1-3

『何で、あーちゃんばっかり勉強しないといけないの!』


 これは夢? 小さいころの、記憶? そういえば、自分の事あーちゃんって呼んでたっけ?


『あーちゃんはお姉ちゃんでしょ!?』


 そうそう、いつもお母さんはそう言うんだよね。そうやって言うと、私が何も言えないことを知ってるから。それに殺気出し過ぎ。ぎすぎすって肌に当たる“悪意”が、痛いよ。


『早く、やりなさい。今日は一五二ページの“モジュール”のところまでやる約束だったでしょ。終わったら小テスト。合格しなかったら、分かってるわよね?』


 あぁ、これはよく覚えてる。プログラミング言語の勉強をしている時だ。私はプログラミングすっごく大嫌いだった。その度に、お母さんと言い合いしてたよね。


「やだ! こんなの学校のお友達、やってないもん」


「あっそう。じゃあ、今日も夕ご飯抜きね」


 確か、この日はリビングから大好物のカレーライスの匂いがした。今日こそは夕飯食べるぞ! っていう気持ちで泣きながら頑張ったような……。



 カレーライスの匂いに交じって、妙な匂いがして来た。

 段々と近づいてくるその匂いにアゲハは、ハッと目を覚ました。涎を拭ったアゲハは寝ぼけなまこで、目の前に差し出された青白くて細い丸太を見つめる。

 ジガバチがニタニタとしながら、「腹減ってんだろ?」とそれを鼻の前に持ってくる。嗅いだことのないような臭いがムッと鼻腔を通り抜ける。思わず顔をそむけた。


「ほら、食えよ」


 しかし、なおもジガバチはそれを押し付けてくる。何だろう、とよくよく見つめると、産毛が生えているのが見える。目線を端にずらすと、五本の細い突起があった。

 アゲハはその瞬間、「きゃっ」と叫んでそれを叩き落とした。ヒンヤリとした柔らかくて滑らかな手触りを、嫌になるほど感じる。

 人の腕だった。そう分かった瞬間、アゲハは嘔吐した。彼から微かに“悪意”を感じた。なんだ、やっぱりそういう感情はあるんだ、とアゲハは妙に冷静に思った。


「向こうの川で洗ってきます……」


 彼女は肩を落として川へ向かった。

 ここは、ジガバチと出会った村から半日ほど歩いた沢辺で、ハイエナはここの水なら飲めると言った。底なしの体力を持つ二人とは違って、アゲハはどっと疲れていたため、少しうたた寝していたのである。

 川に行くと、どうやって獲ったのかは分からなかったが、ハイエナが何匹か魚を陸に投げた。


「フナですか? おいしそうですね」


 ハイエナは一瞬考えるそぶりをして、「そうだろ」と答えた。

 アゲハは、ビタビタと大きな体を仰け反りながらのたうち回る、黒く光る魚を見つめた。内心は、頭のおかしな男が獲ってきた人肉よりいくらかマシ、と言うだけの話だ。フナは土臭いと聞くからである。だか、駄々をこねたり、嫌がったり、逆らう気は全くなかった。

 先ほどの彼の所業が悪魔的過ぎたため、この人の前ではもう二度と妙な気を起こすのもやめようと思った。

 

――お店の肉しか食べたことないや。私、ちゃんと、食べられるかな……。


 吐かずに食べれればいいな、とアゲハは思った。あの男のように半殺しにされるのだけは、嫌だった。


「ジガバチは何を獲ってきたんだ?」


 アゲハはあの腕のことを思い出し、げんなりした。あれはたしかに、女の腕だった。

 アゲハたちが戻ってくると、火の前に座って、ジガバチは人の肉を燃やしていた。それを見て、アゲハは再び溜飲が込み上げてくるのを感じた。


「お前、また人を殺してきたな。肉はどうしたんだ」


「あァ? これを食うんだよ」


 ジガバチはそういうと、焼いていた肉をパクリと食べた。ハイエナは顔を少し歪ます程度だったが、もうアゲハは耐えられなかった。再びゲホゲホと戻した。昨日は何も食べていないせいで、胃液しか出てこなかった。喉が灼けるように痛い。


「動物の肉は食べないんですか?」


 吐き気が落ち着くと、アゲハは横に座って訪ねた。昨晩、老婆は狩猟で獲った獲物狙いの賊だと言っていたからだ。


「たまに食うが、人間の方が殺しやすくて楽だ。弱いし、一度に死ぬほど食えるだろ」


 下卑た笑い声を出しながら、アゲハを見下ろした。再び嗚咽が戻って来た。何とか溜飲を下す。

 その時、ジガバチはガクッと後ろに引っ張られると、仰向けに引きずり倒された。いつ近づいてきたのか、全く分からなかったが、無表情のハイエナが立っていた。

 ジガバチは殴られることを予期していたのか、一瞬だけ体をひきつらせた。昨晩痛めつけられた顔の腫れは引いていない。

 だが、ハイエナは氷のように冷え切った表情で見下ろすと、つま先で顔を蹴りつけた。人間離れした冷酷非道な振る舞いに、アゲハは息をのむ。

 ジガバチは鼻血を拭うと、何も言わずに立ち上がった。

 

「勝手な行動はするな」


 いつ何時も見ている、そんな意味合いで言ったのかもしれない。彼の暴力に対して次第に従順になっていくジガバチを、アゲハはふと不憫に感じたのだった。とはいっても、庇うつもりは微塵もなかった。だが、些かこの時生け捕りという行為の残虐性を思い知った。











 ハイエナに導かれるまま、アゲハたちは再び歩いた。

 廃都市を目指すのだ。廃墟と化したかつての都市国家のことを言うらしい。


「暴力による支配は、彼にはあんまり効果が無いかと思われます。彼は多分、BPSだと思います」


 その道中、昨晩見たおびただしい数の自傷行為の痕を思い出しながら、アゲハは言った。BPSは被虐待症候群と言って、日常的、継続的に暴行を受けることで無抵抗になったり、それを甘んじて受けるようになる精神疾患の事である。


「なぜ、暴力による抑圧を受けた側はなかなか抜け出すことができないか、分かるか?」


 アゲハは首を傾げた。


「洗脳……ですか」


「そうだ。方法はいろいろあるが、飴と鞭を使い分けるのが手っ取り早い」


「そんな! それではアンティーターのブレインと同じです」


 ハイエナはその言葉に、ギロリと一瞥を食わせた。赤い瞳が燃えているようだった。


「いいか、手段は選んでいられない。そんなことを言っていたら、いつか足元をすくわれる。俺は使えるものは何でも使う。だが、要らないと思ったらすぐに捨てる。いいな」


 またこの感覚が来た、と思った瞬間、刺すような痛みが全身を巡り、濃密な押し寄せる“悪意”に全身から冷たい汗が噴き出る。この人の隣居たら、いつか殺気だけで殺されるのではないかと思う程であった。


「まぁ、あの男に関しては、お前は飴だ。いつも通り、生ぬるく接していればいい。邪魔になったら殺せばいいしな」


 これ以上食い下がることは悪手だと思った。アゲハは言いたいことは飲み込んで「わかりました」ととだけ呟いた。


――今に見てろ、絶対に……!


 自分の切り札は手に入った。一か月で、仕掛けてやる。助けてもらった手前、申し訳ないが、母の命には代えられない。ヒイラギを殺した疑いもある。自分の身も危ない。

 それにこの男と話していると、つくづく自分も奴隷なのだと痛感した。そして、元々持っていた妹に対する劣等感を募らせた。居心地が悪くて仕方がなかった。

 せいぜいその時までにできることは、トカゲの尻尾切りのようにならないよう、アゲハは常に気を払うことくらいだ。

 そして、ハイエナを手に掛けたと後はジガバチのことも考えなくてはいけない。

 この世界には自分の味方はいないのだと改めて気付かされた。

 アゲハは肩を落として、地面を見つめながらトボトボ歩いた。失意に暮れながらしばらく歩いていると、ふと思い出した。


「あ、そうだ。ジガバチ、聞きたいことがあります」


 ちょうど隣にいたジガバチに、アゲハは声を掛けた。


「“さん”だろが、ボケカス」


 敬称を付けなかったことによほど腹が立ったのか、ジガバチはドカッとアゲハのお尻に膝蹴りした。

 重たい衝撃に、アゲハはよろめいた。

 だが、アゲハは何事も無かったように続けた。

 絶対につけるものか、この男より私は上だ、と小さなプライドが芽生えた。もしかしたら向こうも同じ気持ちだったのかもしれない。


「私はアンティーターでは、壁の向こうは度重なる戦争の影響でとても住めたものじゃないと聞いていました。そのため、人々が安心して人間生活を送るために理想都市ができた、とも……」


 しかし、アンティーターから遠ざかるにつれて、空気も澄んで、水も清澄になっているような気がする。さらには、写真や絵でしか見たことが無いような生き物たちがたくさんいるではないか。

 ジガバチは一瞬驚嘆の表情を浮かべるやいなや、腹を抱えて笑い出した。

 その反応を見て、洗脳教育の四文字が頭に浮かぶ。

 理想都市の必要性に説得力を生み出すために、そのようなことを行っていたのだろう。通りで死んでもアンティーターから出て行きたがらない人が多いわけだ。


「お前、マジでなーんにも知らねェんだな。アイツになんも教えてもらってないのかよ」


 アゲハは目を伏せて、相槌を打った。


「ずっと思ってたけどよ、お前って、ほんっとうに可哀想な奴だなァ」


 そう言って馴れ馴れしくアゲハの肩に手を回すと、ククッと喉を鳴らして笑った。

 なるほど、何とも皮肉なことにお互いに憐れみ合っていたのである。


「あまりにお前が不憫だから、教えてやるよ。戦争の環境汚染も放射能汚染もお前が思ってるほど大したことねェ。アンティーターから追放されて都落ちした奴らや、その子孫らは普通に生活してるぜ」


「ジガバチもそうなんですか?」


「いいや、俺はここで生まれた。だが、母親が元住人だったのさ」


 そして、続けた。


「いいこと、教えてやるよ。俺の母親はブレインの下で働く、三大システムの内の一つ、メタボリックシステムの最高責任者だった」


 三大システム? メタボリックシステム? 最高責任者? アゲハの頭の中にハテナがたくさん浮かんだ。質問攻めにしたいところだったが、そこでハイエナが足を止めた。


「見ろ」


 小高い山からふもとを見下ろすと、信じられない景色が広がっていた。

 アンティーターそっくりの都市が広がっていたのだ。聳え立つ高い壁、ひときわ目立つ中枢をぐるりと囲むように迷路状に街が並んでいる。だが、高い壁は虫食い状に穴が空き、崩れて瓦礫になっているところもたくさん見えた。バリバリに割れたガラスのように、無数のひびが走っている。


「これが、廃都市……」


 アンティーターはこれを隠したかったのだろうか。不落の理想都市のはずが、これを見られてしまえばブレインの存在価値が危ぶまれるだろう。アゲハにいろいろな感情が押し寄せてきた。だが、一番衝撃を受けたのは、アンティーターという理想都市はこの瓦解した壁のように張りぼてだったのだということだった。

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