出会いはいつも突然に

「おい、慎二。知ってるか?」


 俺の友人である北条清が言う。場所は教室、三階の三年四組午後三時。


「商店街に幽霊が出るって話。怖いよな」


 俺の前の椅子から、器用に首だけをこちらに向けているこの男は、噂が好きだ。芸能人のスキャンダルだとか、心霊スポットだとか都市伝説だとか。

 が、正直に言って俺は幽霊という概念をそこまで信用しているわけじゃない。


「知らない。神話時代ならまだしも、現在において幽霊なんて非現実的というかなんというかだ」

「そりゃそうだがね。お前の家、商店街の向こうだろ。危ないんじゃないかと思ってな」

「心配ありがとう。けど、大丈夫だよ。だいたい、幽霊ってのは夜に出るもんだろ? 俺が帰る時間はまだ明るいし問題ないと思うけど」

「そうだけどよ」


 と清が肩をすくめた。


「あと、根本的な話として問題が起きているなら商店街は大騒ぎだろ? 幽霊騒ぎならなおさらな」

「確かにな……」


 清が納得したような風に頷く。根拠として用意していたもう一つのモノ、冥界の話題を持ち出す必要が無かったのは幸いだ。様々な神話において語り継がれている、死した魂の行きつく先。最も、それが本当にあるとは思ってないが。

 俺が清を論破したのとほぼ同時に、大きな音がし始めた。唐突な大雨、あまりに最悪なタイミングでの予期しないソレは、あまりに最悪と言えよう。


「うわ、マジかよ」


 それに反応した清がスマートフォンを弄り始めた。


「ほら、見ろよ」


 彼が見せてきたのはこの辺りの地図だ。青色に覆われているのを見るに、この雨はしばらく続きそうだ。雨が上がるのを待っていると、夜遅くなってしまうだろう。


「最悪だな。いつまでもやまない雨か」

「ああ、しかも強くなるってよ。さっさと帰ろうぜ」

 



 清とは商店街前で別れる。商店街を挟んで奥にあるのが、俺の住む屋敷を含む和風な街並み、商店街に入らずに真っ直ぐ進むと、洋風な建物が集中する街並みがある。

 雨はさらに強くなっていく。傘を持っていないことにげんなりしながら走った。

 傘代わりに通学用のリュックサックを頭に乗せて雨を凌ぐ。教科書が濡れない事を祈るしかない。

 天気予報によれば今日は一日曇りの予定だったはずなのだが、現実はこうだ。俺の中で天気予報の信用度がガタ落ちである。


「しんちゃん、今日はどうするの?」


 馴染みの精肉店のおばちゃんが声をかけてくる。


「悪い、今日は魚なんだ!」

「おい、慎二。いま魚っつったな?」


 今度は魚屋の叔父さんだ。


「ああ、けど傘を忘れたから後で来るよ!」


 走りながら返答する。彼らとは長い付き合い──俺が赤ん坊だった頃からの知り合いだ。今更敬語を使うのもあれなので、タメ口のまま。

 そうしてさっさと通り抜けようとして、


「──ん?」


 何か、放って置いてはいけない者が見えた気がした。

 三歩通り過ぎて、三歩戻る。気のせいだろう、と思ったが気になってしまった。

 場所は弁当屋横にある裏路地。この弁当屋は廃棄になった弁当を、容器と分けて裏路地にあるゴミ箱に捨てる。一日二回、業者が回収に来ているらしい。

 そのゴミ箱を何かが漁っているように見えた。気のせいだろうと、猫か何かがいただけだろうと思いながら薄暗い裏路地を覗き込む。

 果たしてそれは、確かにそこにいた。


「おい」


 声をかけると、ソレはビクリと体を震わせた。恐怖の混じったヒッという声と共に。ちょっと高めの声は、子供──女の子のものだ。

 動く黒い毛玉。第一印象はそんな感じだった。次いで思ったのは、目を凝らせば耳と尻尾が見えそうなほど猫に見えるという事。その小ささも相まってそう見えたのだろう。今にも餓死しそうで、必死にゴミを漁る野良猫のようだ。

 けれど、紛れもなく人間だった。獣のような臭いをさせていようとも、人間だ。その人間は、ゆっくりとこちらを振り返る。その人間は震えていた。恐怖心を体全体で表現している。

 ──小さい。

 その人間──少女はに対してそう思った。

 無造作に伸びた髪は、雨に濡れているのもあるのだろうが、素人目に見ても痛みまくっているように思う。その髪の間から覗く顔は明らかに肉が足りていない。それに顔色も悪く、ちょっとの風で簡単に折れてしまいそうだ。


「あ、その……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 泣きそうな顔でそう謝る。もう一歩も歩けない、と言わんばかりにへたり込んだ。

 体を覆い尽くす髪の間から足が見える。筋肉はほとんどなく、皮を剥げばその下は間違いなく骨。

 この子の親は何をしているのだ、という気持ちになる。この現状は異常だ。栄養失調であることは間違いないだろう。


「ああ、その……とりあえず親御さんは?」


 少女は答えない。ただ、沈黙だけが答えだった。しかしながら、それではラチが開かない。


「じゃあ、警察に相談して──」

「あ、その……警察は……」

「大丈夫。そもそも俺はこの店の人間じゃない。だから勝手に食ってたことを責めたりはしない」


 けど、子供がゴミ箱を漁って食べ物を探すなんておかしいと思う。彼女がそうするのは生きるためなのだろうけど、本来はそんなことをしなくても良いように親が養育しなくちゃいけない。法律上もそうなっているはずだ。


「違、う……けど、警察は……」


 少女は露骨にうろたえる。

 なんとなく、この少女を警察に連れて行ったら行けないような気がした。彼女は警察に対して信用を置いていないようだ。


「訳ありか……じゃあ、とりあえず家に来い。風呂と飯ぐらいなら用意してやる」


 リュックサックを背負い、手を差し出す。少女はゆっくりと手を伸ばして、俺の手を掴んだ。すごく硬い手に感じられる。女性的な柔らかい手ではなく、骨しかない手だ。それに、氷のように冷たい。

 ゆっくりと引っ張り上げた──少なくともそのつもりだったのだが、想像していたよりずっと軽い少女に驚くと同時に、勢いよく引っ張ってしまう形になってしまった。


「っと、ごめん」


 それに対して、一切の抵抗が無いのが気になった。通常、勢いよく引っ張られればとっさに肉体が反応し、結果抵抗する。

 しかしそれすらも無いとは。これでは家まで歩くのは無理だろう。それに彼女の心境を考えるに、すぐにでも食事にありつきたいはずだ。


「──よし、しっかり掴まっていろよ」


 彼女の足に左手を回し、右手で体を支えて持ち上げる。俗に言うお姫様抱っこだ。

 抱き抱えていると、その体臭がかなり鼻につく。実家の犬を思い出すな、なんて考えながら移動を始めた。もう亡くなってしまった犬だが、彼のおかげでこの手の臭いには結構慣れていたから問題はなかった。




 商店街を抜ける。交差点を曲がり、急いで家に帰る。雨が視界を遮って視認性があまりに少ないが、それでも帰りなれた道は足に馴染んでいて転ぶことが無かった。

 家に到着する。少女を降ろしてから鍵を開ける。家に入ってまずやるべき事を考える。食事を用意しなければいけないが時間がかかる、なら先に、


「風呂だな。こっちだ」


 リュックサックを下ろして廊下を歩く。突き当たりを左に行くと脱衣所と浴室がある。ドアを開けて脱衣所に入ってタオルを取り出し、少女に手渡した。

 次いで浴室に入って白色の機械のボタンを押す。自動湯張りのボタン、風呂の用意をしてくれる魔法のボタンだ。


「俺は着替えを用意してくるから。先に体やら髪やら洗っているうちに風呂が沸くだろうから、ゆっくり浸かって温まること。いいね?」


 浴室から出ようとする。しかし、服が引っ張られる感覚に止められた。ほんのちょっと、気がつくかどうかというレベルの力だ。


「あ、その……ごめんなさい……」

「構わないよ。どうかした?」

「あ、あの……体の洗い方、知らないのです……」


 おどおどと少女が言う。これには参った。知らぬからと生まれたままの姿にさせて洗うわけにもいかないだろう。少し考えて、


「よし、じゃあこれを体に巻きつけてくれ」


 新品のバスタオルを脱衣所の棚から取り出して浴室に戻り、少女に手渡す。彼女がその場で服を脱ごうとしたので、慌てて脱衣所まで引き返す。見知らぬ女性の裸を見るのは忍びない──少なくとも俺はそう思う。


「巻き終えたら言ってくれ」

「は、はい……あの、終わりました」


 ズボンの裾をめくり上げて浴室に入る。まず目に入ってきたのは少女の姿。全体的に痩せすぎていて、まともに栄養摂取していないことがわかった。

 それをただ無感動に確認する。というよりも、無感動になろうとした。必要以上に情を移しては駄目だ、一時的な保護にすぎないのだと思って。

 それでも、可哀想だと思う。どうしてこうなってしまったのか、誰も気がついてやれなかったのか。親は何をしていたのか。思考が巡り、怒りになる。

 深く息を吸い込む。思考をクリアに、冷静になれ。今は怒る時じゃない。目の前にいる少女を綺麗にしてやる事が、最優先事項だ。

 少女を椅子に座らせて、シャワーヘッドを手に取る。彼女の後ろから手を伸ばしてレバーを倒し、手で油温を確認する。問題ないことを確認してから、


「熱かったら言ってくれ」


 優しく彼女の髪にかける。暖かい、と彼女が小さく呟いた。その暖かささえも珍しいものだったのか、噛み締めるように言ったのだ。それが衝撃だった。

 紀元前──今よりずっと昔の人でさえ、温水の浴室で体を洗えたという。

 その時代の人でさえ温かい湯につかる事が出来ていたというのに、現代に生きるこの少女はそれを珍しいものとして捉えるなんて。

 意識をその思考から彼女の髪に戻す。彼女の髪を通ったお湯は、茶色く濁っていた。これは骨が折れそうだ。

 一通りお湯をかけたところでシャンプーを手に取り、手のひらで泡だてる。彼女の頭頂部から丁寧に洗浄していき、時間をかけてマッサージしていく。


「なあ、大事な事を聞き忘れていたんだけどさ」

「な、なんですか……」

「いや、名前を聞き忘れていたなって」


 その事に気がついたので、そう問いかける。


「な、まえ……」

「そう、名前だ。俺は桐山慎二」

「名前は……無い、です。いつも、お前やガキとしか……」


 声が出ない。もしかしなくても、彼女は人として扱われていなかったのだろう。それで察してしまった。


「そうか……」


 そう呟くことしかできなかった。

 ふざけている。彼女には何も無い。何も与えられなかった。子供であれば当たり前に享受しているはずの物を、何も与えられずに育った。それを理解したから、その事実が無性に腹立たしく思えた。


「じゃあ、名前を付けないとな」

「なんで、ですか……お前でも、わたしは平気ですから……」

「馬鹿言うなよな。平気ならさ、なんだってそんな泣きそうな声してるんだよ」


 本当に腹立たしい。名前一つ素直に受けとれない子供に育てた彼女の親に、周囲の人間に、そしてそういった子たちがいる事を知らずにのうのうと生きてきた自分に腹が立った。

 だから、俺は彼女にできる事をしたいと思った。せめて、手を伸ばした者だけでも助けたいと。たとえわずかな時間でも、その思い出が彼女の支えになってくれるように。その最初の一が名前だ。

 シャンプーのラベルが目に入った。花のイラストだ。


「美しく咲く花か──美咲。そうだ、君の名前は美咲だ」

「美咲……」


 彼女が噛み締めるようにその名前を繰り返す。


「ありがとう、ございます……」

 

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