看病と、未来の約束
「ただいま。って言っても誰もいないか」
美咲を抱っこして家に入る。彼女は先ほどから眠り込んでいるので、起こさないように車から降ろしたのだが、なかなかに大変だった。
そのまま自室に向かい、美咲を優しく床に寝かせる。本当はそのまま布団で寝かせたいのだが、さすがに片手で布団を敷くのは無理だ。こういう時、腕が四本あればいいのに、と思う。
肩にかけていた鞄を降ろし、手早く布団を敷いて美咲を移動させて掛け布団を掛ける。ようやくシートベルトや俺の腕に束縛されなくなったからなのか、ゆっくりと寝返りをして横を向いた。腕を顔の前に持ってきて、いつもの体制に移っている。
さて、どうしたものかと思う。さすがに同じ布団というわけにもいかないし、かといって別の部屋で寝ると監視ができない。
少し考えた結果、残っている元来客用の布団――今は美咲の部屋に置いてある――を持ってくることにした。
あとは食事だ。輝子が作るように連絡をしてくれるということだが、正直不安しかない。というか、輝子が飯を作っているところを見たことがない気がする。とはいえこんな事態だし、よっぽど変なのは作らないだろう。
「ん……ここは……慎二さん?」
「起きたか。体調はどうだ?」
「あ、はい。少しだけ、よくなりました」
確かに少しだけ顔色が良くなっている。それを見てホッとする。
「うん、ならいいんだ――そうだ、治ったらさどっか遊びに行こうか」
美咲の顔を見て、ポロリとそう言っていた。
「え?」
「だから、どこでもいいから遊びに行こうって言ってるんだ。今はどこにも行けない分さ、治ったら思いっきり遊ぶんだ」
「思いっきり……それは、楽しそうです」
と言って美咲は笑顔になる。
「だろ? どこに行きたい?」
「そうですね……じゃあ、プールに行きたいです。その、可愛い水着を着て」
「判った。約束だ」
小指を出す。弱弱しく美咲が小指を絡めてくる。
「約束です」
指が離れる。少し、寂しい。
「……なあ、何か食べたいものとか、飲みたいものとかないか?」
何か、話をしていたいという欲求に駆られてそう言った。
「……ゼリーが、食べたいです。オレンジの、甘くてちょっと酸っぱいゼリーが」
確か、年末に買っておいたゼリーが冷蔵庫にあったはずだ。果汁が多く、ナタデココの入ったちょっと良い――一個二百円弱程度だが――オレンジゼリーが。
「わかった。喉は乾いていないか?」
「ちょっとだけ……さっきのって――いえ、何でもないです」
「さっきの? ――ああ、スポーツドリンクか。冷蔵庫にあったはずだから。すぐに用意するよ。だから、ちょっとだけ待っててな」
頭に優しく手を乗せてから立ち上がる。
「約束する。二分で戻ってくる、と」
部屋を出る。キッチンに移動して、冷蔵庫を開ける。常備してあるスポーツドリンクとオレンジゼリーを取り出し、コップとスプーンを持って部屋に戻る。
「はい、ゆっくり食えよ」
ゼリーの蓋を開けて、美咲に渡す。
「ありがとうございます……」
ゆっくりとゼリーを掬い、口に運ぶのを見守る。
「ん……美味しい。コリコリしてて、けど食べやすくって」
「そっか。なら良かった」
少しの間、
その静謐を破ったのは、ガラリと玄関があく音だった。小走りで走る音が聞こえる。
「美咲ちゃん、大丈夫!?」
「あ、輝子さん。大丈夫です、たぶん」
「良かった……あんまり顔色は良くないけど、とりあえず安心したわ」
部屋に駆け込んだ輝子が、安堵の表情を見せる。それは良いのだが、仮にも病人がいる部屋に駆け込むのはどうなのかと思う。けど、それだけ心配していたという事なのだろう。
「っと、いろいろ買ってきたから確認してもらってもいい?」
白いレジ袋が二つ、俺の横に置かれる。レジ袋特有の音が耳障りだ。
「助かるよ」
中身を確認しながら礼を言う。冷却シートや解熱剤にマスクといった物と、スポーツドリンクやゼリー、冷凍うどんなどの食品類だ。
解熱剤を見て思い出した。
「ゼリーを食べたら薬を飲まないとな。ちょっと苦いかもだけど、楽になるからさ」
鞄から病院の白い紙袋を取り出す。咳止めのシロップと粉薬。俺はどちらも大嫌いな代物だ。特にオレンジ色のシロップは、今になっても飲み込めない。前回インフルエンザを発症した時は結局飲まずに治したはずだ。
「悪い、コップを持ってきてくれないか?」
「わかった。二個でいいよね?」
「ああ」
輝子が部屋を出る。キッチンの扉が開く音を聞きながら、薬を用意する。
キッチンは目と鼻の先という事もあり、すぐに輝子が戻ってくる。
「はい、これ」
二つのコップが手渡される。一個のコップには水が入れられていて、もう一つは空だった。水の入ったコップを美咲に渡し、空のコップを脇に置く。若干透ける白い袋に入れられた一回分の粉薬を取り出した。
「一口だけ飲んで、それから水を口に含む。で、飲まないように気を付けながら上を向いてくれたら、俺がそこに薬を流し込むから飲み込むんだ。できるか?」
「はい、多分できます」
返事の後美咲が水を飲む。口に水を含んで上を向き、開けられた口に薬を流し込む。赤い顔で口を開ける美咲が、なんだかとても――。
バカ、何を考えているんだ。自分を叱責する。俺は美咲を守る立場にあって、そんな感情を抱いちゃいけないはずなのに、色っぽいなどと。まして、彼女は今病気だってのに。
「どうかしたんですか?」
薬を飲みこんだ美咲が、俺の顔を覗き込んで聞いてくる。純粋な表情だ。罪悪感で死にたくなってくる。
「あ、いや。何でもない」
誤魔化してもう一つのコップにシロップ薬を注ぐ。手元が震えるのは、きっと自己嫌悪に陥っているからなのだろう。
空になったコップを美咲から受け取る。そうしながら、呼吸をゆったりと、深く吸い込むことに集中する。そうすれば、少しずつだけど震えが収まってくれた。
「はい、これ。マズいけど、頑張ってくれ」
コップを渡す。
「あの……多分逆だと思うんですけど」
手元を見てみると、空になったコップを渡してしまっていた。
「え? あっ、ごめん。気が動転してるのかな、俺」
美咲とコップを交換する。コップを受け取った美咲は、恐る恐る口を付け、顔をしかめた。
「鼻を摘まんでみると、もしかしたら飲めるかも知れないよ」
輝子が助け舟を出す。彼女の言う通りに美咲が飲むと、途中何度かストップしたものの、最後まで飲むことができた。
「二度と……飲みたくないです……」
「気持ちはわかるけどな。さ、薬を飲んだなら寝な」
「はい。おやすみなさい」
「ああ、いい夢を」
美咲が眠っている間に、余っている布団を部屋に運び込んだ。
「けど、大変ね。まるで呪い」
「そうだな。何とかしてやりたいものだ」
けれど、それは俺になんとかできる問題じゃない。病気という病に勝つことができるのは、蝕まれている肉体の持ち主だけで、第三者ができることは手助けだけだ。
だから、俺にはそれ以上のことはできない。最終的には美咲の精神力――生きたいという意思が、決め手となるだろう。
「苦しそうね。いっそ私が変わってあげたいぐらい。そしたら、ここに来ないだけで済むのに……」
「同意するけどな。けど、運命は変えられない。美咲の運命はこれだった。嘆くよりも彼女を助けるためにどうするかを考えよう」
「そうだね。とりあえず慎二は美咲ちゃんのそばにいてあげて。ご飯作ったりは私がするから」
「できるのか?」
「できるよ、多分」
その物言いにいささかの不安を感じるが、彼女が自信たっぷりに言うものだから、とりあえずやらせてみることにした。
「家事をする人は代わりがいても、美咲ちゃんに寄り添うことができる人は慎二しかいない。だから任せたよ」
「ああ、わかっている」
俺しかいない、という言葉の意味。代用の効かない者。たとえそれがコンビニのアルバイトとかなら誰かが代わりを務めることもできる。
けれど、誰かの心の支えになってやれる人間は誰かが代わりを務めることはできない。それはきっと誰もが持っている役割で、美咲にとってその役割を務めてくれる人間は俺だ、と輝子は言いたいらしい。
「じゃあわたしはご飯作ってくるね」
「ああ。失敗するなよ? 鍋とかの場所は知っているか?」
「大丈夫。いっつも見ているから完璧!」
「ならいい」
結論から言えば、輝子の料理はいたって普通だった。薄味なのは美咲が食べやすいように、という配慮なのだろう。
「その、思ったより美味しかったです。ありがとうございます」
「でしょ? 送られてきたレシピ通りにやってみたんだけど、意外と簡単ね」
「簡単? どんなレシピが送られてきたんだ」
「これなんだけど」
輝子がスマートフォンの画面を見せてくる。受け取って確認すると、実にわかりやすく纏められたお粥のレシピ。というよりもマニュアルだ。ファミリーレストランチェーンのレシピでもここまで細分化されていないと思う。
それでもある程度アバウトに作っても問題ないように練りに練られたレシピ。正直言って芸術的ですらある。おまけに基礎をマスターできるようにも出来ている。
「確かにこれなら素人でも上手にできる。けどこれはあくまでも初心者向けのレシピだから、ほとんどのレシピがこれとは比較にならないぐらい難しいぞ」
「そうなの? けど、料理ってなかなか面白いのね」
「そうだな」
そう、料理は面白いのだ。一つ一つの基礎を組み合わせて応用していく工程や、それらの要素がうまくハマってくれた時の喜び。それに何よりもそれを食べてくれた人の笑顔が嬉しい。俺はそれこそ料理の面白さだと思っている。
「これを機に勉強してみたらどうだ?」
「それもいいかもね。ちょっと家の厨房担当に教えてもらおうかな」
それは厨房担当が少し可哀そうになってくる。想像してみればわかるが、組長の一人娘が料理を教えてくれ、なんてそれこそ失敗が許されない状況なわけで。
輝子は気にしないだろうけれど、厨房担当からしてみればそれは相当恐ろしい状況なんじゃないだろうか。けど輝子が料理をマスターしてくれるとこういう時に助かるんで止めないが。
「そりゃ楽しみだ。なあ、美咲」
「はい、楽しみです。期待していますね」
「お姉さんにまっかせなさい!」
自信ありげに胸を張る輝子。けど、出来なければ意味がないという事を彼女は理解しているのだろうか。とはいえしっかりと学べば誰でも出来るようになることだとは思うので問題ないと信じたい。
「くぁ……」
「眠たいの、美咲ちゃん?」
「はい。お腹いっぱいになったら、なんだか眠く……ちょっとだけ、寝ますね……」
布団に横になり、寝息を立て始める美咲。やはり体力の消耗が著しいのだろう。
「っと、私もそろそろ帰るね。晩御飯の分は鍋の中にあるから」
「ああ、助かったよ。美咲をほったらかしにして飯を作るわけにもいかないだろ? だから本当に助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、また明日くるから」
輝子が手をヒラヒラと振って部屋を出る。
眠っている美咲の横に置いてある茶碗を片付けようと手に取る。そして輝子に流しまで持って行ってもらえば良かったかなと少し反省した。とはいえそこまで甘えるわけにもいかないだろう。
「悪い、ちょっとだけ行ってくるわ」
寝ている美咲に謝って立ち上がった。
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