5-7

「ハエとアブはどちらもハエ亜目。見た目、食性、行動……違いはほとんどない。では……、二つを分け隔てる決定的な違いは何だと思う?」


 ガランとした広い書斎で、男はデスクに足を投げ出し、熱っぽく語って聞かせた。これが、ウシアブの正体だった。

 彼は、ハイエナは銃を構えていたが、まるで歯牙にもかけない素振りで、葉巻を加え、口ひげを撫ぜる。

 ジガバチはその弁論者の傍らで構える女を見て、なるほど、と思った。護衛など必要なかったのだ。この、猛禽類のように目を光らせる彼女がいる限りは。


「うぅ……」


 ハイエナはこの場にそぐわぬ教鞭を垂れる彼に、鉛球を打ち込んだのだ。しかし、呻き声を出したのは、咄嗟に肉壁となった鳥人間だった。

 銃痕から素足にどくどくと赤い血が流れた。苦悶の表情は、人間そのものだった。アンドロイドは何度か見たことがある彼も、このヒューマノイドというものの精巧さに驚く。巷にあふれるアンドロイドとは明らかに一線を画していた。

 ウシアブは傷つく彼女に一瞥もくれず、フッと煙を吐く。そして、続けた。


「前者は蛹の殻が環状に開く環縫短角群に対し、後者はそれが直線状に割れる直縫短角群である。たったそれだけの違いなのだよ」


 そう言うと、首筋を見せるように少し斜め上を見上げる。そして、顎ひげを撫でた。ちょうどその手元に、ショウジョウ一派とよく似たタトゥーが入っている。

 そう、元々この二つのスワームは同じ傘下だったのだ。ウシアブは大方、このヒューマノイドを拾い、力を手にした。そして、ショウジョウに間者を送り、そこから有用そうな人員を見つける。タトゥーに縦線を引かせ、ショウジョウから奪っているのだ。

 と、すると、エデナゾシンを持つスワームは彼らとは無関係と言うことになる。どこからか噂を聞きつけ、奪おうとしたのだろう。

 

「そうか。興味はないが、熱弁ご苦労」


 例の如く、ハイエナは冷ややかな表情を浮かべ、余裕綽綽な男に向かって駆け出した。敵意、いや、侮蔑の感情すらもないまっさらな表情はかえって不気味に感じるほどだ。


「……ミサゴ」


「はっ!」


 ウシアブはその機械の名前を呼ぶと、葉巻を加えたまま、飄々と立ち上がった。そして、裏の扉から出て行こうとするではないか。その背後に、弾が切れるまで、ハイエナは銃を撃つ。

 しかし、名を呼ばれ、短く返事をした彼女が、再び肉壁となる。すべての弾を体で受け止めたのだ。

 舌打ちをすると、彼は銃を捨てた。弾が切れたのだ。それと同時に、「追え!」と、ジガバチに命令する。そして、自らは、ミサゴと呼ばれた敵機を引き付けた。

 返事もせず、勢いよく駆け出した。ウシアブの喉元を目掛けて、一直線に走る。武器どころか、態勢すら構えていない。目線すらも、こちらを向いていなかった。そんな彼を打ちのめすのは赤子の首を捻るくらい、造作のないことに思えた。

 だが、数歩、と言うところで、大きな棚が横から倒れて来た。すんでのところで行く手を阻まれてしまったのだ。

 振り向けば、ミサゴの蹴りだした足が大きな四つの鉤爪に変わっていた。ワイヤーの攻撃を避けながら、足元を変形させ、棚を手元側に引き寄せて倒したのだ。


「ミサゴ、こいつらを逃がしでもしたら……、わかっているな?」


 大きな物音に反応したのか、ここでようやく、ウシアブは不機嫌そうな顔をこちらに向けた。


「……はい」


 伏し目がちに彼女は返事をした。そこで、ようやくわかった。アゲハが、“やらかした”を理解したのだ。

 このような強力な兵器を、大した規模も力も持っていないあの男が振りかざすことができるのは疑問だった。脅されていたのだ。彼女は薄手のタンクトップとペラペラの短いパンツという、何とも粗末な身なりだった。ほとんどを露出しているにもかかわらず、件のタトゥーが見当たらなかった。ハイエナが切ったとされる足首を含む、様々な箇所に乱雑に包帯が巻かれている。

 これを見るに、凡そ、まともな扱いを受けてはいない。


(……なるほどなァ)


 アゲハの思考回路が手に取るようにわかった。そして、当時の状況が目に浮かぶようだった。思わず苦笑いを浮かべる。

 すると、この混沌とした状況に乗じて、通気口の蓋が開いたのが見えた。アゲハだった。音もなくスッと逆さまのまま、天井に針を突き刺す。つま先を天井に着けると、四つん這いにぶら下がった。恐らく、つま先にも返しの付いた針が付いているのだ。彼女の体重なら、十分吊り下がることができる。

 そして、ジガバチは蝶が羽化するのを見た。

 ウシアブのすぐ背後で、両手を離し反り返る。そして、首筋に刃をあてがい、掻っ捌いたのだ。その所作は、まるで、宙づりになった蛹の背中がぱっくり割れ、成虫が羽化するシーンにそっくりだった。

 「……カヒュッ」という、不気味な空気音と共に、血を迸らせながらガックリとウシアブは倒れた。

 刃を握る彼女の目を見て、ザッと悪寒がした。まるでアゲハの姿かたちをした、別の誰かを見ているようだったからだ。返り血で染まった彼女の顔は、知らない誰かのようだった。瞳には何の光も映していないように、黒々としていた。ピシャリと血が掛かったのに、ピクリとも表情の変化がない。

 ハッという息を呑む音で、ジガバチは振り返った。ミサゴだった。

 右の手首から先がなく、血が噴き出ていた。左手で長い髪をしっかり掴まれ、引き摺り倒されている。そして、こめかみに銃を突き付けられていた。


「ジガバチ!!」


 その時、彼女のいつものキンキンと響く声がした。


「おう!」


 やることは分かっていた。特別な言葉、視線を介さずとも、分かる。そういうものなのだ。

 ジガバチがハイエナの右手で握る銃を蹴り飛ばすのと、引き金を引くのはほぼ同時だった。弾痕は天井に開いた。間に合ったようだった。


「貴様、誰に向かって――」


「もう終わりです。ウシアブは死にました」


 脅しをかける彼の言葉を遮り、アゲハは言った。そうだ、これ以上は無駄な殺生と言うやつだ。


「勘違いすんなよな。俺はお前に着いてるわけじゃねェ」


 そう言いながら、彼が落とした銃を拾い上げる。そして、ハイエナに向けた。

 途端、彼は後ろを振りむき、襲い掛かって来た。銃を持つ腕に肘を叩きつけると、その凶器を床に落とさせる。反応する隙もないまま、みぞおちに膝蹴りが当たった。相変わらずの戦闘能力に、膝を折りながら、舌を巻いた。

 しかし、これでミサゴの束縛が途切れた。


「何してるんですか!? 早く逃げてください」


 この少女はこんな低い声で叫ぶことができたのか、というほどの怒号だった。

 その声にハッとした表情を一瞬だけ見せると、鳥人間は背後の窓ガラスに向かって飛び出した。

 そして、ガラスを突き破ると、そのまま天高く舞い上がり、消えたのだ。心なしか、何か高ぶる感情を押し殺すような、そんな表情を浮かべているような気がした。

 喧嘩賭博(とばく)でも不遇そうなアンドロイドを見かけたが、あの時と似ている。やはり、機械にも心はあるのだろう。アゲハと同じ気持ちだった。



 夕日はすっかり落ち、仄暗い夜の海中(わだなか)に廃都市が落ち着くころだった。アゲハは買い出しの荷物を両手に抱えながら、溜息を堪えた。もう何度目になろうか。


「お前は容易く“心”を口にする。それは目には見えないものだと言う。だが、視線を交す、あるいは一言を交すだけで、お互いのすべてが分かるかのように振舞う」


 真剣な眼差しで問いをぶつけるハイエナに、アゲハは閉口した。呆れているわけでも、馬鹿にしているわけでもないのだ。純粋に、きちんとした答えを持ち合わせていない自分に腹が立ったのだ。

 きっと実験施設になんていなければ、保衛官にならなければ、このようなことにはならなかっただろう。能面のような表情をかなぐり捨てれば、好いてくれる女性には事足りなかったであろう。愛情を注いでくれる誰かに恵まれていただろう。それなのにアンティーターが市民の安寧のために、彼から心を学ぶ機会を奪ったのだ。

 彼のがらんどうに見える内側には、確かに茫漠な“悪意”を秘めている。これを心と呼ばずして、何というだろう。時折見せる残虐さや、知的欲求さえも人間味に溢れている証拠だ。

 何とかしてあげたいのが本音であった。これは彼を含む様々な犠牲の上で、甘い蜜を吸って生きて来た彼女の、使命にも似た何かである。


「……そして、あのロボットにも、それはあると言った」


 一語一語を絞り出すように言う。ひどくその様子が切なげだった。


「難しく考えすぎです。確かに、心と言うのはデータで可視化することも、具現化することもできません」


 アゲハは歩を止めた。続けて、彼も止める。

 春の夜風が脇をすり抜けていく。


「心は、最初からそこにあるものではありません。育みたいと思った時に、相手と育てるものなんです」


 そう言いながら、歯の浮くようなセリフに照れを隠せなかった。頬を染め、はにかんだ。

 どんな顔をして聞いているのだろう、ふとそう思い、彼の顔を見上げる。その時、彼女の薄く開いた唇に冷たい感触がピタリと合わさった。

 

「……こうやってか?」


 彼はそういうと、唇を離し、ニッと嗤った。

 その直後、アゲハはキスされたのだ、と気づいた。反則だ、こんなの、ずるい、顔をどんどん真っ赤にさせ、彼女は心の中で叫んだ。


「わ、私のこと……すっ――」


 かぁっと顔が火照り、何とも情けないことに最後まで言葉を続けることができなかった。


「さぁ、わからない……」


 どういうつもりか知らないが、この男は言い淀んだ。そして、呆然と立ち尽くす彼女を置いて、スタスタと再び歩き始めたのだった。

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