ビジネス
「ごちそうさまでした」
一通り食べ終える。黒豆が程よい硬さ――食べやすさと歯ごたえを両立させた感じ――で実に美味だった。そのままお茶を啜ると、その渋さが味覚をリセットしてくれた。
「慎二、輝子ちゃんとはどんな感じなの?」
「どんなって、どういうことだよ」
「だから、好きなのかってことよ」
お茶を吹き出しそうになる。汚いので慌てて飲み込むと、気管に入って痛かった。
まさか母さんからそんな話題が出るとは思わなかったんで、びっくりだ。
「おま、母さん何言ってるんだよ。輝子とはそんなんじゃないって」
事実、輝子に恋愛感情を感じたことなんてない。そもそも、彼女とは幼いころから知っている仲で、今更意識する相手でもない。
「そうなの? 時々泊まったりするって、東堂さんのところの人から聞いたけど。それに毎日食事を一緒に食べているって」
「そりゃ、友達の家に泊まるなんて当たり前だろ。飯は――たぶんアイツなりの優しさだろうな。一人じゃ寂しかろうという同情心だと思う。あるいは何にも考えていない、か。とにかく恋愛感情なんてないよ」
「私はいい子だと思うけど、慎二は違うの?」
「そりゃ、良い奴だとは思う。美人だしな。でも、今更アイツに恋するなんて考えられない」
紛れもなく本当のことで、天変地異でも起こらない限りそうはならないだろう、という確証があった。
だいたい、友達というよりも家族のように感じている。長い付き合いの家族に恋愛感情を抱く人間ではないということも相まって、ますますその可能性の低さが増している。
「そうでもないわよ。私と拓海さんだって幼いころの付き合いだけど、互いが互いを愛し合った結果結婚に至ったのよ」
「そりゃ、そういった例もあるだろうけどさ」
そんなの、すべての人間に当てはまる事じゃない。というか親父から聞いた話だと、小学校の頃からおしどり夫婦だったとかいうじゃないか。
その直後、ふいに場が沈黙した。けど、それは心地の良い沈黙だ。ゆったりとした時間だけが穏やかに流れていく。世界が静止したような時間だ。
「待ったりできる時間っていいわよね」
「だな。ずっとこうして過ごしたいぐらいだ」
ぼんやりと天井を眺めてみる。しっかりと清掃された天井にはシミ一つない。だれがこんなにも頑張って清掃したのだろうか、と疑問に思う。
「そういえば、最近こっちはどうなんだ?」
「次の作品の打ち合わせで毎日忙しそうよ。アドバイザーがまだ見つかっていないんだって言っていたわ」
「確かにいろんな神話に精通した人材じゃなきゃ務まらんからな。難しいよな、そりゃ」
はてなマークを頭上に浮かべる美咲に気が付く。話についていけていないようで、少し申し訳ない気持ちになる。
「えっと、親父が企画しているテレビシリーズの新作の話なんだけどさ。神話をテーマにした作品らしくて、専門的な知識のある人が必要なんだって話」
説明してやると、なるほどといった表情を浮かべた。
「神話ですか――慎二さん、淡水を象徴する男神アプスーと共に原初のお方と呼ばれた海水の女神の名前ってなんでしたっけ」
唐突に美咲がそう聞いてくる。考えるよりも先に答えが口から出てくるのは、少なからず神話を学んだ者なら誰でもそうなる。
「ティアマトだろ? エヌマ・エリシュに登場する神」
「世界樹で首を括った結果、ルーン文字を得た神様は?」
「オーディンだな、北欧神話の。グングニールで貫かれながら」
「じゃあ……世界三大叙事詩とは一般的に、イーリアス、オデュッセイアと何を指す?」
「マハーバーラタ、意味はバラタ族の物語だったか。結構読んでいるんだな。けど、なんだってそんな質問をするんだ」
「詳しいのね、慎二。神話が好きなの?」
と、このやり取りを聞いていた母さんが割って入る。素朴な疑問、といった感じだ。
「物語としての神話が好きってだけだけどな。簡単なものだけど、同人サークルの依頼で監修するぐらいには」
母さんは何か考え込んだ様子を見せる。やがて口を開いて、
「それだけの知識があれば……慎二、本格的に参加してみるつもりはない? 私の推薦で参加できると思うけど」
確かに良い話だろう。本格的に参加となればそれなりの報酬も支払われるだろうし、それで次のマスクドドライバーのクオリティが上がるのならば、参加する意義もあるだろう。
だが、素人の俺が参加するということは、ある種の危険性を内包することになる。最悪の場合、作品のクオリティが落ちていく可能性もある。
それを解決するには、
「とりあえず試験的に参加してみて、それから本採用か決めるってのはできるのか? 可能なら参加してみたいと思うけど」
多分これしかない。
「ええ、もちろんそのつもりよ。さて、ここからはビジネスの話になるわ」
母さんの雰囲気が一転する。刺すような緊張感が場を支配する。
「悪い、美咲。先に部屋に戻っていてくれ。本とか勝手にに読んでも良いから」
であれば、美咲をこの場に居させる訳にはいかない。美咲もそれを察したのか、大人しく部屋を出ていく。
「頑張ってください、慎二さん」
去り際に彼女はそう言い残した。母さんは携帯を取り出してメールを打つ。
「応援されちゃ頑張るしかないわね、慎二」
「そうだな。親父はすぐに来るのか?」
「ええ。今返信が来て……もう着くって」
でかい屋敷とはいえ、所詮は家の中。ややあって、親父が食堂に入ってくる。
「慎二、参加したいとは本気か?」
俺の斜め前に座りながらそう問う親父。慣れた手つきでタバコに火をつける。
「ああ。母さんから聞いたけど、アドバイザーが見つかっていないんだろう?」
「まだ動き出したばかりの企画だからな。タイトルすら未定だ――ここから先は他言無用、解っているな?」
頷いて先ほど渡された資料に目を通す。
「シナリオ原案だけは上がっている。世界中の神話をモチーフにしたヒーローで、主人公の父親が敵として出てくるんだ。で、主人公はメソポタミア神話の力を使う、というわけだが……どう考える?」
「モチーフとしては面白いが、同時に危険性もあるかな。北欧やギリシャぐらいならともかく、聖書とかは使わないほうがいいと思う」
慎重に言葉を選んで喋る。どこまでがセーフなのか、という基準で言えば、おそらく他の作品でもモチーフとして多用されているもの――オーディンやメドゥーサなど――なら問題ないだろうと考えた。
「同感だ。企画段階である程度選定してある。問題があると思うものを弾いてくれ」「タイトル案も出して欲しい。何か関係性のある単語が良いんだが……」
「タイトルだけど……」
メソポタミア神話、ということを加味して何がいいか考える。あの辺で有名どころと言えばギルガメシュ叙事詩だが、有名すぎていささか面白みに欠ける。
と、先ほどの美咲とのやり取りを思い出して、提案してみる。
「エヌマ、ってのはどうだろうか?」
思い出したのはティアマトだ。
「エヌマ?」
「エヌマ・エリシュ。メソポタミア神話という大きな枠組みの中に、バビロニア神話ってのがある。で、その中の一つのタイトルで、意味は──その時上に」
「エヌマ・エリシュ…… 響きのいいタイトルだな。しかし、メソポタミア神話の中のバビロニア神話ってことは、ほかの神話もあるんだろう?」
「ああ、メソポタミア神話に多大な影響をもたらしたシュメール神話があるな。成立したのはシュメール神話のほうが先だけど、あえてバビロニア神話にした」
「あえて……そうか、父親か」
「ああ。元々シュメール人が考えた神話がメソポタミアの地にあったんだけど、彼らを支配したアッカド人が別の神話を作り出した。とはいえ似通った部分もいろいろ見受けられるんだけど」
「つまり、父親がシュメール神話の力を用いて戦う。で、主人公はそのアッカド人が作り出した神話の力で戦う。その神話がバビロニア神話、ということでいいのか?」
より厳密にいうのなら、バビロニア神話はアッカド神話という枠組みに入る神話だが、さしたる問題じゃないだろう。アッカド神話、という言葉がそもそも浸透していないのだし。
「なるほどな。確かに面白そうだ。他には――」
そうして、結構な時間議論を交わすことになった。
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