第十七話 すき焼きパーティ始めます。
私が借りている部屋は単身者用の1Kで、隣のシュゼンの部屋は家族用の2LDK。その隣のヨウゼンの部屋も2LDK。
このマンションには数種類の部屋があって、単身者用の部屋は全部塞がっているのに、家族用の部屋は空きだらけ。シュゼンとヨウゼンが、それぞれ一部屋ずつ借りたので大家さんは大喜びらしい。私が紹介したことになっていて、大量の桃を頂いてしまった。
仕事から帰った後、桃を剥いて持ってきたら、シュゼンは異世界に出掛けていた。何故かソファで転がっていた見た目は猫の麒麟が桃を食べている。
『ふむ。これは瑞々しい』
貢物をしたのだから、少しくらい撫でさせて欲しい。ちらりとタイミングを伺ってみても、猫としては鋭すぎる牙を見せつつニヤリと笑われると怯んでしまう。
「元の姿を取り戻したのに、神界に帰らないの?」
『何を言ってる。俺は龍神に呼ばれて来たばかりだ』
麒麟が指し示した壁には、シュゼンの庭の景色が映っている。整えられた庭木、広大な池には魚が泳いでいて、ちょっとした環境動画。
「あ、そうなんだ」
『おいこら。俺は龍神が留守の間、お前を守護する為にここにいてやってるんだ。敬え』
「え? 私を守護?」
『俺様はその場にいるだけで、その周囲を浄域とする神獣だぞ。悪意を持つ人間は近づけない』
そういってふんぞり返る猫様は可愛い。このもふもふを触らせてくれないのがツライ。
時間を見ると午後六時半。これは急いで夕食の支度をしなければと立ち上がる。今日は運良く午後五時の定時で上がれたので、スーパーにも余裕で寄れた。
先日の福袋をヨウゼンから買い取ろうとしたら、主君の嫁から金銭は受け取れないと福袋を献上されてしまった。仕方がないので週三回、三カ月間二人の夕食を作ることで返すことにしている。
シュゼンの部屋のキッチンは広くて、真新しい鍋やフライパンも一式揃っている。オーブンレンジと大きな冷蔵庫は一昨日までは無かった。私が夕食を作ると宣言した後に現れたので、少々後ろめたい。
『お前、料理が出来るのか』
「家庭料理くらいは出来るわよ。実家で作ってたし」
そうは言っても、レシピはスマホで確認済。キッチンボードにスマホを置いて、買い物袋から材料と調味料を取り出す。
お米を軽く研いで炊飯器にセット。お米は実家から半年に一度送られてくる。意外と高いパン食を回避して、ご飯中心メニューで食費を節約しながら推しに課金してきた日々がすでに懐かしい。
『ふむ。なかなか手慣れておるな。何を作るつもりだ?』
「まぁ、ずっと独り暮らししてたからねー。すき焼きよ」
麒麟はすき焼きを食べることはできるのだろうか。桃は平気で食べていたから、すき焼きもいけるかもしれない。ダメそうだったら、肉だけという手もあるか。
『すき焼き? それは美味いのか?』
「美味しいに決まってるじゃない! スーパーの福引で最高級ランクのすき焼き用和牛十人前が当たったの!」
買い物袋とは別の風呂敷包みを開くと、黒いお重が現れる。中にはすき焼き用の厚さに切られた和牛がトレイに並べられて詰められていた。
特賞を一発で引き当ててしまった衝撃は、今も妙な高揚感を残している。滅多に食べる事のできない最高級和牛が十人前で約二キロ。その重さは持ち帰る途中でも気にならなかった。
「本当はねー、違う物作ろうと思ってたの。これはまた後日かな」
福引は買い物した後に当ててしまったので、慌ててすき焼きの材料を買い足した。
すき焼きの準備は簡単。木綿豆腐や野菜を切って、白滝を軽く茹でると終了。私の部屋から持ってきた携帯焜炉をテーブルの上に置いて、二十八センチの大き目のフライパンをセット。土鍋は棚にあったけど、すき焼き鍋は流石に無かった。
『ほうほう。それで?』
「調理は皆がそろってから。そろそろ帰ってくるんじゃないかな」
時間は午後七時過ぎ。約束は午後八時だから、きっと間に合うように戻ってくるだろう。
炊飯器のアラーム音の直後、壁面のモニタが強く光ってシュゼンが現れた。短い黒髪に白いサマーニット。黒のチノパン。シンプルなありふれたデザインの服でも、カッコいい人が着ると何でもカッコいい。
「シュゼン、おかえりなさい」
「響歌、ただいま」
何気ない挨拶に、頬を少し赤くしてはにかむような笑顔が返ってきて心臓が撃ち抜かれた。待って待って。これではまるで、新婚夫婦。一気に顔が熱くなりかけて、心がぐらぐらと揺れる。いやいや、私は推し一筋の女。
『お帰りなさいのキス』という単語が頭に浮かんで、どうしようもなく頭が真っ白。頬が温度を上げているし、ふわふわとした甘い甘い雰囲気は気のせいではないと思う。
唐突にドアが勢いよく開いた。
「おーい。そろそろ飯かー? 酒買って来たぞー」
深緑色のTシャツに迷彩柄のカーゴパンツ姿のヨウゼンがスーパーのビニール袋を下げて入って来て、二人の間の甘い空気が瞬時に霧散した。
「き、今日は豪華にすき焼きパーティだから!」
危ない危ない。雰囲気に流されるところだった。ほっと安堵する気持ちと、ちょっぴり残念という気持ちを持て余しながら、私は二人に手を洗うようにと指示をした。
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