー大変だったんですよね。たかだか壁の外の動物に、そんないちいち――」
「モクレン、止めなさい。不愉快」
アハハ! と笑うモクレンをユウガオがピシャリと一括すると、妙な空気になった。
「ごっ、ごめんなさい。私、その、姉さんのことを言ったわけじゃ――」
先ほどの威勢はどこに消えたのか、と言うほどに彼女はしおらしくなる。
「もう、結構。ところで、その女は?」
それをさらに遮ると、ユウガオは言った。アゲハだ、やはり間違いない。姿は見ることはできないが、同じ空間に囚われている彼女が目に浮かぶ。
「部屋の前にいたから、そいつの仲間なんじゃないのかしら」
「スーパーラット、ってなわけね。しかも野良二匹。使えるかもしれないわ」
「塩酸エトルフィンとか使ってみますぅ?」
「ええ? いきなり?」
ライラックの素っ頓狂な声がした。塩酸エンドルフィン、知らないのである。知らない薬剤ほど怖いものはない。薬剤の知識に明るい方ではあったが、何枚も何枚も彼女たちの方が上だった。それを嫌と言うほど思い知らされる。
ブワっと、脂汗が噴き出るのを感じた。
ドバドバと、血の巡りを感じる。体を揺すった拍子に、うぅ……と声が洩れる。薬の効果が弱まって来たようだった。
「オスの方はぁー、大丈夫でしたよ」
不愉快に語尾を伸ばす、モクレンの声が頭上から降って来る。自分にもすでに投与されていた、となると麻酔薬か何かだ。
これは恐ろしいことだった。止めなくては、アゲハは死ぬ。モクレンは、彼女にも馬鹿みたいに薬を盛るに違いなかった。ジガバチは回らない頭で、必死に声を絞り出した。
「……待て。そっ……そいつは、そんな能力持って、ねェ。あとはお前らの、言う通り――」
「ああ、そういうことなのね。じゃあ、クサリヘビの筋肉毒を応用した筋弛緩薬が効いたってわけねぇ。面白いわ、幸先がいい……。神経毒による麻痺は死亡するリスクが高いの。だから、骨格筋に直接作用するヘビ毒を応用して麻痺させる薬を開発していたのよ。まさか、こんなところでその試薬が役に立つとは思わなかったけれど」
あっけらかんとした声音で、ライラックは彼の言葉を遮る。そこで、モクレンがまるでスキップするように軽やかに離れていった。
アゲハの元に行ったのだ、と思った時には遅かった。「……うぅっ」と痛みに耐え忍ぶ、彼女の声がした。
「アゲハ!」
必死に首を動かし、背後を見ようとした。だが、誰かに足で頭を押さえつけられる。
「じゃーあぁ、コイツは処分、でオーケーですぅ?」
「ええ。エサ代も、馬鹿にならないし」
「こっ、殺すッ! 殺してやるッ!!」
再び、ヒールブーツが床を叩く音がし、モクレンの声がすぐ近くに戻って来た。
肩で息をして怒鳴るジガバチを、アハハ! 馬鹿にして笑う声が頭上で木霊す。芋虫のように、無様な姿で精一杯暴れた。数ミリでも動くたびに背中に、激痛が走ったが、構ってはいられなかった。
その時、ちらっと視界の端にアゲハの姿をとらえた。肩の鎖骨の真上当たり、そして、腿の裏あたりが真っ赤に染まっている。白い床にも、擦ったような血痕があった。
彼女を背にして、三人は今ジガバチを囲む状態で佇んでいる。顔は見えないが、恐らく真ん中にモクレン。両脇にライラックとユウガオがいる配置だ。
そして、彼女たちは気付いていない。アゲハは、ピッキングを試みているようだった。
アゲハは、半身をこちらに向けたまま後ろで手を微かに動かしていた。一瞬の出来事である上、手は彼女の体の陰になって何をしているのかまでは分からない。
ジガバチは彼女ならそうする、と憶測を立てただけだ。
「ん?」
誰かの声にドキリとする。思索がばれたと思ったのだ。だが、その心配はなかった。
彼の髪を引っ掴み、誰かが顔を覗き込んだからだ。
「……お前、本当に塀の外から来たの? 薄汚くて学もなさそうだから、そう思ったのだけれど」
この口調は、ライラックだった。目の前の、魔女を連想させるような四十前後の女だ。赤く艶やかな髪に負けず劣らずの頬紅と口紅が、妖艶さに磨きをかけている。
この澄ました気高そうな女に、唾を吐きかけたらどういう反応をするだろうか、とふと思う。だが、止めた。
アゲハが行動を起こすまで、自分が三人の注意を引き付けなくてはいけない。絶対に彼女の行いを気取られてはいけない。
「それは、私も同じことを思ったわ。けれど、他人の空似でしょう」
「ってかぁ、よく見たら、姉さんにも似てる」
甘ったるい声の主の顔も、拝んでみよう。そう思って視線をずらした時、ジガバチは目を疑った。
大きめのラウンド眼鏡を掛けているその女は、母親であるオオゼリに瓜二つな面影を宿していたのだ。淡い青みがかった瞳、目尻の下がり具合、鼻筋、眉の形、長くて薄い唇さえも、だ。あまりにも似すぎていることに違和感すらあった。恐らくだが、髪型や化粧の仕方、眉の整え方、ちょっとした仕草までも、“似せて”いるのだ。
そこで、ユウガオとモクレンの関係を思い出す。“姉さん”と言う言葉、二人の妙な空気感、ユウガオの苛立った態度。
そして、彼女の言葉に露骨に不快感を顕わにしたライラックに、脳が沸き立つのを感じる。
今度こそ、彼の“洞察力”を活かす時がやって来たのだ。
「……なーんちゃって、うふふ。冗談ですよ、ライラックさん」
モクレンが硬直するライラックに笑いかけたとき、ジガバチはニヤリと口角を吊り上げた。
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