chapter1:似我蜂
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この近辺の夜は、墨を落としたような真っ黒だ。上を見上げ、下に俯いて、左右を見渡しても、黒の一色である。夜空には、星一つ輝いていない。濃々としたスモッグが空を被っていたからだ。
そんな混沌とした闇を切り裂くが如く、一人の男の金切り声が響き渡った。
「じっ……、ジガバチだぁ! ジガバチが出たぞー!」
その男は息も絶え絶え、不安定な呼吸、おぼつかない足取りで村人たちに呼びかけた。その、ただならぬ叫び声で危険を察した者たちが松明を手に、小高くドーム状の形をなす山の洞穴からぞろぞろと湧き出てくる。
「お前! なんと……、無事だったのか! 日が落ちても狩りから戻って来ないと、家の者が心配しておったんじゃぞ!」
十と二、三人出てきた集落の者達の中でも、一際年老いた老爺が男に駆け寄る。
「あのジガバチに出会いながらして、無事逃げ出したのか……。何と幸運な奴じゃ」
「しかしながら、仲間が全員……」
男は苦しそうに顔を歪めると、口を閉ざした。そして呻きながら体を前に折る。派手な外傷は見つからなかったが、顔は闇夜でもわかる土色で、見るからに具合が悪そうであった。
それを家内の者と思われる女が、急いで両脇から彼を支えた。
「村長さん、彼は……、大丈夫なんでしょうか」
彼の妻であろう若い女は、男の腕を自分の首にかけながら言う。
「毒にあてられたのじゃろう。だがあやつでも、この隠れ家までは追ってこれまい。何せ、保衛官でさえここは見落とす穴場なのじゃ」
村長と呼ばれた先ほどの老爺が、悲痛な表情の彼女を宥めるように言った。
「それより……、村長様。ヤツの、ヤツの住処を見付けました」
男の言葉に、穴に戻ろうとした男衆の足が止まる。
「ヤツはこの山のすぐ麓ふもとに巣食うっていやがった」
「近いな、早目に叩かなければ」
穴へ向けた足を止めた男の一人が、苦虫を噛み潰したような面持ちで言った。
「夜襲を仕掛けますか?」
「いや、アイツは夜行性じゃなかったか?」
「明るいのが苦手なのか」
「たかだか一人だろう? いくら手練れだとは言え、多勢に無勢ではないか」
口々に若人たちが談義を飛ばす。
「よし。では明日の早朝、手練れの男共で集まって襲撃だ」
村長とは別の、ガタイのいい男が不安がる若人衆に対し、言った。景気付けるように明るい声音がよく響く。
「よかろう」
村長が深く頷く。
「はい、村長。仇は討ちます」
村長が号令を出すと、暫くして洞窟の明かりが消え、やがて洞穴の近辺は静かになった。
ザーッとやけに強い、嫌な風が彼らの洞窟の前を脇をすり抜けた。まるで降って湧いたかのように、ヤツはいた。
「こういう物騒な奴等は、早目に叩いとかねーと……なァ?」
その様子を遠くから見ていた男がいた。暫く待っていると、洞穴からひょこひょこと千鳥足で、一人の男が出てきた。先ほど金切り声を発して助けを求めていた男であった。
「ジ、ジガバチ様、言われた通り、頂いた瓶を開けて洞窟内に撒きました。全員眠っております」
「ご苦労さま」
彼は、吐き捨てるようなを物言った後、どこからともなくスッと白銀の刃を出す。そして、音もなくその男の首筋に当てがった。仕込んでいた鉤爪の刃である。
「そ、そんな! 集落の全員を眠らせれば、妻子と私は見逃すという約束では……」
言うか言い終わらないうちに、男が音もなく崩れ落ちた。頸動脈を掻き切ったため、びっしゃりと勢いよく真っ赤な血飛沫を浴びる。
「お前みたいな家族に優しいカス、俺は大好きだぜェ」
そういってジガバチと呼ばれた男は、亡骸を見下ろしながらせせら笑った。
ジガバチは「腹減ったア」と横腹をさすると、洞穴に入った。二十近くいる集落の人々は皆、眠っていた。その様子を顔を覗きながら確認すると、老人と男は喉を掻き切っていく。そして、赤子や女の首筋には何かを注射する。ただ一人、あの男の妻を除いては。
「んー、これは微妙だなァ。デカいしよォ、ったく運ぶの怠イしな……」
男の選別には迷うのだろうか、齢十五程度の少年の顔を見ると頭を掻きながらブツブツと呟いた。
一際強い風が流れ、宵月にかかった暗幕が開ける。そして、彼の残虐的な姿が月の下に露あらわになった。返り血に染まったその男の顔に残忍な笑みが浮かんだ。まるで口が耳まで裂けようか、というほどの悪魔的な表情を浮かべている。
高身長に逞しい体つき、彼の左手の手甲鉤の刃には真っ赤な鮮血が滴り落ちる。
まるで魔物のようなその男の容姿を、月光がさらけ出した時、宵闇をつんざく断末魔の叫び声が上がったのだった。
「お、夫はどこに……」
夫の哀れな末路なぞつゆ知らず、目を覚ました若妻は夫の安否を気遣った。
「お前がいい働きをしたら返してやるよ」
ジガバチは恐怖で震える女を見下ろして、唇の端を吊り上げてにんまりと笑った。
☆
「ジガバチ……?」
何やら聞き慣れない言葉にアゲハとハイエナは眉を顰しかめた。
ここはあの汚水臭い地下から丸一日歩いたところにある、山中。川の中流に位置するとある集落である。アゲハが壁の向こう側にやってきてからちょうど二日目のことであった。
アンティーターを頻繁に行き来しているような様子のハイエナは、あの下水道のような地下を出入りに使っていたようだ。そこを抜けると、山があり、林があり、森があった。
外は環境汚染がひどく、住めたものではないと聞いていた。しかしスモッグが蔓延る空では鳥が飛翔し、ドブだらけの川には魚影が蠢き、夜になると動物たちの声がした。そして、微かに文明もあった。
そうして、この集落にたどり着いたのである。
そこで、そのジガバチという害虫を対峙することを条件にアゲハたちは宿を借りるという取引をした。金銭と言う概念が無いのだろうか、ここら辺で暮らす者たちはこうして物々交換で売買を行うような口ぶりだった。
「最近、ヤツの目撃情報が私たちの生活圏にどんどん近づいているのじゃ」
目の前の小さな老婆が言った。背骨が大きく曲がり前屈した姿勢、極端に低い身長、それによりとても老け込んで見える。その一方で、声は若く、はきはきとした喋り方をする。その様子は意外と若いようにも見える。
「そしてついに先日のことになるが、ジガバチが襲った隣の集落から逃げてきた女を保護したんじゃ。会うかい?」
ハイエナは頷いた。
「半年ほど前からここらでは知らぬ者はほとんどいない。たった一人で村を全滅させる賊じゃ」
ハイエナの手にかかれば、ちょろいものだろう。何せ、あの保衛官三人とまともにやり合えるのである。
長らしき老婆が、アゲハたちの背後に目をやった。後ろを振り返ると同時に、アゲハはぎゃっと思わず声を上げた。突然の悲鳴にハイエナが不快そうにこちらを見る。彼女は慌てて両手で口を塞いだ。
目の前の女は凄まじい有様だった。余程恐ろしいものを見たに違いない。目は落ち窪み顔は土色に染まり、ひどく血色が悪く見える。
「それは、返り血か」
ハイエナが女の顔を指さして問うた。その顔にはドス黒く酸化した血痕がべっとりとこびり付いていたからだ。彼女はきゅっと唇を結ぶと目を潤ませて、コクコクと頷いた。
「目が覚めたら、みーんな殺されてしもうて……。それで、それで……」
きっと言葉では言い表せない、辛く恐ろしい光景を目の当たりにしたのだろう。震えた声でそこまで言うと、泣き始めた。
ポロポロと涙を零す彼女を俯瞰するハイエナに、ふとそれとなく目をやる。緋色の目は冷ややかで、何の感情もそこにはなかった。不気味な目つきに、アゲハは背筋が凍る。
「……夜、夫は仲間と狩りに出かけました。途中で男に襲われ、獲物を盗まれたのです。六尺六寸もあるような大きな男だったそうです。夫は毒にやられながらも、命辛々集落に逃げ戻ってきました」
――六尺って……、一尺って何センチだっけ……。
初めて聞く単位に、耳慣れない訛り、そして物騒な字面の数々にいよいよ別世界に来てしまったのだな、とアゲハは思った。
女はその場にへなりと座り込むと、どこか一点を凝視しながら続けた。
「しかし……うぅ……ヤツはきっと夫を追ってきたのでしょう……。そして……、そして眠って起きたら、村が……」
そこで言葉を噤んだ。両手で顔を覆い、うっ……、うっ……、と嗚咽が聞こえてくる。泣いているのだ。
「ここからはワシが聞いたことと見たことを話そう」
横から、老婆が静かに言った。
「ジガバチは、噂によると手甲鉤てっこうかぎの使い手だと聞いておる。厄介なことにその刃には神経毒が塗ってあるのじゃ」
――てっこうかぎ……?
またもや何やら聞き慣れない言葉に、アゲハは首を捻る。
「古来の日本で実際に使われていたとされる、暗器のひとつだな。殺傷性には乏しいが、手に装着して使う分、実用性が高い。さらに毒を使うなら、なおさら相性がいい武器かも知れない」
「……ということは、掠りさえすれば致命傷になる猛毒を――」
「かもな」
最悪な想像をし、震えあがるアゲハを遮ると、彼は意味深に笑った。
「だがな、実際は分からないのじゃ。村に行ってみたが、酷い有様じゃった。女子供は跡形もなく、老人と男どもは皆、切り刻まれておった。恐らく――」
「毒ではなく、外傷による殺しか……。よっぽど弱いものを一方的に嬲り殺す狩りが好きなようだな」
ハイエナは目を細めて言った。
「さらに……、何かあるな」
そう言いながら、ハテナがたくさん浮かぶアゲハの顔を覗いてぽつりとつぶやいた。
そうなると、弱い毒、強い毒を使い分けているということになる。
老婆のいた小屋を出ると、すっかり日は落ちたというのに不気味なほど空は明るかった。
今宵は満月だった。
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