知らないベッド
闇の底にいる。ここは天国か煉獄か地獄か──そのどれとも違う。それらは良き行いをした魂を祝福したり、あるいは悪き行いをした魂を罰したりする場所で、こんな何もない空間ではない。
では冥界か、と問われればそれも違うと考えられる。イシュタルの冥界下りによる描写では、冥界には七つの門があるとされている。つまり、こんな何もない空間ではない。
死後の世界はそのどれにも該当しないのだろうか。強いて言語に直すのならば「無」だろう。音も、光も、時間の流れも、この肉体さえも存在しないのであれば、そう定義するのが正解だと思う。
しかし、人間が思考するためには脳が必要で、それが機能するためには生命活動が絶対条件だ。
俺は神話は好きだが、スピリチュアル的な魂という存在は信じていない。魂とは積み重ねた人生の中で発生するナニカにこそ現れるものだからだ。つまり、死してなお魂が朽ちていない、という理屈は成り立たない。
じゃあ、俺は生きているのか。だとしたらここは――ああ、そうか。ここは俺の精神だ。唐突にそう理解した。けど、それがこんなに暗闇で寂しい場所だなんてありえない。昔の俺なら、常に何処かに孤独を抱えていた俺ならともかく、今の俺には心を許せる家族がいる。美咲のおかげで本心から笑顔になれた。
そう思うと、やっぱりまだ死にたくない。美咲や輝子ともっと生きていたい。
「ごめんなさい……わたしが居たから……」
音のない世界に、美咲の声が入ってくる。
そうだ。俺はこんな所で眠っていていい人間じゃない。早く起きて、美咲のいる場所へ戻らないと――。
ゆっくりと、消えていた意識が浮上する。瞼を開けると、眼球を貫かんと攻め込んでくる太陽の光に襲われた。とっさに腕で日差しを遮った。
「ごめんなさい……全部わたしが……」
日差しとは反対側から美咲の声が聞こえてくる。
日の光に目が慣れて、部屋の様子を確認する。白くて清潔感のある部屋だ。左側に窓、日差しはそこから差し込んでいる。
右側には美咲、丸い椅子に座って俯いている。ただ、俺自身が寝かされているおかげで顔が見えた。それと色々なケーブルが俺の全身に繋がれているのが見えた。横にディスプレイと点滴の袋が見えることから、おそらくは心拍数の計測や栄養の投与が行われているのだろう。
そこまで確認してから、美咲の表情を見る。美咲の目は尋常じゃないほど赤く充血していて、ずっと泣き続けていたのだろうと推測できた。その表情は自分の罪を責め続ける罪人のようだ。ずっと謝罪の言葉を呟き続けている。
美咲には泣き顔より笑顔のほうが似合う。それに、彼女が泣くのは見たくない。
「美咲……」
うまく発声できないが、とりあえず名前を呼び、上体を起こしてから左手を彼女の頭の上に乗せた。
「慎二、さん?」
「……おはよう、美咲。心配かけて悪かった」
言葉の出し方を思い出すように、母音と子音を大切にして発音していく。
美咲の目から涙が洪水のように零れ始めた。直後、俺の身体がベッドに押し付けられた。美咲の体の柔らかさと、ベッドの柔らかさが俺を包む。
「良かった……もう、目覚めないんじゃないかってみんな言ってて、本当に目覚めなかったらって不安で、謝んなくちゃいけないのに、それも出来なくて……何よりも、慎二さんが死んじゃうのが嫌で……」
言葉に詰まりながらも、その心情を吐露する美咲。それ以降は言語にならない言葉、何を言っているのかはっきりと聞き取れないが、それでも彼女が俺の身を案じてくれているのは伝わってきた。
「……でも、生きていてくれて良かったです」
「そうだな。でも、俺一人だったら戻ってこれなかった。死の淵に立っているとき、美咲の声が聞こえたんだ。だから戻らないと、と思った。美咲は俺の恩人だな」
「恩人だなんて、そんな……でも、慎二さんが助けに来てくれた時、すごく嬉しかったんです。あの時、地獄に居たわたしを助けに来てくれたのはやっぱり慎二さんで、だからこそ辛いんです。わたしのせいで貴方が……ごめんなさい」
「悪いのは美咲じゃない。それに、生きているんだから俺は平気だ」
だから、もう泣くなと涙を拭ってやる。涙は冷たく、それとは対照的に美咲の体温は温かかった。
病室のドアが開けられる。入ってきたのは篠原だ。脇にカルテと思われる書類を抱えている。
「ん、目が覚めたか。精神力の勝利、というわけだな」
「冥界下りは失敗、現世に未練たらたらだったっていうところですかね」
「冥界下り? 地獄巡りではなく?」
「ダンテですか。そもそも地獄とは――いえ、今はそれよりも別の事をですかね」
篠原がカルテに目を落とす。
「慎二は運がいい。包丁は内臓を外れていたからね。ただ、それでもやっぱり命の危機だったわけだが。出血多量で死ぬ直前だったが、輸血が間に合ったけど、意識は戻らずじまいで、ずっと生死を彷徨っていた」
「どれぐらいですか?」
「四日間。運び込まれて手術をしてから四日間眠りこけていた。随分とお寝坊さんだな」
別に寝ていたわけではないのだが、とはいえ彼の言うことも最もだ。随分寝坊して、美咲を不安にさせてしまった。
「それから、こればっかりはどうしようもないんだが……」
と篠原は真四角の鏡を俺に見せてきた。
「ああ、これはどうしようもないな……」
頬には大きな傷が一つ。おそらく縫合されていたのだろう。抜糸した跡が残っていた。
だが、問題はそれではない。だいぶ深くまで切られたらしく、跡がはっきりと見えていた。
「目立たなくはなるだろうけど、完全には消えない。ま、勲章だと思って諦めてくれ。そうそう、美咲ちゃんはずっとお前の看病をしていた。もしかしたら碌に寝ていないのかもしれない――と、安心したらしいな」
なんで、と思って美咲に目を落とすと、俺を抱きしめたまま眠ってしまっていた。安堵の表情を浮かべ、幸せそうに眠っている。
「しかしこれじゃ精密検査できないな。本当は覚醒後すぐにやりたかったんだが、止む無しか」
残念そうに篠原が苦笑する。
「そうだ、お前こんなのいつ手に入れたんだ」
篠原が白衣のポケットから美咲の母子手帳を取り出した。
「保護者欄すら書いていない。産まれた日は書かれていたけど、多分見かねた第三者が書き足したもの、というかこの筆跡はおそらく担当した医者のものだな。見覚えがある」
パラパラとページを捲る。確かにほとんど何も書かれていない。表紙の子供の氏名も書かれていないし、写真を貼り付けるページに写真が貼り付けられているわけでもない。「はい」「いいえ」で書き込む質疑応答のページにも何も記入されておらず、ワクチン接種欄は枠組みだけがある状態だ。
率直に言ってひどい。母子手帳は母親や子供の体調管理や子供の成長を記録するだけにとどまらず、それの扱い如何で愛情が判るものだ。それをここまでおざなりにしているとは思わなかった。
「ペン、貸してもらえますか?」
「ん? ああ、構わんぞ」
篠原からペンを受け取る。表紙に書きこんでいく。子の氏名の欄に桐山美咲、その上、ふりがなの欄にきりやまみさきと書き込み、一ページ目の保護者の欄、空いている三番目の箇所に桐山慎二と書き込んだ。
「それは君から彼女に渡すべきだな。家族として」
手帳を見つめる。美咲の名が記されたそれは、俺が彼女の保護者であるという証明書に変化していた。元の親の名前は記されていないが、記す必要性すらないだろう。
宮本夫妻の事で思い出した。
「そういえば、美咲の両親はどうなったんですか?」
「龍さんに預けて、つい昨日遠くの地に飛ばされたよ。そっちでは強制労働に従事させられるらしい。あそこはある意味で監獄だ。一生出てくることは叶わんよ」
不思議な気持ちだ。確かに彼らは悪人だが、しかし同時に確かに生きている人間なのだ。自業自得とはいえ、あまりに辛い処分だ。
「同情はするなよ」
「そうですね……理由はどうあれ、美咲を傷つけた奴らですから、同情は――」
しない、とは言い切れない。礼二は勘違いを正してくれる人が、美津江は対等に接し、理解してくれる人が居なかったからそうなった。すべてが終わった今、冷静になってみると一概に彼らだけが悪いというわけではないだろう。もちろん彼らが美咲にした事は許されることではないが。
「閑話休題、精密検査が出来ないから君の自己申告になるが、体調を聞かせてくれ」
「問題は特にないですかね。ちょっと痛いぐらいで」
意識を自分の体に向けながら答える。刺された腹部と右の頬が少し痛むが、それだけだ。後は、
「腹が減った、ですかね」
「ソイツは結構。すぐ用意させよう」
ありがたい。ありがたいが、同時に不安だ。基本的に病院の食事は薄味という印象があるからだ。よく言えば健康的、悪く言えば不味い。
ただし、薄味イコール不味い、と直結させるのは良くない。繊細な味付けは大概薄味だ。親父に連れられて食いに行った高級料亭の味を思い出した。薄味だがしかし非常に美味しく、驚かされたものだ。
「っと、忘れてた。龍さんからの伝言。家の鍵がピッキングのせいでダメになっていたから新しいヤツを取り付けるんだけど、扉自体が古いから取り付けられる鍵がなかったって」
「それじゃあ盗みに入ってくださいと言ってるようなもんじゃないですか」
「そうなんだよ。だから扉自体の取り換え工事を今やってる。もちろん君のお父さんに許可は貰っている。ただ、その工事に結構時間がかかるらしく、あと一週間は終わらない」
それは困った。退院した後の住処を考えなくちゃいけない。とはいえいきなりホテル暮らしをするほどの金はないし、輝子の実家は単純に委縮してしまう。実家にでも帰ろうかと思っていると、
「で、それまでの間東堂組で使っている山奥の別荘を貸してやるとの事だ。もちろんこれにはしっかりとした理由があってな。美咲ちゃんのメンタルケアも兼ねている。今の彼女に必要なのは静かで安心できる環境だ」
その別荘自体は何度かお邪魔したことがある。山奥にある小さな別荘で、ローテを組んで定期的に誰かが泊まり込んでいる。ちなみに目的は慰安――すなわち羽を伸ばしてリフレッシュしてもらう、というものだ。
「わかりました。ありがたくお借りします」
「よし。検査に問題が無ければ退院は二日後だ。それまではここでゆっくりしていきな」
「ええ、ありがとうございます」
篠原が退室する。その姿を見送ってから、外に目を向けた。寝転がっているせいでうまく見えないが、いつもの街並みだった。
街はいつもと同じように動いているのだろう。俺という歯車が欠けた程度ではその動きを乱すことは無い。それが少し寂しく感じられた。そして今から一週間かあるいはそれ以上の間、俺は歯車に戻れない。
けど、たまにはそれも良いかと思って眺め続けた。
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