7-12

 リンドウが初めてユズリハと言葉を交わしたのは、十二

 彼女とは住む世界が違い過ぎた。

 あの日まで、彼女と関わることは一切なかった。

 


 その日は、テングチョウが各地で大量発生した記録的な日だった。

 学校に忘れ物をしたリンドウは、夜も遅かったが学校に向かった。


「どこに忘れたんだい?」


「……たぶん、校庭です」


 守衛に伝えて、校庭に向かった。

 白い街頭が、校庭まで続く。そこで、リンドウは街灯の下に座り込む人影を見つけて、思わず目を奪われた。

 サラサラと夜風が細い髪の毛を、艶やかに靡かせる。それは、ユズリハだった。

 何となく気まずい気がして、そろりそろりと彼女を気にしながらその背後を通り過ぎ、やり過ごそうとした。その時だった。背中越しに彼女が小さな手で何かを握っているのが見え、思わず歩調を遅める。


――テングチョウだ……。


 虫が好きなのだろうか? これには意外だった。部屋に虫が入って来た時に黄色い声を上げて、他の女子たちと怖がっているのを見たことがあったからだ。

 何をしているのだろう、そう思い、手元を注意深く見つめる。

 彼女はチョウの翅を両手でつまむと、そのまま引き裂いた。

 

「――あっ!」


 意図せずに声が洩れる。

 その瞬間、ばっと彼女は振り向いた。大きな瞳に、息を呑む自分の顔が映っているのが分かる。

 心臓がバクバクした。高嶺の花を前にして動けないでいると、やがて彼女は手に持ったチョウをうち捨て、慌ててその場を立ち去ろうとした。

 足元には無数の翅を失い、悶えるチョウたちが蠢いている。


「待って!」


 咄嗟に彼女の腕を掴み、少年は言った。


「十歳くらいまでの子はそーゆーこと、みんなやるんだって。パパが、そう言ってた」


 何故か、息が上がっていた。彼女は目に涙を浮かべていた。


「……最初は好奇心だったの。蝶々ってどのぐらい翅を失ったら飛べなくなるのかあなって」


 彼女はまるで許しを請う罪人のように、吐露した。

 リンドウはというと、この時、ぼうっととある論文の内容を思い出していた。

 成人二千二百名に、子供のころに生き物を興味本位に殺した経験があるか、と聞いたところその九割以上が経験があると答えた、という内容のものである。


「そしたら、だんだん楽しくなってきちゃって……。私、おかしいの。多分二十歳になったら、犯罪抑止法に引っ掛かると思うの。それで、それで、私多分――」


「来て、良いもの、見せてあげるよ」


 声を荒げる彼女の手をそっと引いて、リンドウは校庭まで連れ出した。

 誰もいなくなった校庭の片隅で、カチカチ、とクリッカーを鳴らす。すると、どこからともなく、五百ミリのペットボトル程度のネズミがぞろぞろと集まって来た。ドブネズミである。


「……今日の報酬は、パン。罰は、針」


 誰に言うでもなく呟くと、集まったネズミたちにパンをばら撒く。そして、地面に簡単な迷路をササッと書くと、スタート地点を指で突く。集まったものの一匹がその地点にやって来た。

 背後で、ユズリハが小さく感嘆の声を上げたのを誇らしげに感じる。


「今日はお前が一番目か、おチビ」


 一番体が小さい雄のネズミだったから、便宜上おチビと呼んでいた。おチビは体も小さかったから、するすると進んでいく。上手く角を曲がれるごとに報酬パンを与える。彼は出口に置いてあった大好物のチョコレートを咥えると、仲間に奪われそうになりながら帰って行った。

 二匹目はスカーだ。喧嘩か何かで耳が欠けていた、大きめの雄だ。

 スカーは大きな体が迷路の概形を超えないように、ゆっくりと歩く。しかし、最後の角を曲がるときに、うっかり前足が線を踏む。

 リンドウはすかさずはみ出た前足を針で指す。


チッ!


 ドブネズミは滅多に鳴かないが、スカーはこの時、痛みというよりは驚きで声を出した。


「はっ……、可哀想! ……って私が言うのも変か」


「いや、普通だよ。命は平等じゃない。虫の命は軽いし、哺乳類の命は重いんだ。人間同士ですらも、そうだろう?」


 慌ててゴールにたどり着くと前足を舌でさする、スカーを見つめながら、リンドウは言った。


「そう……かも?」


 彼女が腑に落ちない様子だったので、彼は続けて解説する。その間には、スカーは群れの中に戻っていた。彼はカースト上位なのだろうか、チョコレートを奪われることなくゆっくりと食す。


「極端な例を出すと、ボクが今死んでも君は悲しくないだろう? でも、君のお母さんが死んじゃったら、すごくな哀しいはずだ」


 それに対して、彼女はイエスともノーともいえない渋い顔をした。


「どうしてこんなことをしてるの?」


「ボクも、興味があるんだ」


 地面にお尻をつけると、それに倣うように彼女も横に座った。


「ずっと昔から、学習の強化について罰を回避させる方法よりも報酬を与える方が効率が上がるっていう結果が出てるけど……、時によっては罰を与えた方が効果的な場合もあると思うんだ」


「どうしてそう思うの?」


「例えばさ、飴と鞭つまり罰回避と報酬系を使い分けるのってどうなんだろうね? 罰を与えることのデメリットとして反抗心が芽生えるっていうのが挙げられる。一方で、DV、ストックホルム症候群、非虐待者症候群……こういう言葉があるけど、この被害者たちは反抗するどころか、加害者に寄り添ってしまうのが問題になってるよね?」


 彼女は腕で両膝を抱えると、うーんと呻る。やがて、「……そうか」と何かを閃く。


「洗脳だ!」


 リンドウはコクコク、と頷いた。


「洗脳が、その学習のキョーカに繋がらないかって思って、実験してるんだね」


 彼は再び頷いた。


「罰を与えられても逃げたりしないのは、洗脳したから?」


「うーん、そうなのかも。わからないけど、こういう昔話がある。

ある町でクマが街に出没した。外に置いてある冷蔵庫で、クマが中のケーキを食べにきてるってさ。

その街では、追い払いによって町にクマが出没しても、被害を出さず、そして、クマも殺処分することなく、町に来させないようにする学習させるシステムが出来上がっていたんだ。

でも、そのクマはどれだけ追い払っても、痛めつけても、何度でも戻って来た。ケーキを食べるという報酬が罰を上回ったんだ。そのクマは結局殺されたんだけど、胃袋の中から大量の生クリームとイチゴが出て来たんだって」


 ここまで話して彼女の方をそっと見る。再び目を丸くした彼女と目が合い、そっと目を逸らした。


「すごいじゃん!! 証明出来たら、とっぷかんふぁれんす行きだよ! 私、応援する!!」


 彼女は手を叩いて目を輝かせた。


「……この実験では無理だよ。野生動物の餌付けは法に触れてるし、生体で実験したものは拒否リジェクトされる。かといって、ロボットじゃ、ダメだしね」


 そう言って肩をすくめて見せた。


「うーん、じゃあこれはどう? 限りなく人間に近いロボット! 人造人間をつくるの!」


「ヒューマノイドみたいな?」


「そう! 映画や小説には出てくるじゃん。事実は小説より奇なり、って言うでしょ? でも、あまりに出来が良すぎても駄目ね。感情は持たせないようにしないと。私が、イイ感じに、手伝ったげる」


「そしたら、ボクら、共著で一本出せるね。とびっきりのやつ」


 セピアカラーだった世界が、明るく、色づき始めるようだった。主人公のヒロインが登場し、ようやく物語が始まった気がした。

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アンドロイドに毒薬を(旧Ants) かいなた りせん @rikanosuke

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