5-8

 ハイエナが玄関の扉を開けると、むわっと熱風が雪崩込んできた。夏が、始まったのだ。


「また、行くんですか?」


 ハイエナは度々、こうしてアンティーターに出向いては、人を殺している。初めて会ったあの夜のように、血痕の目立たない黒い服を着る。そして、素知らぬ振りで傷を隠し、帰ってくるのだ。

 この時間は毎度毎度、気の滅入る時間だった。これが最後のやり取りになるのではないか、という恐怖があった。奇しくも、ヒイラギやこの男の思惑通り、アゲハにとってアンティーターを潰すことが生きる目標となりつつあったのだ。彼無しでは、到底実現できそうにない。

 

「そうだ」


 彼は動きを止めると、短くそう答えた。そして、「あともう少しだ」と続けた。

 アゲハの方も、思うことはあれど口にはしない。何をしに行っているのか、何でここまでするのか、彼の何がそうさせるのか、理解している。


「……そんな顔をするな。行きづらくなるだろう」


 いつもは無機質な表情に、居心地悪そうな色を浮かべ、笑ったように見えた。それを隠すように、アゲハの頬を指で弾く。


「お気をつけて」


 そう一言だけ、告げた。少しだけ、彼女も頬を染めた。



 ウシアブの研究施設を強奪してからと言うもの、拮抗剤の研究は飛躍的に進んだ。だが、その一方で相変わらず、Mosquitoの正体や廃都市に蔓延るエデナゾシンの行方は掴めなかった。

 ミサゴと言うアンドロイドを逃がしたことで、足取りは途絶えたのだ。しかし、このことについて、妙なことに、叱咤を受けることはなかった。アゲハの計らいのおかげかもしれないと思った。


「クソガキ、それやめろ」


 ジガバチはそう凄むと、そわそわと膝がしらを揺らすアゲハを睨みつけた。ハッとしたように、黒い瞳が動く。


「そんなに心配なら付いて行きゃァいいじゃねーか」


 案の定、彼女はブンブンと横に振った。滅相もない、と言った具合である。ジガバチにとっては名前も呼びたくない、奴が帰還する日だった。別に帰って来ようが来まいが、どうでもよかった。だが、アゲハはそうではないらしい。

 大人ぶってはいても、結局は十代の娘(がき)なのだ。いつからかは分からない。だが、彼女はあどけない表情も残しながら、次第に女色を宿すようになった。

 玄関先で物音がした途端、彼女は目をキラキラさせてこちらを見た。目が合った瞬間、ふと真顔に戻る。恐らく彼の表情が、思っていたものと違っていたからだろう。

 玄関まで子犬のように駆ける彼女の背を見つめながら、思わずほくそ笑んだ。一体いつから、そんなに手早く表情を切り替えられるようになったのだろうか。


「ジガバチ! 見てください、これ」


 忠犬アゲハは二、三言玄関先でハイエナと話した後、視界の目の前に飛び込んできた。


「私の友達です」


 そう言うと、USBメモリを指さした。それは、指紋認証付きのものだった。


「何だよアレは」


「まあ見ていろ」


 眉に皺を寄せ、訝しげに走っていく彼女を見つめる。すぐ背後で、ハイエナの落ち着いた声音が響く。

 彼女は浮足立って、ディスプレイにUSBを差すと、パスワードを入力した。尻にしっぽが生えていたなら、ブンブンと左右に千切れんばかりに揺れていただろう。


≪アゲハ、オヒサシブリデス≫


 茶色のクマのアバターが映し出された。“友達”の正体は、バーチャルアシスタントのことだったのだ。今まで見たことのないような明るい表情で、彼女はソレを食い入るように見つめた。あまりに熱烈な視線に、思わず吹き出しそうになるのを堪える。


「久しぶりだねぇ、ベアちゃん」


≪オゲンキソウデ、ナニヨリデス≫


 音声合成特有のイントネーションで、ベアちゃん成るものは喋った。


≪……アノヨルハ、モウシワケアリマセンデシタ。ハイエナサマガシンニュウスルサイ、ソノスガタヲウツサナイヨウ、ハイリョヲシテオリマシタ≫


 「え?」と言いたげに、彼女はハイエナを見つめた。ジガバチも彼の顔を見たが、陶器のような顔は眉一つ動かさない。この得体のしれない男はバーチャルアシスタントとグルになって、アゲハの部屋に出入りしていたのだ。恐らく何度も。


≪シカシ、ソノセイデキヅキマセンデシタ。アノヒ、12ガツ12ニチ、16ジ32フン。ハイエナサマガモッテオラレタガンキウカラ、ヒガイシャノスマートコントラクトレンズガオチ、アナタノヘヤノユカニフチャクシテイタノデス≫


 ハッとアゲハの息を呑む声が聞こえた。何のことかさっぱりであった。だが、天下のハイエナの表情に幾何かの焦燥感が浮かんだ。それはもう、気味がいいほどだった。


「待て、そもそも、あの状況でアゲハが俺の存在に気付くことが計算外だった。今まで何度もお前の部屋に出入りしていたにも関わらずだ。ああでもしなければ、お前は大声を出していただろう」


 いつになく饒舌だな、と言おうと思ったが、すんででやめた。代わりに薄ら笑いを浮かべる。


「……いや、そうだな。俺のミスだ。悪かった」


 しかし、ここでようやく彼は、折れたのだ。そして、バツが悪そうに目を背けた。一方で彼女はというと、返事をするのも忘れたように、ぽかんとしていた。

 


「最近どうだい? みんなと仲良くやってる?」


 例の如く、この胡散臭い男、ヤブイヌの世間話が始まった。しかし、アゲハは最近は悪い気持ちがしなかった。むしろ、この時間を少し楽しみにしている自分の気持ちに気付く。


「はい。好きなことがたくさんできて、それに、目標ができて、楽しいです」


『今の方が好き。ありのままで生きれるここが好きなのよ』


 いつだったか、ナナホシが彼女にそう言った。当時はピンとこなかったが、今ではわかる。

 ここでは、毎日の暮らしが不便で、死すら感じることも多々あった。だが、理想的な娘を演じることも、理想的な姉を演じることも、しなくて済む。すべての選択のツケは自分に返ってくる。だが、その選択肢は自由に選べるのだ。

 にっこりと笑うアゲハに、彼は目を細めた。彫りの深い目じりが下がる。


「ほんっとーにいい顔で笑うようになったよ」


 そう言われ、彼女は思わず頬を染める。それを誤魔化すように、彼の手元を見つめて「……ところで」と言葉を続けた。

 彼女の靴に、仕込んである刃を熱心に研いでいるのだ。


「どうしてそんなに良くしてくださるんですか? あなたがお父さんだったりして……」


 自分で言って、吹き出しそうになる。そんなことがあるはずはないのだが、そうだったらいいなと思ったのが正直な気持ちだった。そうだよ、と冗談交じりに言って、笑って欲しかった。こんな人が父親だったら、きっと家は華やかだっただろうに。母親が怒ってもきっと味方してくれただろうに。そういう願望もあった。

 だが、彼は彼女の予想とは違う反応をした。

 手を止めてふと真顔になり、向き直ったのだ。


「少し話そうか」


 急に怖い顔をして、そう言ったのだ。

 アゲハは、身を固くした。当たってしまったのだろうか、と、思うほどだった。静寂の中、期待と不安で胸がぐちゃぐちゃになりそうになるのを堪える。


「俺は君のお父さんじゃない。でも、ヒイラギの父親ではある」


 その言葉に、全身を殴打されるほどの衝撃を受けた。当然、“悪意”なんてものは毛ほども感じない。それにも拘らず、胸が痛くて、頭が痛かった。喉に何かがつっかえているように、言葉も発せない。

 ヒイラギは母によく似ている。そして、母と同じRhマイナスの血液型だ。つまり、ヒイラギはヤブイヌとユズリハの娘だったのだ。


「あの夜、ハイエナに出会ったのは偶然じゃない。俺の指示で、娘を――」


「ごめんなさい、生き残ってしまったのが私で。本当にごめんなさい……、妹を守れなくて」


 これ以上は到底聞けなかった。ようやく開いた口からは、懺悔の言葉しか出てこなかった。

 この人は、どういう気持ちで、自分に優しい表情を、眼差しを向けていたのだろうか。そう考えるだけで、胸が痛かった。なぜ、自分が生き残ってしまったのか、と、この時ようやく、アゲハはひどく恥じた。

 ヤブイヌは、拾ったハイエナを通して、真の娘をずっと見守っていたのだ。

 大粒の涙が、ぼたぼたと膝に落ちた。ごめんなさい、と何度もつぶやく。


「……違う! 君だけでも、生きててよかったよ。本当にそう思ってるよ」


 優しい彼のことである。励まそうとしたのだろう。彼女の肩を揺さぶると、半ば叫ぶようにして、そう言った。だが、今はなんの言葉も、意味をなさなかった。

 ヒイラギは相も変わらず、アゲハが欲しいものをずっと持っていたのだ。それなのに、死んでしまった。

 妬ましい、羨ましい、浅ましい、悲しい……、妹に対し、負の感情がドロドロと雪崩込んでくる。

 ついに、アゲハは居た堪れなくなり、闇夜に逃げ出したのだった。

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