アンドロイドに毒薬を(旧Ants)
かいなた りせん
chapter0:鬣犬
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「音を立てるな」
とても低く、地の底から響いてくるような男の声が頭上から響く。まるで全ての感情を黙殺するような声音だ。
アゲハは目を見開いたまま、体を捩る。彼女の口を塞ぐ手の隙間から、「んっ!」と息が漏れた。
「危害を加えるつもりはない。それも、お前の態度次第だが……」
動いてもびくともしないほど、ガチガチに体を拘束されている。うまい具合に、肘と膝、片手を使って関節を固定されているのだ。
さらに、相手に脅され、彼女に為す術は無い。やがて無力を悟ると、藻掻くのをやめる。夕闇の残り火を頼りに、相手をじっと見た。
無造作に伸びた前髪が右側の目元を隠している。それがミステリアスな雰囲気を醸し出していた。瞳は暗くても分かる灼眼の男だ。まるで彫刻刀で滑らかな石の表面に顔を掘ったような、そんな無生物的な美しい顔をしていた。
年は三十そこそこだろうか。背は一八〇センチ程、影は細身に見えたが、無駄なく鍛えられた体つきであるのが分かる。
そしてひときわ目に着いたのは、端麗な顔にある大きな傷跡だった。
それは彼の鼻筋から右頬にかけて、そしてあとは前髪で隠れている。大きな火傷のような痕だった。皮膚が広く爛ただれている。
もちろん誰だか全く思い当たらない人だ。どうしてこんなことになったのだろうか? と、アゲハは今日の一日を振り返ってみる。
★
下校途中のアゲハはふと空を見上げる。そこには十二月の真冬の夕空が広がっていた。
さらに遠くに目をやると、夕日を背にして大きな高い壁が黒々とそびえ立っている。それをみると、何故だかいつも胸騒ぎがした。本能的感覚がそれを怖いと言っている気がするのだ。
ぐるりと都市アンティーターを隙間なく囲み、その高さは一番高いビルの何倍もあった。そのため、その壁の厚さすら分からないのは何とも得体の知れない不気味さを漂わせているのだ。
家に帰ると、母はまだ仕事から帰ってきていなかった。
アゲハにとっては公務員である母の仕事については謎が多く、母自身についても謎が多かった。だが、彼女の仕事のお陰で、アンティーターの中枢部と呼ばれる区域にある高級住宅街に住むことが許されている。言わば彼女たちは上級市民というものだ。
母の職場をぐるりと囲むように、アゲハたちの住む街はあった。
≪オカエリナサイ、アゲハ。キョウノヨルハ、ユキガツモリマスヨ≫
居間のディスプレイに、可愛らしいテディベアのアバターが映る。そして、アバターの口の動きに合わせて、それは喋った。
「ベアちゃん、ただいま。今夜は積もりそう?」
アゲハは小さいころから、ベアちゃんと呼んでよく話しかけていた。可愛らしいクマのアバターだから、ベアちゃんである。バーチャルアシスタントだ。一家に最低一台が当たり前で、ここら辺では一台どころか何台も所有している家庭もある。
今日の天気、予定の管理、インターネット検索、留守電など、まるで秘書のように何でもこなしてくれる。
そして友達が少ない彼女にとっては、おしゃべり相手でもある。
≪ハイ。モチロン、ユキガッセンデキマスヨ≫
あはは! と彼女は笑った。去年、ヒイラギと久しぶりに雪が積もってはしゃいでいたのを見られていたようだ。
≪ニカイノマドノドコカガ、アイテイルヨウデス。ヘアノオンドガ、20℃マデサガッテイマス≫
そう言えば、部屋の温度がいつもより少し寒いのに彼女は気付いた。
「ひーちゃん窓開けっぱなしで出て行ったな」
妹のヒイラギの靴は無かった。だがベアちゃんの言う通り、たしかに二階の小窓が少しだけ開いてる気配がした。微かに風の音と、外の雑踏の気配がしたからだ。
一人でいるには無機質に感じる居間の床に、スクールバックを投げ捨てる。ドタッと大きな音が部屋に響き渡った。
アゲハは無音の虚しさを紛らわせるように、わざと大きな足音を立てながら、二階へ向かった。しかしここで、窓が開いていたのは妹の部屋ではなく、自分の部屋であることに気付く。
閉めて行ったけどな、と思いながらガチャリと戸を開ける。そして、足を一歩部屋に踏み入れた瞬間、アゲハは思わず動きを止めた。
ほんの一瞬だけ全身を電撃が走ったかのような、凄まじい痛みを感じたのだ。この刺し殺すような痛みは悪意の視線だ。
部屋に誰かがいる、そう確信した。刹那のことではあるが、射殺すような殺気が確かにそこにあった。そして、今もそれを隠し、息を潜めているのだ。
一秒、二秒という短い時間が永遠を予兆するかのように感じる。そしてその沈黙の中に、誰かいるのだろう。凍てつく悪意の痛みは嘘のように消えているが、その残穢ですら、ピリつく痛みを伴う。
まだ、居る……、アゲハはゴクリと息を呑んだ。
そしてここで、朧げな夕日の明あかりでは心許なく感じた彼女は、スイッチに手を伸ばした。
これが事の発端だった。
★
「休むために部屋を借りていただけだ。危害を加えるつもりはない」
もう一度、男がゆっくりと言った。ゆっくりと塞がれていた手が離れる。
窓が開いている。外から人の声が流れてくる。手が離れた瞬間大声を出せば……、そう思った時だった。
バチャッと手のひらサイズの透明な袋を目と鼻の先にちらつかせた。赤と透明の液体と共に何か入っている。暗くてよく何かわからず、じっと見つめる。ほんのりとホルムアルデヒドの匂いが鼻腔を突いた。
丸い、ブヨブヨしていて、ヌメヌメしている。その気味の悪い球体の正体に気付いた瞬間、ヒュッと喉を鳴らした。
「こうなりたくなかったらいうことを聞け。今後発していい言葉は『はい』か『わからない』のどちらかだけだ。いいな?」
中身は、人の目玉だった。白い硝子体の表面に毛細血管がヒビの様に走る。そして黒い部分は瞳だろうか。あまりの恐ろしさにがくがくと震えながら、コクコクと何度も頷いた。とっさに悲鳴を出さなかった自分の反応に、思わず安堵する。いや、正確には悲鳴すら出なかっただけであるが。
はい、と声に出した方がよかったのだろうか? 声が出ずに頷いてしまったが大丈夫だろうか? などと、どうでもよさそうな心配が彼女の頭をよぎる。
しかしそんな心配をよそに、男は続けた。
「お前、縫合ができるな?」
小さいころから、母に医学は叩き込まれていた。たくさん縫合の練習もした。3Dプリンターが壊れるくらい、人工皮膚を作ったのを覚えている。足りないのは、実践経験だけだと思っていたところだった。
蚊の鳴くような何とも情けない声で、はい、と答えた。
「やってみろ」
そう言うと、拘束を解き、アゲハを床に打ち捨てた。腰を打ち付けるゴツ、という鈍い音が虚しく響く。
鋭い目つきで床に転がった彼女を見下ろすと、服を捲ると腹の傷を見せた。刃物か何かで突き刺されたような刺傷しそうが出てくる。皮膚の深部まで到達しているようだ。
免許を持っていない人による医療行為は犯罪だ。しかも、とんでもない猟奇的な犯罪者が相手である。しかし、やらなければ目玉だけになってしまう。やむを得ない、と彼女は思った。
いや、本当にそうだろうか? アゲハはふと自分の気持ちに向き直った。
人の皮膚で、生体で、医療行為をやってみたかったのではないだろうか。なぜなら、医者になるのは諦めないといけなさそうだったからだ。母はアゲハが公務員として自分と同じ現場で働くことを望んでいたし、何といってもカーディアックシステムの職業判定では五段階中下から二段階目のD判定だったからだ。
腕まくりをすると、一つ深呼吸する。そして傷口と縫合糸、鉗子に消毒液を塗り、処置を始めた。
処置中、男はずっと痛みに顔を顰めていた。だが、処置が終わると、縫い終わった傷口を見て少し驚いているようだった。なかなかの出来だったからだろう。
「悪くないな」
そう言って、静かに男は立ち上がる。思わぬ言葉に、ハッとして目を見開く。
「お前は部屋に入った瞬間、俺の存在に気付いた。なぜだ」
小さいころから悪意が分かるからだった。アゲハは返答の仕方に困り、少し考えこんだ。
「悪意満ちた殺気でしょうか」
やがて、アゲハは重い口を開いて言った。これで伝わるだろうか、と思い、チラリと男を盗み見る。
「殺気だと?」
男は顔を顰めて聞き返してきた。アゲハはなんと説明したらいいか分からず、閉口する。
「俺が悪意や殺気を放っていた、と言いたいのか?」
もう一度聞き返した。ゆっくりと、一文字一文字を捻りだすように言うその様子は、ひどく驚いているようだった。
黙りこくっているアゲハを見下ろしながら、暫く返事を待っていたようだ。しかし、何か言おうと思ったが、うまく言葉にできなかった。はい、とだけ答える。
「まあ、いい」と言いながら、開け放たれた窓枠に足をかける。窓からこの部屋を出るつもりなのだろう。凍てつく夜の冷気が室内に雪が崩れ込む。
「アゲハ、また会うことにならなかったら良いがな――」
そう意味深な言葉を残すと夜闇に溶け込むようにして、彼は消えた。アゲハにはその真意が分からず、困惑した。
どうして私の名前を? と思いぞっとする。
彼が闇夜と同化したのと同時に、妹のヒイラギの声が玄関から聞こえてきた。
「ねえちゃん? 雪降ってるよ!!」
宵闇が広がっている。今宵はアンティーターに月は昇らない。アゲハはヒイラギの声に答えず、開け放たれた窓を見つめていた。まるで夢の中のいるような、何だか不思議な気分だった。
だが、男の血糊が、手に、そして制服にべったりとついていた。
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