病という異変

 窓からさし染める白い光で目を覚ますと、やけに寒さを感じた。何か、大切なものが欠けているような気がする。

 喪失感があるということは、いつもの部屋じゃないからというわけでもない。得体の知れない寒気と喪失感に不安になる。

 半ば無意識に美咲を抱き寄せようとして、すべての謎が解決した。


「美咲?」


 いつもは横に寝ているはずの美咲がいない。トイレにでも行ったのだろうか。体を起こしてベッドから降りる。

 慣れない環境で凝り固まった肩を数回回し、筋肉をいい具合にほぐしてから、俺もトイレに行こうと部屋を出た。

 直後、視界に入ってきた者を見て心臓が止まりそうになった。


「美咲? 美咲!」


 廊下に倒れている美咲に駆け寄る。何故廊下で倒れているのか、何があったのか、どうしてこうなったのか、思考がぐちゃぐちゃになって何も考えられない。


「美咲! おい、大丈夫か!」


 美咲の上半身を起こすと、服越しでもその体が熱いのが判った。額に手を当てると、火傷しそうなほどの高温。そのせいだろう。美咲の表情は苦しげで、赤い顔なのに生気を感じられなかった。

 風邪か、と思ったがそれにしても体温が高すぎる。最悪の事態すら脳裏によぎった。

 そんなのはいやだ。美咲には生きていてほしい。生きて、幸せになってほしい。


「どうした!?」


 麗子が走ってくる。


「麗子、丁度よかった。体温計を持ってきてもらっていいか?」

「あ、ああ。風邪か?」

「いや、それ以上だ。マスクもついでに頼む。それと、俺たち以外が近づかないように頼む。感染する病気だといけないからな」

「ああ、わかってる。すぐ持ってくるから、お前は美咲をベッドに寝かせとけ」


  麗子が去っていく。心なしか駆け足に見え、それがいまはずいぶんと頼もしかった。


「弱気になってる場合じゃないよな」


 声に出して気合を入れる。そう、今弱気になってどうする。美咲を助けるために、やれることをやるだけだ。

 美咲を抱きかかえる――軽い。確かに最初あったときと比べれば重くなったが、それにしても軽すぎる。この軽い体で今美咲は戦っている。なら、俺は彼女が病に勝てるように手助けをするだけだ。

 部屋に入ってベッドに美咲を寝かせる。掛け布団を体にかぶせてやると、少しだけ穏やかな表情になった、それを見てホッとした。

 ――生きている。美咲はまだ、死んでいない。手を握ると、その事が実感できた。

 ゆっくりと、美咲の目が開かれる。


「ごめんなさい……すぐ起きますから……」


 呟くように、か細い声で美咲がとんでもないことを言い出した。今の美咲が起きることを容認するわけにはいかない。


「起きなくていい。てか寝てろ」


 体を起こそうとする美咲の体を、半ば強引に寝かしつける。


「体調はどうだ?」

「問題ないです……健康です」


 せき込みながら弱弱しく答える。無理をしているのがバレバレで、余計に心配してしまう。

 呆れた。病人がなんでそんなに気を使わなきゃいけないんだ。


「あのな、健康っていうのは熱出してせき込んでる人間が自称するものじゃない。誰の目から見ても病気なのは明らかなんだから、はっきりと症状を言いな」

「ごめんなさい……のどが変な感じで、体が熱いです。それと、息が苦しい……」

「ただの風邪ってわけじゃなさそうだな。とりあえず安静にするべきだな」


 ドアがノックされる。ワンテンポ遅れて声が聞こえた。


「慎二、居るか?」

「ああ、今行く。ちょっとだけ待っててくれ」


 美咲の頭を軽く撫でて部屋を出る。部屋の外で待っていたのは心配そうな表情を隠そうともしない麗子だった。両手には色々な物を持っている。

 その中から透明な袋に包まれた白いマスクを手に取って身に着ける。わずかな息苦しさを感じるが、すぐに慣れる苦しさなので無視する。


「美咲は?」


 わずかに震える声で麗子が聞く。その声が何を意味しているのか、俺でも理解できる。不安なのだろう。知り合ったばかりの少女が苦しんでいる。万が一という最悪の可能性に怯えているのだろう。


「とりあえず目は覚ました。けど、相当消耗していると思う」

「大丈夫そうか?」

「まだわからない。美咲と接触する人間は最低限にしたいから、この部屋に誰も近づかないようにしてくれ」

「分かった。荷物はどうすればいい?」

「俺が受け取るよ」腕に物を載せれるように組み、「ここに頼む」


 ひんやりとしたスポーツドリンクと、角ばった冷却シートの箱、やわらかいタオルや滑らかなケースに入れられたピンクの体温計の重さを感じながら受け取る。


「言われてない物も持ってきた。必要だろ?」

「ああ、助かるよ。恥ずかしい話だがだいぶ動揺しているみたいだ。色々と必要な物があるはずなのに、それを頼み忘れていた。もう一つ頼んでいいか?」

「構わねぇが」

「うどんを用意してやってほしい。味付けは薄目で、栄養価の高い具を入れたやつ」

「任せろ。だからお前は早く戻ってやれ」


 ありがとう、と礼を言って部屋に戻る。肘を器用に使ってノブを回す光景は、はたから見ればマリオネットの動きに似ているだろう。

 部屋に入ってすぐ、受け取った物を机の上に置いた。結構乱暴だった気もするけれど、そんなことを深く気にする余裕なんてなかった。

 美咲に体温計を渡す。


「はい、これ。とりあえず、熱を測れ。ボタンを押してわきに挟むだけだからな――と、悪い、後ろを向いているから終わったら教えてくれ」


 美咲から目を離し、机の上に散らばった物を整理する。冷却シートを箱から出して、マスクを用意。スポーツドリンクの蓋を開けると同時に機械的な音が鳴り響いた。


「あ、あの。終わりました」

「ん、どれどれ」


 美咲から体温計を受け取って確認する。三十八・九。完全な高熱だ。美咲の表情も先ほどより苦しそうだ。

 赤い顔、虚ろな瞳。病人特有の生気が欠けた雰囲気。ただでさえ小さな美咲が、そこに存在しているのか不安になるほどちっぽけに見える。


「とりあえず、これ。のどを保湿してくれるから、わずかだけど楽になるはず」


 マスクを渡す。美咲がそれを着用する間に、冷却シートを用意する。


「ちょっと冷たいけど、我慢できるか?」


 小さく頷いた美咲の額に冷却シートを貼り付ける。


「ん……ひんやりとしてて、気持ちいいです……」

「ならよかった。食欲はあるか?」

「あんまり……今は何も食べる気になれないです……ごめんなさい」

「なんで謝るんだ?」


 できるだけ優しく問いかける。


「だって、いつも迷惑かけてるのに、こんな……」

「迷惑じゃない」

「え?」

「美咲がいることで、俺の日々は変わった。いい意味でな。美咲と一緒に居るのが楽しいんだ、俺。それに、病気になるってのは生き物全部に共通する問題なんだから、負い目に感じることなんてない。むしろ謝らなきゃいけないのは俺だ」


 それは、冷静に考えればわかる事。そんな簡単なことにも気が付けなかった自分が嫌になる。


「美咲の体が弱っているのなら、出かけるときにマスクぐらいさせるべきだった。そうすれば美咲が病気になることも無かったかもしれない」

「そんな、慎二さんのせいじゃ」

「いや、俺にも責任があるのは確かだ、少なからずな」


 そうだ、大本をたどれば俺のせいだ。罪悪感で押しつぶれそうになってしまうのも仕方がないだろう。美咲を守ると言っておきながら、そんな単純なことにも気が付けなかった。


「ごめんな……」


 意識の外から言葉が漏れる。どれだけ悔いてもこの罪は消えない。

 美咲の前髪をかきあげて額に触れる。汗でぐっしょりと濡れている。机の上からタオルを取って額をぬぐってやり、スポーツドリンクを渡す。


「喉乾いただろ、ほら」

「ありがとうございます」と美咲が受け取ったドリンクに口をつけ、そのまま勢いよく飲み干した。「美味しい……」


 体が多量の水分を求めていたのだろう。無理もない。砂漠の中で得た僅かな水を大切に飲むことができないように、美咲はペットボトル一本分のスポーツドリンクを瞬時に取り込んだ。


「美咲、何か欲しいものとかあるか?」

「えっと……今は大丈夫です……けど、傍にいて欲しいです……」

「ああ」


 優しく手を握ってやる。小さな手だ。それでも、確かに生きていると実感できる手だった。

 と、突然ドアがノックされた。


「慎二、頼まれてたもの持ってきた」

「ああ、今行く。悪い、ちょっと取ってくる」


 部屋を出る。お盆に乗ったうどんの丼を麗子から受け取って礼を言い、部屋に戻る。


「それはなんですか?」

「お前の朝飯だ。薄味にしてもらったから食べやすいし、食わないと治りが遅くなっちまう」

「でも、あまり食欲が……」


 薄い味付けだが、ダシの匂いがしっかりと漂ってくる。そのおかげだろうか、くぅ、と可愛らしい音が美咲から聞こえてくる。美咲が恥ずかしそうに顔をそらす。


「ほら、体は飯を欲しているんだ。食べれる分だけでいいから食べとけ」


 と美咲にうどんの丼を渡す。


「いただきます……」と美咲がうどんを啜り「美味しい、優しい味がする……」

「食べれそうか?」

「はい、これなら全部食べられそうです」

「よかった。それを食べたらもう一度寝な」

「わかりました」


 その会話を最後に、部屋には美咲がうどんを啜る音だけが響くようになった。

 ゆっくりとした時間、世界が静止したかのような錯覚を覚えるほど穏やかで心地よい時間。

 けれども、それは俺だけが感じている時間だ。美咲の視点からみれば、病に侵されている時間は、一刻も早く終わって欲しいはずだ。

 カチ、カチ、カチと壁掛け時計の音が鳴り響く。普段は気にも留めないほどの小さな音が、今はやけに大きく聞こえる。


「ごちそうさまでした。美味しかったです」


 やがて、美咲が食事を終える。食器を受け取って机に置き、寝かしつける。


「多分そんなに長いこと眠れないと思うけど、病気の時はそういうもんだ。俺がそうだったからな」


 美咲に掛け布団を掛ける。と、不安そうな美咲の表情が目に入った。


「どうした?」

「慎二さん……わたし、死んじゃうんでしょうか……死にたくないな……」

「大丈夫だよ。美咲に生きたいって強い意志があるんだ。俺も死ぬ気で看病するし、絶対治る。一緒に頑張ろう」

「うん、わたし……頑張り……ま――」


 す、の音は発音されなかった。代わりに聞こえてきたのは、穏やかな寝息。安心しきった音だった。


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