第三話 優しい人だとは思います。

 目覚めると見慣れない天井に混乱する。桜色の布地には有職文様が織り込まれていて、赤い紐がアクセントになっていて可愛らしい……私の部屋は白い天井のはず。


 慌てて起き上がると、体に掛けてあったのは、美しい紋様が織り込まれた桜色の小袿。それを見てやっと自分の置かれた状況を思い出した。白い着物は若干緩んでいるだけで乱れはない。


 眠る直前に聞いた言葉を思い出して、顔が熱くなると同時に、露顕ところあらわしの儀と降格いう言葉が気になった。私を正式に嫁にしなければ、何が起きるというのか。


 御帳台から出て、櫃をあけると白い下着と着物、昨日とは違う桜色の小袿と爽やかなグリーンのグラデーションの五つ衣が入っていた。緋袴は無くていいのかと迷いつつ、袴で動ける気がしないので省略。


 着替えて塗籠から外に出ると、板張りの床の上で龍神とヨウゼンが狩衣を体に掛けて眠っていた。お酒を飲んでいたのか、白い瓶子へいしと酒杯、酒の肴が乗った高坏が二人の間に置かれている。


 起こしてしまっていいのか迷った挙句、何もすることを思いつかない私は、ふらりとひさしの外側をめぐる濡れ縁を歩き、池の上へ伸びる釣殿つりどのを目指して歩く。昨日は色を付けるだけで、ゆっくりと池を見ることができなかった。


 壁がなく柱だけの釣殿は、景色を楽しんで宴会をするには良い場所ではあっても、落ち着けない。板張りの廊下の下に広がる広い池を覗き込むと、巨大な鯉や種類がわからない魚がたくさん泳いでいるのが見えた。錦鯉のような美しさはなくても、泳ぐ様子を見ているだけで楽しい。


 池の中央の岩では亀が日光浴をしている。池を囲む庭は、青々とした緑と白い花々。そういえば建物ばかりで花に色を付けることはなかった。


 白い太陽の光を浴びてぼんやりとしていると、大きなナマズが水面から顔を出した。

『おぬしが龍神の嫁か』

 その口から飛び出したのは、重々しい男性の声。ひげを震わせる姿は滑稽でも、きちんと対応しなければいけない圧力を感じた。池の主とかそんなレベルじゃなく上位の神様かもしれない。姿勢を正してナマズと向き合う。


「……嫁ではありません」

『これは異なことを。……此度の新たな龍神は降格かのう』

「降格とはどういうことなのか教えていただけないでしょうか?」 


『ふむ。知らぬとな? よかろう教えてやろう。新たに神になる候補者は嫁を取ることで、その位を確定させる。故に嫁取りに失敗した者は神には成れず、その存在が不確定になって消失する。それが降格じゃ』

「消失?」

『人で言えば死ぬということかの。もっとも魂が霧散するから死よりも恐ろしいことじゃが』


 降格の意味を知って、血の気が引いた。出会ったばかりの龍神の嫁になることは心情的に無理だと思ってはいても、死ぬと言われればその責任は重すぎる。


「こ、降格しない為には、私はどうしたらいいのですか?」

『……嫁ではないのに、龍神を降格させたくないと言うか。これは面白い女だ』

 ナマズはひげを震わせながら、さもうれしそうな声を上げた。


『嫁を取った神は三夜を過ぎた朝に露顕ところあらわしの儀を行い、他の神々へと嫁を披露する。その際に正式な婚儀が行われているかどうかが判定される。その判定を攪乱する為にはおぬしが〝赫焉かくえんぎょく〟を持てばよい』


「その玉は、どこで手に入りますか?」

『ほほう。手に入れたいとな? ぎょくは白く清らかな花が抱いておるが、無数に咲く花の中から探し出す困難を乗り越えなければならぬ。嫁になった方が簡単であるぞ?』


「……それは……」

 無理。私は龍神のことを何も知らないし、この世界に留まる選択はできない。なにより元の世界に帰って推しに会いたい。

『まぁよい。おぬしの覚悟を見せてもらうとしよう』

 伸びあがったナマズの口から二センチ大の透明な玉が吐き出され、私の目の前の床に落ちた。


『それは花咲く場所へと移動する鍵となる。日が落ちた後、その鍵に問うがいい。…………どうした? 何故拾わぬ?』

「……え、えーっと……」

 とても大事な物とは理解していても、目の前で吐き出された物を拾うのは迷っても仕方ないと思う。


『失礼な奴じゃな。ほれ〝隠しの紙〟をやるからそれに包め』

 呆れるようなナマズの声と同時に、手元に白い懐紙が落ちてきた。折り重なった紙の一枚を取り、鍵を包む。


『それに包んでおけば、鍵の存在を龍神に察知はされぬ。誰にも言うなよ。おぬし一人で〝赫焉かくえんぎょく〟を探し出せ』

「はい。ありがとうございます」


『此度の新たな龍神は、消すには惜しい良い男だ。龍の角を折らせるなよ。おぬしの気が変わることを祈っておるぞ』

 そう言って笑ったナマズは、池の中へと消え去った。


      ◆


 美しい庭と池。花々には蝶が戯れて、小鳥が歌うようにさえずっている。そんなのどかな光景をのんびり眺めていられたのは三十分が限界。


「……何だろ……何もしないことがツライっ……!」

 思わず拳を握りしめ、こんな時スマホがあれば……と溜息を吐く。瞑想とか座禅とかそんな意識の高いことはできないし、そもそも興味がないからやり方も知らなかった。


 早く〝赫焉かくえんぎょく〟を探しに行きたいと思って、もらった鍵を見つめても何も起こらない。小さく溜息を吐いて、懐紙に包み直して胸元に入れる。


 魂が霧散する。それは死よりも恐ろしいことだと龍神は知っているのに、私の意思を尊重してくれている。……その笑顔を思い出すと胸が痛い。


 頭上から、かろやかな鈴の音が鳴り響いた。何かと思って天井を見ると、小さな鈴がブドウの房のように吊り下げられて鳴っている。


『響歌、おはよう』

 振り向くと龍神が微笑んでいた。

「おはようございます」

 立ち上がろうとして、衣を踏んでよろめいた私を龍神が抱き止めたのは一瞬。私が自力で立てるように支えた後は、さっと手を引いてしまった。あまりにも紳士的でパーフェクト。


「ありがとうございます」

 龍神の赤い瞳を見て、昨夜の話を思い出した。私の魂は、この瞳にどんな輝きを見せているのか知りたいと思う気持ちと恥ずかしさが入り混じる。


「……あの鈴には何か意味があるのですか?」

 迷いに迷ったものの結局当たり障りのない話題が口に上った。

『この釣殿に渡殿を使って近づく者がいると知らせる為の合図だ』

「庭から近づく人は?」

『屋敷は私とヨウゼンの霊力で護っている。敷地に入ってくる者はいないだろう』


 釣殿の鈴は侵入者を警戒して付けられたのではなく、単に人が来ると知らせる為の優雅な道具というだけだった。あのナマズが龍神にも察知されていないのなら、とても偉い神様の化身だったのかもしれない。


「あ、あの……ヨウゼンさんって、何者なんですか?」

 今ならヨウゼンは近くにいない。聞ける時に聞いておこう。

『龍族で私の幼馴染だ。……龍族でも龍神になれる者は限られている。正直に言えば、私が強力な霊力を授かったのはただの偶然でしかない』

 その寂しそうな表情からは、龍神にはなりたくなかったという感情が読み取れる。ヨウゼンを従者にするのではなく、対等な幼馴染の友達でいたかったのかもしれない。


『ただ、龍神になることで響歌に会えたことは嬉しいと思っている』

 その優しすぎる微笑みが、私の心に深く染込んでいくのを止めることはできなかった。


      ◆


 朝食の後、龍神は私を馬に乗せて屋敷の外へと連れ出した。龍神が手綱を握って座り、私はその前に乗せられた。人生初の乗馬は意外と快適で、空を飛ぶより遥かに安心。


 美しい花が咲く森を巡り、水晶の巨大な結晶が存在する岩場を見て回る。神様たちが住む異世界は、人間の世界とは全く違う景色が広がっていた。


 宝石のように輝く夕日を見た後、龍神は屋敷へと馬を向かわせた。


      ◆


 夜になり寝支度を整えた後、やはり私は独りで塗籠に残された。何故かヨウゼンは姿を見せず、寝殿内は静まり返っている。


 隠していた鍵――透明な玉をそっと取り出して、私は小声で問いかけた。

「〝赫焉かくえんぎょく〟はどこにありますか?」

 鍵の中央から金色の光が現れて私を包んだかと思うと、周囲の景色が一変した。


 暗い森に囲まれた草原で、チューリップに似た白い花がほのかに光りながら揺れている。何百本、何千本あるのかはわからない。


 ナマズは白い花が玉を抱いていると言っていた。意を決し、私は一つずつ花の中を覗き込んで探し始めた。


 長い時間、私は玉を探し続けていた。根気よく一輪ずつ確かめて、次の場所へと移るを繰り返し、半分を確認した所で朝の光を感じた。


 目印替わりに懐紙を裂いて作ったこよりを花の一つに結んだ所で、私は屋敷へと戻された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る