7‐10
アゲハが飛び出てくると、事態は一変し、騒然としたものとなった。ユズリハは目に涙を浮かべ、娘の名を何度も呼ぶ。しかし、離れ離れになっていた母娘(おやこ)の感動の再会とは程遠い、不穏な現場だった。
すっかり取り乱した彼女は、それどころではなかったのである。
「……許さない」
脇腹を抑え、膝を付くジガバチは、仰臥位にされる。そして、彼の傷口を強く抑えて止血しながら、譫言(うわごと)のように、アゲハは呟いた。
短い間に何度か意識を手放し、そしてまた拾う。喘ぐように息をした。死ぬかもしれない、唐突に彼はそう思った。
「アゲハ! ここ、酸素室としてもともと使っていたの。移動させましょう」
「……うん」
母娘に両脇を抱えられ、すぐ横の酸素室に運ばれる。二人は彼を壁に沿って座らせると、ユズリハは頭上のタッチパネルで何かを操作した。
アゲハが手を握り、顔を覗き込む。血相を欠いた様子で何かを言っているが、聞き取れない。そして、手を離すとガラス張りの部屋を出る。その背中に、言葉を掛けようとする。だが虚しいことに、ひゅっと喉が鳴るだけだった。壁に頭を預け、目を閉じる。頭がガンガンする。
「こ、殺す!! 殺してやる!!」
アゲハの叫び声で、再び目が冴える。ガラスの向こうに目をやると、リンドウに銃を向けた彼女が目に入った。見たこともない娘の姿に、ユズリハは怯んでいるようだった。ざまあみろ、と思った。母親の顔色を窺いながら生きていた以前の彼女とは、違うのである。
しかし、心が緩んだのもつかの間だった。なぜなら、リンドウも彼女に向かって銃を突き付けたからである。
一方で頭に血が上っている彼女も、銃は降ろさない。ユズリハが彼女の前に立ちふさがり、リンドウを睨みつけた。
「銃を降ろせ」
だが、彼もまた、銃を後頭部に突き付けられたのだった。ハイエナである。
「私を殺しに来たか」
その言葉に、彼はいつものように一笑を付した。アゲハとハイエナの二人に銃口を向けられているが、リンドウは怯まない。アゲハを殺す、と言うよりは、刺し違えてでもユズリハを護るといった気概をジガバチは彼から感じとった。
「リンドウ! 銃を降ろして!! あなたはずっと優先順位を間違えてる。もういいの、私は。いいえ、私たちは。引導を渡しましょう、リンドウ」
「そうだ!! 俺は、この瞬間を待っていた。アゲハを切り札に、お前を蹂躙するこの瞬間を!!」
半ば泣きながら、ユズリハが叫んだ。渋々、彼は銃を捨て、手を上げた。間接的ではあるがアゲハは宿敵のストッパーとなっていた、と言うわけである。久々に、ハイエナの人心掌握の千里眼に恐れ戦(おのの)いた。
アゲハも、リンドウに殺意を向けている。彼がここで死ぬのは必然に見られた。
しかし、驚くべきことが起こった。
ハイエナは、目を伏せると、銃を降ろしたのだ。
「……だが、今となってはもうどうでもいい。何故だろうな」
そう、静かに言い放ったのだ。
そして、彼の腕を後ろに組ませる。銃を置き、ワイヤーで拘束しようとした時だった。
「……そうか」
そういうや否や、ハイエナの顔面に頭突きを食らわすと、背後の酸素室目掛けて突き飛ばしたのだ。透明のドアが、彼を飲み込むように開く。彼は尻もちをつくと、舌打ちをし、顔を抑える。
「貴様、何を――」
「しかし、私は違う!!」
外のパネルに手を当てる。と同時に、部屋の中で起き上がろうとするハイエナに飛び掛かり、その身を投げた。彼らの背後でドアが閉じる。
「何をした!? 開けろ!」
「無駄だ。お前も知っているだろう? この部屋で、よく“折檻”されていたではないか」
胸倉を掴まれたリンドウは、凄む彼を鼻で嘲笑った。
「内側からは開かない。内側からの音は聴こえない。外からも、私以外は開けられないのだ。……私の特別仕様だからな」
ハイエナは、薄ら笑いを浮かべる彼に盛大な舌打ちをする。そして、頬を殴りつけた。
「フン、殺したければ殺せ。ヒイラギを守れなかった時点で、私はもうお払い箱なのだ」
「どういうことだ」
「私より優秀な誰かが、システムに細工をしたのだ。お前が姉妹に接触していたのは知っていた。先回りしていつものように改竄(かいざん)しようと試みた。だが、今回ばかりは出来なかったのだ」
「何だと?」
ハイエナの顔が険しくなる。
「それどころか、姉妹はお前の襲撃によって行方不明と言うことになっていた。気づけば私は蚊帳の外。お前を再び捕まえるまで何が起こったのか分からなかった。ヒイラギが死んだことを秘密裏に知ったが、それを彼女に悟られないようにするのに精一杯だった」
「それがバレて、俺たちを巻き込んで心中……と言うわけか」
「そうだ。あの男のせいでな」
ハイエナはそこまで聞くと、顔を歪めて笑った。そして、床に彼を叩きつけるようにして落とす。続いて、壁に埋め込まれているモニターを見た。
「二酸化炭素ガスに切り替えたのか。俺には効かない」
「……では、本当にそうか、試してみよう。お前の体は私が一番よく知っている。結果は火を見るよりも明らかだがな」
そうか、彼もまた、自分と同じ何らかの危険形質をもつ人間なのかと、回らない頭で考えた。生い立ちや、生け捕りにされた理由、リンドウとの因縁も納得がいく。
一方で、ジガバチは二酸化炭素ガスは神経に作用する五千ppm程度までは耐えれるが、それ以降は無理だ。四万ppm付近では、酸素障害を誘発するガスとなる。つまり、窒息死する。
思わず、脱力した。だが、不安視していたリンドウも死ぬならば思い残すことはなかった。母親の庇護もアゲハに対しては、少なからずあることにも安堵した。
「何だ? 珍しく、大人しいな。あれだけ、悍ましいほど生にしがみついていたお前が。諦めたのか?」
ふと、薄目を開ける。そして、赤い瞳と目が合うと、嫌味をいなすようにそっぽを向いた。「だったらなんだ」とぼやいた。
「俺はこうなるんじゃねェかってのは、ここに乗り込んだ時点である程度覚悟してた。だから、あの母親(オンナ)が変な気ィ起こして、アイツが……、もう重荷を抱えなくても済むように布石も打ったんだぜ」
「……諦めるのは、尚早かもしれん」
そう言うと、見ろ、とでもいうように、外を顎でしゃくった。
そちらに目を向けると、母子が向かい合っているのが見える。アゲハは、目を見開き、母親の顔を凝視していた。何かを急かされているようだった。何度も首を横に振っている。
「似ているな。お前たちも、あの娘(こ)に収攬(しゅうらん)されたのか」
同じ光景を見つめているリンドウは、ぽつりとつぶやいた。愚弄するでもなく、笑った。どちらかというと、憫察(びんさつ)に近い。
「かつて、野生動物を人の都合がいいように家畜化し、飼う文化があった。ブタ、ウシ、カキンなどの食料動物。ラット、マウス、サル、フェレットと言った実験動物。愛玩動物もそうだ。しかし、一方で、生き残るために人間に近寄った動物もいた。イヌとネコだ。彼らは、今や絶滅したリビアヤマネコやタイリクオオカミの中から進化した種だ。自分たちに向けられる悪意と好意を見分け、共存する能力を持った個体が生き延びたのだ」
恐らく、アゲハの能力に関する言及だ。通りで、彼女のカンが働かないわけだった。無心にでもなって、対策を講じていたのであろう。
「……よおく、お聞きなさいアゲハ! 撃ちなさい。システムの責任者が死ねば、一時的にこの建物全体がストップするの。今できることは、それしかない!!」
そう言って、彼女の持つ銃を自分の胸に当てた。ここからでも分かるほどに、アゲハはわなわなと震えていた。
「何を馬鹿な。実の母親だぞ。出来るわけがない」
呆れた様子で、リンドウは言った。
「アナタが捜しているヤブイヌを殺したのは、お母さんよ。そして、スイバの家族を殺したのも……――」
息が苦しくなり、大きく喘いだ。酸欠からか、それとも憐憫からか。「違う、全部私だ」と、同室で呟いているはずの声が酷く遠くに聴こえる。
一体どんな気持ちで、どんな面持ちで彼女は聴いているのだろうか。少しずつ霞んでいく視界のせいで、分からない。
やがて、ブツブツと言っていたリンドウの声も聴こえなくなった。
「お願い、アゲハ。時間がない。お母さんは、もう疲れたの」
「どうして……? どうして、お母さんは死にたいの?」
「ひーちゃんが死んで、生きる意味なんて無くなったのよ。分かるでしょう」
「……私と生きたくないの?」
「そうよ」
低く苛ついたようなユズリハの声音に対し、アゲハの声は震えていた。きっと泣いているのだろう。
「ねぇ、お母さん。私を産んでよかったって……、少しはそう思ったことはある?」
かすれた声で、彼女は一生懸命に言葉を紡いだようだった。彼女なりに、何らかの答えを出したのだ。しかし、それは、一蹴された。大きなため息によって弾かれたのだ。
ジガバチは居たたまれない気持ちで、目を閉じる。吐きそうだった。脳味噌が沸騰しそうなほど痛い。
意識が飛ぶ直前に、ユズリハの声が聞こえて来た。
「……最期まで、お母さんを困らせないで」
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