食事、そして呟き
念入りに髪を洗い、流石に体までやる訳にはいかないとやり方を伝えて浴室を出る。
それにしても参った。服はとりあえず俺のを貸すとしても、
「ヘアゴムなんて持ってないぞ、俺」
あの長い髪は邪魔になるだろう。結んだほうが遥かに良い。何か良いものはないかと思って、いろいろ考えてみる。考えてみるも、良いアイディアが思いつかないのでとりあえず服だけ用意して飯の用意をする事にした。
脱衣所の箪笥に入っている新品の下着──予備として置いてあった男性用のトランクスだ──とデニムジーンズに無地のTシャツ、トレーナーを取り出して、箪笥の上に置く。
「服、箪笥の上に置いておくから、前着ていたやつはカゴの中に放り込んでおいてくれ。で、服着たら脱衣所出て廊下を真っ直ぐ戻って、玄関の方に曲がらずにそのまま行ってすぐの部屋で待っててくれ」
声だけかけて一足先に先ほど説明した部屋──居間に向かおうとする。
と、そこで俺もびしょ濡れであることに気が付いた。服を脱いで、タオルで全身を拭く。念入りに手を洗ってから、新しい服を着た。
玄関から入って突き当たりを右に曲がると、左手に庭、右手にドアがある。
その中でも一番近いドアが居間というのは素直にありがたい。とりわけ疲れた時なんかは、ただの移動さえ面倒に思うものだ。
そしてその一つ奥の部屋がキッチンだ。居間と繋がっているから、利便性は完璧。そういうわけで居間に入り、電気ストーブの電源を入れてキッチンに移動する。
問題は、何を作るかだ。
「栄養失調だったな……カロリーとタンパク質を多めにして……」
冷凍庫を開ける。鳥もも肉があった。
「あ、でもいきなりクドイのはキツイよな。じゃあ、これを焼いてポン酢と合わせよう」
鶏肉をジップロックに入れ、氷水につけて解凍する。その間にサラダ用の野菜を用意して、まな板に乗せて切る。
「っと、電話しないと──アレックス、病院に電話」
アレックスとは人工知能のことだ。スマートスピーカー、とかそういう奴。キッチンの隅にひっそりといる。普段はそこまで存在を意識することはない。認識としては空間に話しかけるだけで色々やってくれる便利な物、といった感じだ。
数秒のコール音の後に、女性が電話に出る。
「はい、木城篠原クリニックです」
「桐山慎二ですけど、数時間後ぐらいにそちらに行きますので、篠原さんにお伝え願えますか?」
「桐山様ですね。かしこまりました。失礼いたします」
電話が切れる。木城篠原クリニックは、かかりつけの病院だ。幼いころからお世話になっている病院で、いろいろ助けてもらっている。今回のケースでは彼を頼るのが正解だろう。
電話をしながらも野菜は切り終えていた。レタスに細かくちぎったチーズをちらし、シーザードレッシングをかけただけの簡単なものだが、これが実に美味いのだ。
続いて電子レンジでお湯を沸かす。大きめの耐熱容器に水を入れてレンジでチン。
そうしている間に鍋を用意して、ニンジンとジャガイモを切って鍋に入れる。その後で炒めて、レンジからお湯を出して鍋に入れる。
アク取りをして、コンソメを入れて塩胡椒で味付け。少し具材が寂しいが、あくまで主菜は鶏肉だ。
そうしているうちに鶏肉が解凍できた。フライパンを火にかけて油を引く。油を全体に回してからトングで鶏肉を焼き始め──いい感じのところで火を止める。
「ま、こんなもんか」
居間とキッチンを隔てているドアを開けようとした時、黄色い箱が見えた。
「そうだ、輪ゴムなら……」
ヘアゴム代わりになりそうだ。
「っと、上がってたのか。お待たせ、美咲」
盆に料理を乗せてドアを開ける。大きいちゃぶ台の横、入口から最も近い場所に美咲がだいぶ不恰好な正座して待っていた。
服が少し大きいせいか、だらしなく見える。そればっかりは仕方がないとはいえ、いささかの申し訳なさがある。
盆の上に置いた白い丸皿に鶏肉を乗せ、ポン酢を掛ける。
お茶碗には白米──家を出る前にタイマーセットしておいた──を、小鉢にはサラダを盛り付け、スープ皿にはコンソメスープを盛り付けて盆に置く。
美咲の前に置いていく。一つおくごとに、美咲の目が見開かれていく。ご馳走を目にした時の子供のように。
最後に箸とスプーンを置いて、
「じゃ、とりあえず髪を結ぼうか」
と、髪を後ろで軽く束ねてやる。これで前は見やすくなるはずだ。
「これでよし。っと、食う前に聞くけど、アレルギーとかあるか?」
彼女が首を傾げたので、
「食ったら体が痒くなる、とか苦しくなる、とか」
「無い……です」
「じゃあ大丈夫だな。召し上がれ」
「あ、あの……本当にいいんですか、こんなに凄いの……」
「ああ。言っておくけど、遠慮することなんかないからな。美咲は今栄養が圧倒的に足りてないんだ。だから、腹一杯食えよ」
「あ、ありがとうございます」
彼女が恐る恐るスプーンを手に取る。何かに怯えるように、ゆっくりとスープをすくって、口に運んだ。
「あっ……美味しい……」
彼女が呟くと同時に、頬を一筋の涙が伝うのが見えた。
「あ、変だな……痛くないのに、熱くないのに……止めなくちゃ……ごめ、ごめんなさい……」
その姿があまりにも小さく見えた。これから来る痛みから逃れようと、ひたすら謝り続ける。
胸の奥が痛む。なんで、彼女が謝らなければならない。なんで、彼女が苦しまなければならない。
誰が彼女をこんな風にしたのか、それはわからないけれど、その人物に腹が立った。
気がつけば、抱きしめていた。
「……え?」
折れてしまいそうなほど細く、あまりにも痩せすぎた体。この小さな体で、どれだけの時間耐えてきたのだろうか。
「大丈夫。痛くなくても泣いていいし、無理して泣き止まなくてもいい。ここは安全だから、思う存分泣いていいんだ」
優しく背中をさすってやる。こんなになるほど辛い思いをしてきたんだから、もう解放されてもいいんじゃないか。
「あ、ああ……」
彼女はただ、泣いた。俺の腕の中で。大声を上げる体力さえ残っていなかったのだろう。静かに、泣いていた。
「わたし……痛かった……熱かった……寒かった……苦しかった……」
やがて、小さな声で、神に罪を告白するかのように呟き始めた。
「辛かったな……」
「うん……辛かった……」
それっきり言葉はなかった。どれほどの時間か、長かったのか短かったのかわからないけれど、とにかく抱きしめていた。
やがて、美咲はゆっくりと泣き止んだ。目は赤く腫れ、涙の線が頬に走っている。
「さ、食べよう。泣いたらお腹が空いただろ?」
美咲は小さく頷いて、食事に戻った。ゆっくりと、その味を確かめるように。
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