壊れる日々
俺の乗っている軽自動車は路面状況がダイレクトに伝わってくるせいで快適とは程遠い車だ。普段走る分には全然問題ないが、悪路になるとまあ酷いものだ。
揺れる木々、少し寒いがそよ風が心地よいのだろう。それだけ聞くとなかなかにロマンチックだが、荒れた地面のせいで台無しだ。
「悪いな、急な日程で」
「いえ、大丈夫です」
そう返答する美咲。俺が覚醒してから今日までの三日、そして退院してそのままここに来るまでの間彼女の笑顔を一回も見ていない。よほどあの事件が心に傷を残したのか、それとも別の要因があるのか。その両方かも知れない。
「美咲、その……大丈夫か?」
「大丈夫です。もう大丈夫ですから心配しないでください」
会話が続かない。今まではそれでも心地よいものだったが、今はただただ息苦しかった。話しかけてくれたり、一緒に寝たりはしているので嫌われているわけではないと思うが、それでも寂しかった。
ネックレスに触れる。クリスマスの時に買ったおそろいのネックレスだ。思えば、買ってからずっと身に着けている。美咲もこれを身に着けてくれている。大丈夫、ちゃんと繋がっている。
そう、不安だった。事件をきっかけに美咲が俺の傍からいなくなってしまうのが怖かった。
「俺も美咲も助かって良かったよ。これからも一緒に居れるって安心した」
返事はない。その沈黙が辛かった。目を離したら離れて行ってしまいそうだ。
そうして冷え切った車内に疲れ切ったころ、ようやく目的の別荘に到着した。降車し、篠原から預かった鍵を使ってドアを開けた。その後で車から大きいバッグを降ろして別荘に入る。
別荘は割と最近になって建造された建物だ。二階建てのおしゃれな木造建築で、三つの個室と十分な広さのリビング、ダイニングとキッチンは一体型だ。とはいえあまり使われていないらしいが。
構造としては、玄関から見て右側の部屋がダイニング、その奥がリビングで、左側に個室が三つ並んでいる。奥のほうにはトイレと風呂場があったはずだ。二階は娯楽設備が色々おかれた一つの部屋とシアタールームの二部屋で構成されていて、ダーツやビリヤードを楽しめる。
「ま、とりあえず部屋を決めて荷物を置こう。どこがいい?」
「どこでも大丈夫です。その、一緒に寝るので使わないと思います」
「それもそうだな。じゃあ、一番手前の部屋で寝ることにするよ。多分それが一番便利だと思うし」
一番手前の個室に入る。部屋の広さは六畳ほどで、左にベッド、右に空っぽの本棚が置かれている。机と椅子のセットも置かれていて、なかなかに使いやすい部屋だと思う。
部屋の隅に荷物を置く。大きなボストンバッグ一つに入っているのは着替えと美咲の勉強道具、それと日記帳だ。日記は美咲が風呂に入る直前に書いている。読んだことはないけれど、楽しそうに書いているので悪いことは書いていないと思う。
次に、ダイニングに移動してキッチンを確認する。ダイニングの景色は記憶と一致していて、四人が座って食事できる机と椅子、白いカーテンは日の光を透過して、妖精のスカートのように綺麗だ。
キッチンには三個組のガスコンロと流し、冷蔵庫に各種調理器具が揃っている。一見すればよく砥がれているようにも見える包丁は、おそらくまともに使われていないのだろう。他の器具も光り輝いている。
とはいえこれは仕方のないことだ。東堂組の連中は基本的に調理できない。だから調理担当が常に屋敷に居るわけだが、ローテの都合上彼らはここにはあまり来ないのだろう。
冷蔵庫の中を確認する。
「酷いですね、冷凍食品ばっかり。お米もないんですか」
後ろから覗き込んできた美咲がぼそりと呟くほどには酷かった。しかも揚げ物ばっかり。そりゃ普段ここを使う人たちは運動するだろうから問題ないかもしれないけど、俺たちはいわゆる堅気の人間だ。彼らほど激しい運動をしない。
「今から買い出しに――って、もうだいぶ日が暮れてきたな」
キッチンから外の風景を確認すると、朱色に染まった空を背景に木々が佇んでいた。葉の落ちた木々はそれだけで寂しさを覚えるが、夕焼けの木々はまた違った印象になる。
それは、圧倒的な存在感だ。どんな時でも折れることのない存在感。ずっとそこに居続けるのだろうと思わせてくれる生命力。
そこまで思って、今の美咲にはそれが無いことに気が付いた。今の美咲にあるのはか弱さ。吹けば消える小さな綿毛のような存在だ。だから怖い。美咲が消えてしまうのがあまりにも怖いんだ。
「何を馬鹿な……」
頭を押さえてその考えを追いやった。美咲は今ここにいる。居てくれる。今はそれでいい。
「仕方ない、今日はこれで我慢しよう。何にする?」
美咲は答えない。窓を見つめている――というよりもそれよりも遠い所を見ているように思う。
「美咲?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて……」
「ま、そんなときもあるさ。で、何にする?」
「じゃあ……この唐揚げをお願いします。その、初めて慎二さんに作ってもらった料理も鶏肉を使っていたので、ちょっと懐かしいなって思って」
「そういえばそうだったな。思えば初めて会った日からまだ一ヶ月ぐらいしかたってないのか」
あの時、いつ死んでもおかしくない美咲と出会った時から俺の生活は大きく変わった。
「ありがとうな、美咲」
意識の外から零れた、しかし本心からの言葉。呆気にとられる美咲の声が聞こえた。
「さ、ちょっと早いけど飯にしちまうか。腹が減った」
お皿に冷凍の唐揚げを乗せ、電子レンジに入れてスイッチを入れる。パックのご飯を用意したり、俺のハンバーグを用意したりしていると、唐揚げが出来上がった。パックのご飯を電子レンジに入れてスイッチを入れ、ハンバーグをお皿に乗せる。
待っている間に野菜ないかな、と野菜室を漁るものの、何もなかった。
「慎二さん、これとかどうですか?」
「これ? ああ、まあ確かに補えなくはないけどさ。仮にも大人が寝泊まりする、しかも常に誰かいる施設の備蓄が野菜じゃなくて野菜ジュースってどうなんだろうね」
美咲が見つけたものを見て苦笑する。野菜ジュースを差し出した美咲本人も苦笑気味なのがまた可笑しかった。
「ま、たまには良いか」
言いながら電子レンジ内のご飯とハンバーグを入れ替え、スイッチを入れる。楽だけど面白くない。
「さ、食うかね」
出来上がったハンバーグを持ってダイニングに移動し、椅子に座る。
「いただきます」
その日食べた晩飯は、少し味気なかった。
「あれ、まだ書いているのか?」
風呂上り。個室に戻ると、風呂に入る前から日記を書き続けている美咲がいた。いつもは割とサクッと書き上げるので、かなり珍しい例だと思う。
「書きたいこと、っていうよりも書かなくちゃいけないことがあるので……」
「書かなくちゃいけない事?」
「今はまだ、言えない事です」
そういう美咲の目は、何かを決意したような目をしていた。
──何か重大な事を見落としている気がする。取り返しのつかない事態になりかねない違和感。
「うん、これで良いかな……これで本当に……」
「美咲?」
「ううん、何でもないです」と日記帳を鞄に仕舞い、「眠たくなったので、わたしは寝ます。おやすみなさい」
と、早々にベッドに潜り込んでしまった。俺自身だいぶ疲れているせいでかなり眠く、続いてベッドに潜り込む。
直後、美咲が俺にしがみついてきた。それ自体は別に珍しいことではないが、その日はどこか様子が違っていた。震えていて、何かに恐れている様子だ。
「大丈夫か?」
「ごめんなさい……眠るまでこうしていていいですか……」
出会った時のような、尋常じゃないほどの怯え方だ。
「ああ。ずっといてやるから、安心しろ」
優しく頭を撫でてやる。
「やっぱり慎二さんは優しい人。だから……」
美咲が眠りにつく。
やっぱり怖いんだな、と思う。一度は逃げ出し、しかし見つかって連れ戻された。その時に受けた暴行は彼女に新たなトラウマを刻み込むのに十分すぎるほどの出来事だったのだろう。
だが、それだけじゃないような気がする。トラウマ以外に彼女が今抱えていること。それの正体を俺は探って良いのだろうか。
「急にいなくならないよな……」
不安が口を突いて出る。そんな事ありえない、と信じたいけれど、同時にそういう意味で今の彼女を信じてはいけないという直感もあった。
音が聞こえた。いつの間にか雨が降り出したようだ。音を聞くに、結構強いらしい。規則正しくなり続ける雨音を聞いているうちに、だんだん意識が深い所に沈んでいった。
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