慎二の両親

「なるほどな……惨い話だ」


 重苦しい、重力が何倍にも増したようにも錯覚する空間で、真っ先に言葉を紡いだのはまたしても親父だった。


「しかし、慎二と出会ったのは幸運だったな。親バカと言われるかもしれんが、こいつは優しい子、困っている誰かのために行動できる奴だ」

 そうもはっきりと褒められると恥ずかしさが表に出てくるわけだ。顔が赤くなる自覚が生まれ、それを皮切りに空気が少しだけ緩んだ。

 ちなみに、彼女の体の傷痕や目のことは話していない。というよりも話せるわけがないといったほうが正確だろう。彼女にとって親父は、まだそこまでの信頼を置ける人間じゃないだろうと思ったから。

 それに、あれは彼女自身が良いと言わなければ、たとえ輝子相手だとしても話せないだろう。


「慎二さんは……普通の生活を教えてくれました。幸せを教えてくれました。わたしを――地獄の底から救い出してくれました」


 噛み締めるように、少しずつ言葉を漏らす美咲。普通の生活を、幸せ――得たものを確かめるように。


「そうか……二人は紛れもない家族なのだな。互いが互いを信頼しきっているのが見て取れる」


 む、それはおかしい。少なくとも俺は屋敷に入ってからとここで話した以外に親父と会話していない。少なくとも俺が美咲を信頼している素振りは見ていないと思うが――と、思考して一つのことが思い浮かんだ。


「親父、見てたか?」

「私の本棚に漫画本があるのは自然なことだろう? 慎二はあまり読まないが」


 そういえば、案内している時に美咲とそんな会話をした。つまり、間違いない。最初からこちらを尾行していやがった。

 大げさにため息をはいてみせる。それを合図に場の空気が一気に解けていく。張り詰めた空気の糸が断ち切られて、開放的になる。


「そりゃ、確かに漫画もいいけどよ。俺は小説のほうが好みだ」

「美咲ちゃんはどっちが好きだね?」

「え、えっと……」


 突然話を振られた美咲が戸惑いを見せる。わずかな逡巡の後、


「小説のほうが……好きです。あと、テレビも……ごめんなさい」

「そうか……悲しいが謝ることじゃない。趣味嗜好というものは人によって違う。大事なのは、それから何を得るか、だ。今は理解できなくても、いずれ解る」


 親父が言いたいことは解る。要するに、他者の価値観に触れることで結果として自分の価値観が広がるということだ。実際俺も本を読むことで価値観を広げれたと実感することが多い。

 俺の価値観――特に神々の在り方や魂についての価値観を構成する要素には、様々な本が少なからず影響している。


「そうだ、慎二。これを読んでおきなさい。あとで意見を求めたい」

「ん、もうそんな時期か」


 親父が書類を手渡してくる。親父の会社はあるテレビ番組のスポンサーで、時々その番組の意見を求めてくるのだ。その番組がマスクドドライバーシリーズだ。

 一ファンとしてはあまり読みたくないが、六年ほど前から関わっているので今更拒否するのもあれだな、と思う。ちなみにだが、もちろん守秘義務がある。

 美咲から見えないように気を付けながら資料の一枚目を読む。神話時代の力を使いながら戦う主人公、という企画らしい。美咲が楽しみにしている番組だ。迂闊なことは言えない。


「後でそっちの部屋に行くから、その時でいいか?」

「ああ。そうだ、昼食はどうする?」

「食堂に行くよ。母さんにも紹介したいし」

「わかった」




「その子が美咲ちゃんね。いらっしゃい」


 俺の母さん――桐山律子は、食堂で美咲に話しかけた。彼女の茶色い髪は地毛だ。包容力のある優しい人で、どことなくおっとりとした雰囲気の母さんは、目線を美咲に合わせている。


「は、初めまして……美咲です」

「初めまして、律子よ。かわいらしい子ね」


 優しく微笑む母さん。


「ね、あなたのことを聞かせてくれない?」

「は、はい」


 母さんは美咲の手を取って、椅子に座る。

 食堂は奥行きのある構造で、長い机と椅子が並べられている。一見するとシンプルな机と椅子だが、近くで見れば見るほど理解できる高級感がある。実際良い木を用いて作ったものらしい。

 母さんは美咲を膝の上にのせている。その光景は母と子、といった感じだ。美咲もその場所が落ち着くのか、おとなしく背中を預けている。

 その様子を見ながら俺は椅子に座り、資料に目を通す。主人公は古代メソポタミア神話に由来する特殊な力で戦うヒーローで、ほかにもギリシアだったり北欧だったりの神話に由来する力を持った登場人物が出る番組になる予定らしい。

 ――メソポタミア神話。最も古い神話と言われている神話だ。様々な物語が神話を構成する。俺も一通りよんだが、なかなか面白かった記憶がある。とりわけ世界の始まりを描いた神話のエヌマ・エリシュがよかった。

 神話の在り方は実にシンプルだ。人々の心の拠り所であり、同時に畏怖すべき者たちの物語。

 実際は心の拠り所になれば何でもいいのだろう。だから宗教に依存するでもいいし、他の何かに依存してもいい。とにかく人間は何かに依存しなければいけない生き物だ。そうしなければ自己を保てない。


「依存、か……」


 美咲は、何に依存していたのだろうか。ふとそう思った。彼女がいた家庭環境を考察するに、依存する対象があったとは考えにくい。

 そこまで考えて、あることを思い出した。ストックホルム症候群だ。

 より厳密にいうのなら違うのだろうが、近しいことだ。彼女の精神が生存のために彼女の両親と精神的なつながりを持つ。

 元々は人質になった人間が生存のために相手にある種の好意を抱くことを指す言葉だが、もしかしたら彼女もそれに該当するのかもしれない。けれど、それでも耐え切れずに逃げ出した。

 口元に鋭い痛みが走る。無意識のうちに唇を嚙んでいたらしい。それで気が付いた。自分の内部に渦巻く感情に。怒りに。

 とにかく、彼女は依存してはならない相手に依存して生きてきたのだと思う。そうしなければ自分を保てないから。やるせない気持ちになる。生を受けてからずっと、何年も何年も自分を傷つける者に依存しなくちゃいけないなんて。

 彼女は今も苦しんでいる。夜、彼女は寝言で止めて、と呟き続けている。体の痛みを感じなくなっても、心のほうが痛みを感じ続けている。


「慎二、大丈夫?」


 母さんの言葉で思考が途切れる。顔を上げると、心配そうな表情をする二人がいた。


「顔色が悪いけど、大丈夫?」

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ。ちょっと寝不足になってるみたいだ」


 苦しい言い訳だろう。けど、今はそれでしのぐしかない。だって、とっさに出てきてしまったのだから。


「そう……」


 母さんはやはり気が付いているようで、悲しげな表情を浮かべた。けど、美咲のいる前でつい先ほどまで考えていたことを言えるはずがない。


「慎二さん……」

「今日は早く寝るから大丈夫」

「失礼します」


 と、一人のメイドが食堂にお重を持ってくる。黒い三段重ねのお重には、おそらくおせち料理がぎっしり詰まっているだろう。


「ありがとう。いつもご苦労様」

「いえ。これが仕事ですから」

 母さんが労うと、そのメイドは嬉しそうに呟いた。俺もすべてのメイドを把握しているわけではないが、人見知りな部類なのだろうか。

 母さんがお重を開けると、色彩鮮やかな料理が詰まっていた。どれもいい素材を持ちいて調理されたものだと理解できる素晴らしい料理郡に、喉がなる。


「二人とも、しんみりしてないで食べましょう?」

「そうだな」


 母さんの言葉に同意する。空腹だったし、おそらくそれは美咲も同じだろうから、拒否する理由なんてない。


「いただきます」


 優雅な動きで手を合わせ呟く母さん。この人の動き一つ一つに優雅さが感じられるのは、彼女の育ちと性格だろう。

 どこかおっとりとした性格の母さんは、必然的に動きがゆったりとしたものになる。基本的にゆったりとした動作は落ち着いて見え、さらに育ちのいい母さんの体が覚えている動作がそこに加わることで優雅に見える、というわけだ。


「いただきます」

「いただきます……」


 美咲と俺も食事を開始する。最初に食べるのは数の子。塩気の効いた味もさることながら、ポリポリ、と体内に響く音がたまらない。歯ごたえのある食感もまた、面白さがあって良い。


「これは、ちょっと苦手です……」


 俺の真似をして数の子を一口食べた美咲がわずかに顔をしかめる。


「好き嫌いの分かれる食べ物だから仕方がないわ。こっちの玉子、甘くておいしいわよ」

「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして」


 まるで仲のいい親子だ、と思った。美咲もすでにかなり警戒心を解いているようで、全身を預けきっている。そういえば、最初にあったときや、輝子と遭遇した時も、案外あっさりと警戒心を解いていたな、と思い出す。


「ずいぶん気を許してるな、美咲。落ち着くかい?」

「は、はい。その……うまく言えないんですけど、悪い感じがしないっていうか、慎二さんと似た雰囲気っていうか……」

「なるほどね」


 悪い感じというのは一人一人違っている人間の本質だろうか。それらを感じ取る能力が彼女にはあって、それで心を許していい人間かどうかを判断しているのかもしれない。

 能力、と言っても超能力とかそういった類の者じゃない。その人の動作や口調等から感じることのできるモノ、つまり人間観察をして、その人柄を見抜く技術を会得しているということだ。少なくとも俺の推測では、だが。

 それは、身近にいた人が悪い人だからなのだろう。


「ん、これ美味いな」


 そんなことを考えながら口に放り込んだ、甘めのだし巻き玉子がやけにおいしかった。

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